ケンのブログ

日々の雑感や日記

遠くから見ると

2021年09月24日 | 日記
大阪では歩いていたので、畑のすみなどに彼岸花を見つけることが多かった。

いまは、自動車で川を渡るときに川の土手に彼岸花を見つけることが多い。新聞にも揖斐川の土手に彼岸花がいっぱい咲いていると出ている。

土手の花っていいものだなあと思う。

松任谷由実さんの「守ってあげたい」という歌の歌詞に次のようなフレーズがある。

“”日暮れまで土手にすわり レンゲを編んだ

もう一度 あんな気持ちで 夢を形にして“”

土手にすわってレンゲを編むって、懐かしい心象風景だなと思う。(レンゲ編んだことないけど、、男やし)

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道路の脇にこんな標語があった。

「守ろうよ 心と車両の ディスタンス」

まあ、ソーシャルディスタンスという流行語と言うか、今の標語を使ってこのような交通標語ができたと思う。

ただ、僕はちょっとあることをきっかけに、突拍子もない記憶が蘇ることがある。

この標語を見た時、ふっと心に、ベット ミドラーの

from a distance という歌のフレーズが心に浮かんだ。

こんなフレーズだ。

“”From a distance

the world looks blue and green.

From a distance snow capped mountains (looks)white.

From a distance the ocean meets stream.

And the eagle takes to flight.

中略

God is watching us

God is watching us

God is watching us from a distance.“”


日本語にすると

“”遠くから見ると世界は青くそして緑に見える

遠くから見ると 雪に覆われた山は 白く見える

遠くから見ると海は川と出会い

鷲は飛び立とうとしている。

神は私達を見ている。

神は私達を見ている

神は私達を遠くから見ている“”

と こんな感じになると思う。

ソーシャルディタンスと言っているより、こんなふうにdistanceという言葉を使うと
それは大きな風景が広がるなと思う。(今はソーシャルディスタンスも大切やけど、、)

遠くから見ると世界は青くそして緑だといいなと思う。

そんな世界が保たれると、、、。

神は私達を遠くから見ているというのはきっと「いと高きところには神に栄光」というキリスト教の考え方から出てきたイメージだと思う。

そういう大きなイメージが壮大な西洋の音楽を創り出したのかもしれない。

チャップリンは「神は私達の心の中にある」というルカによる福音書の言葉を
映画「独裁者」の最後の演説の中で引用している。

心の中にあると考えたほうがいいようにも思う。

目に見えないものなので捉え方は人それぞれだけれど。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。





パチンコ コロナ

2021年09月23日 | 日記
秋分の日。

暑さ寒さも彼岸までとよく言うし、それはきっと本当だとずっと思ってきた。

でも、今日は特に昼間、暑かった。夜も結構暑いけれど、、、。

自動車で川にかかった橋を渡る。

川岸に彼岸花がかなりたくさん咲いていた。

歩いていたら立ち止まって眺めるところだけれど、自動車に乗っていて、いきなり止まって彼岸花を見るわけにも行かない。

自動車で行動するようになると、思い立ったときに立ち止まって、花を眺めたりとかそういう機会は減るなと思う。

花を見るためには、基本的には、その目的に沿う形で、自動車をどこか安全な場所に止めなければならない。

歩きには 歩きの良さ 自動車には自動車のよさがあると思うけれど。


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割と繁華な交差点の一角にパチンコ コロナ という名前のパチンコ店があった。


