ケンのブログ

日々の雑感や日記

刑事コロンボ

2021年09月29日 | 日記
緊急事態宣言が今月末で終わると新聞に出ている。

今後は規制を徐々に解除していくという主旨の記事が書いてある。

これまでの緊急事態宣言の終了時に比べると新聞にもかなり希望的観測が書いてあるように思う。

本当に希望的観測のとおりになるといいなと思う。

けれど、一方でワクチンと検査の証明書の活用の話になると、色々と面倒だなと思ってしまう。

できれば証明書などの利用がそれほど広がることなしに規制が緩和されていくといいと望んでいるのだけれど、、、。

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ここ2,3日、自転車で道を走っている高校生を見ることが多くなった。

高校生が自転車であちこち走る光景が見えるのは田舎の風物詩だと思う。

都会は自転車に乗ると言っても駅までとか近距離の場合が多いから。

僕が通っていた高校の校区の最西端あたりを自転車で走っている子を見ると、よくぞここまで来た、頑張れと思ってしまう。

自転車のサドルから腰を浮かせて、トライアスロンの選手が坂道を登るときのようなフォームで自転車を漕いでいる子も多い。

そういうの見ると青春だなと思う。

眺めているから楽しそうに見えるだけで本人たちはコロナでつらい目をしているかも知れないけれど、、、。

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今日はいやに蒸し暑いなと思ったら新聞に台風が接近していると出ている。

関係あるのだろうか。

あるようにも思う。

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冷蔵庫を開けたら、宇治抹茶プリンが入っていた。

「これどこのプリン?」と僕が言う。

「ああ、それ、コロンボのプリン」と母が言う。

「コロンボは刑事コロンボや。プリンの名前やない」と僕が言う。

「そうか」と母が笑う。

「器を見ればわかるから」と僕。

器を見たらモロゾフと書いてあった。

なぜ、モロゾフがコロンボになるのか。

忙しくて意識が上の空になっているのかも知れない。

昔、アイスクリームの名前、ハーゲンダッツがなかなか覚えられなくて

アルバイトに来ていた子に「〇〇さんの好きなアイス、エルデンレーベンやったっけ」と僕が言ったら、その子が大きな声で、「ハーゲンダッツ❢」と言ったからそれでやっと覚えられたことを思い出した。

それはともかく いちにち いちにち  無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。

去りゆくものを惜しむ

2021年09月29日 | 日記
新聞の紙面を見ると緊急事態宣言が解除になるらしい。

うれしいというよりも、緊急事態宣言の解除によりまた、ひとつ生活様式が変わるなという気持ちのほうが強い。

緊急事態が出て解除という道を何度も繰り返してきたせいもあると思う。

緊急事態宣言が解除されれば、それだけ不自由の度合いは確かに下がるとは思う。

しかし、緊急事態宣言という条件下で、工夫して作った習慣もまた変えなければならない。

そういういことをあれこれ考えると、まあ、緊急事態宣言の解除は歓迎だけれど、ちょっとメランコリックな気持ちもあるなと思う。

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イエスの主の祈りの中に

私達が私達の負い目を許しましたように、私達の負い目もお許しください

という一節がある。

※負い目に関しては罪と訳す場合もあるし、負債と訳していたバージョンもあったと記憶している。

この一節は、負い目があることはお互い様、ということも表していると思う。

完璧な人など誰もいないのだから、それはやはりお互い様という考え方は大切だと思う。

白鵬の引退を報じる新聞記事にこんな記述がある。

“”矢野弘典横綱審議委員長は「(白鵬の)実績は歴史に残る」としつつ「横綱は模範となる存在でないといけない。十分に反省して、相撲道の良き伝統を伝えていってほしい」と注文した。“”と。

この発言は記事の前後関係を読むとおそらく横綱審議委員会が開かれた機会の取材に答えたものと思われる。

なので、白鵬に反省を促す内容を一部含むコメントになっていると思う。

ただ、これだけ、過去に誰もなし得なかった、勝ち星などを上げた人が引退するのに、その人の労をねぎらい功績を称える発言になっていないことは、個人的にはとても寂しい気がする。

こういうときは過去のことは水に流して、去りゆくものを惜しみ、そして讃えようという気持ちは私達、日本人が本来持っている気質であるように思うから。

なにしろ禊(みそぎ)によって神様が生まれてきたという神話を持つ国に私達は生まれてきたのだから。

お互いに負い目があるという考え方からすれば、横綱の品格も問われるかもしれないけれど、こういう発言をする横綱審議委員長の品格もまた必ず問われるような気がする。

そういうものであると僕は思う。

あまり、反省、反省と、他人に反省を強いるのも、ある意味、上から目線のおせっかいであるようにも思う。

パウロが律法ではない、信仰である と言ったのも

律法が中心になると、私達は律法が守れないと、罪の意識を感じ反省ばかり強いられることになってしまう。

そういうことを戒めるために、パウロは律法ではない信仰であると言ったと思う。

こういう機会に、本当に規則でがんじがらめになってしまっている今の世の中、そしてそこからくる私達の意識のありかたというものを考え直してみるべきたと思う。

それはともかく、いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。