営業中という登りがいっぱいはためいている。

この時期にコロナという名前のパチンコ店 どうなのだろう。人が入っているだろうかと思って眺めてみた。

あまり、人が入っていない感じだ。

この時期にそれこそ名前が禍(わざわい)しているのだろうか?何しろコロナ禍だから、、、。


そんな話を母にすると

「コロナに便乗して コロナって名前にしたけど、あかんかったんやろうか」と言った。


「いや、違う、パチンコ コロナ という電光掲示板の文字が古ぼけていたから、コロナになるずっと以前からコロナという名前やったと思う」と僕は言った。

「そんなふざけた名前のパチンコ屋あるの?なんか、おちょくってるんやないの」と母が言った。

「いや、コロナという名前は昔からいろんなところに使われてる。トヨペットコロナという自動車の名前もあったくらいやから」と僕は言った。

母の言うことが微妙にピンぼけなのは、そもそもパチンコと無縁の人生を送っているのでパチンコ店の名前に関する予備知識がないためか、それとも歳のせいか、忙しいからか。

いろんな要因があると思う。

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大阪にもコロナという名前のホテルがある。

駅に近いビジネスホテルで、案外お値打ちな価格で宿泊できる。

そのことを僕はずっと以前から知っていた。

大阪から、岐阜に移る過程で、ちょっとホテルで宿泊しようと思ったときに、そのコロナという名前のホテルも心に浮かんだ。

しかし、やっぱり、今はコロナという名前のホテルはなあ、と思ってやめた。

どちらかというと極めて主観的にコロナよりもワクチンにビビっている僕だけれど(注射が苦手というのもあるし)やはりコロナという名前のホテルは避けてしまった。

きっと、そういうところは、名前を気にしているのだとおもう。

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芹沢光治良の「人間の運命」という小説の次のような記述が目に止まった。

それは、主人公の次郎が友人の石田に対して思いを巡らせるこんな記述だ。

“”(石田は)読書しても、その著者に向き合って対談しないで、ただ、著者から話を聞いて気持ちよくなっていたのだ。その結果、外国に何年暮らそうが、東西の書物をどれだけ読もうが、石田孝一は大学を出た頃とさして変わらない石田孝一だろう。“”

書物に限らず、芸術作品に接する時、それを作った人と対談する気持ちになるって、大切なことだろうと思う。

人とのおしゃべりということがなくても、こういうことを通じて私達は、人と対談できる、そして、それは、単なるおしゃべりよりもあるいは有益なことかもしれない。そのように考えると、孤独ということは、案外さびしいことではないかもしれない。もちろん、誰も一人では生きていけないけれど。

それはともかく、いちにち いちにち、無事にすごせますように、それを第一に願っていきたい。







二度目の請求書

2021年09月22日 | 日記
国民健康保険料をいろんなどさくさで収め忘れていて、督促状兼払込票が自治体から送ってきた。

それも、しばらく忘れていて、督促状に書かれた納付期限も二週間ほど過ぎてしまった。

これは、まずいと思い市役所に電話で問い合わせると、納付期限を過ぎているのでコンビニでの支払いは不可、しかし、金融機関なら大丈夫との回答を得る。

それで、地方銀行へ。

番号を呼ばれて、カウンターへ

銀行員の女性は督促状を入念に見て
「これは二度目の請求書ですね」と言った。

「はい、そうです」と僕。

督促状です と言おうと一瞬思ったけれど、せっかく「二度目の請求書」と気を使って言ってくださっているので僕も はい、そうです と言った。


「これが発生するかどうか確かめます」と銀行員の方は督促状の小さい文字を指さして言う。

字が小さいのでコレって何かわからない。

ただ、銀行員の方が2回位コレが発生と繰り返された時、なんとなく、ああ、督促状の納付期限もすぎているので、遅滞金のことだなと状況的にわかった。

「ああ、字が見えなかったのでわからなかったですが、今、おっしゃることの意味がわかりました」と僕は言った。

すると銀行員の方は「では、(遅滞金が)発生するか市役所に問い合わせるのでこの番号札でしばらくお待ち下さい」と言って8番の番号札を僕に渡してくださった。

まあ、遅滞金が発生するかどうかって、大阪でも同じケースで銀行にいったことあるけれど、基本的に銀行員の方は督促状に書いてある金額を機械的に処理するという感覚で、銀行員が市役所に問い合わせというのは経験したことがない。

地方銀行だな、しかも田舎の地方銀行だなと思った。

そんなことを思ってぼーっとしていたら銀行員の方が僕の方を向いて「番号8番の方」と呼ばっている。

そうか、8番僕やったと思い出した。

「ボーッとしてたわ」と小声で独り言、いいながらカウンターへ。

銀行員の方は「遅滞金はありませんでした」と言って、督促状に書かれた額面で処理してくださった。

まあ、丁寧といえば丁寧、まどろっこしいといえば、まどろっこしいと思う。

自分でも市役所に問い合わせて、コンビニはダメだけれど、金融機関は大丈夫と言われているのだから、大丈夫と思ったけれど、まあ、僕も慎重を期してそのことは黙っていた。

こういう田舎式の丁寧さが逆に都会の感覚だとトラブルを生むことがある。

要するに、自分でも市役所に問い合わせたんやから、二度手間で時間を取らせるなというトラブルが都会では発生しやすいということだ。

大阪の感覚がまだ抜けきらないでいると、こういう田舎の丁寧さが嬉しくもあり、またカルチャーショックだったりもする。

少しずつ慣れていきたいと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。

赤かぶらは らっきょに変更になる場合あり

2021年09月21日 | 日記
カレーのチェーン店で、店舗限定で飛騨牛カレーというメニューが出ている。

そのメニューを見ていたら、「赤かぶらの酢漬けは、原材料の調達状況によりらっきょの甘酢漬けに変更になる場合があります」と書いてあった。
※飛騨牛カレーと赤かぶらの漬物がセットのメニューになっている。


赤かぶらの酢漬けがらっきょの甘酢漬けに変更になる場合があるって、まあなんとも言えず牧歌的な但し書きだなと思う。

全国チェーンのカレーショップだけれど本社は確か愛知県だし、まあ、こういうのも地域性のある但し書きだなと思う。

赤かぶらの漬物が好きな人は、この地域には多いから、、、。

大阪の南の方のラーメンのチェーン店で「ラーメンのご注文なき方が、メンマのみ食べるのはお断りします」という但し書きを見た時も、南やなあと思ってちょっと感動したけれど、、、。

チェーン店の但し書きにも地域の特色が出るということではないかと思う。

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名古屋の温度は気象台発表の温度よりも暑いのではないかといううわさがあって、実際に1300万円を投じて名古屋の市役所の庁舎の敷地で気温をはかったら、結局、日によって気象台ではかる気温が高い日もあれば、市役所の方が高い日もあり、勝敗は五分五分で一概に、気象台発表の気温は低いとは言えないとわかったと新聞に出ている。

それよりも、気温は同じ場所で測ることで、気象の変化もわかるので、異なる場所で測るのは意味のないことという主旨のことも書いてある。

まあ、それも言われてみればそうだなと思う。

気象台のあるところと市役所では標高も変わらないし、むしろそれほど気温は変わらないと考えるのが普通なのだと思う。

ただ、芝生の上で測定するのと、アスファルトの上で測定するのではそれは違うと思うけれど、、、。

気象台発表の気温より暑いと言っても、何と 何を比較して暑いのかというのをちゃんと意識しないと話がうやむやになってしまう。

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岐阜県内(コロナの)自宅療養者が一ヶ月ぶりにゼロになったとも出ている。

岐阜のように田舎の県は人口が少ない分、行政の目が行き届くからこういうスッキリした結果が出やすいのだと思う。

大阪のように人口が多くて、もっと多様性に富んだ自治体だとなかなかこうはいかないように思う。

ただ、自宅療養者がいないということは、ようするにコロナになったら入院と言うことと思われる。

入院しなければならないというのも、それは、それで怖い話で、普通のインフルエンザのように、薬を飲んで一週間家でおとなしくしていれば、もう外に出ていってもいい となることが本当は望ましいのだと思う。

また、そうならない限り、いわゆるコロナ禍というものは収束しないように思う。

ここまでくると、コロナがなくなるのか先か、人のコロナに対する意識が変わるのが先かという状況になっていくのではないかとも思う。

ワクチンももちろんコロナに有効と思うけれど、治療薬ができるなどして、コロナにもしなっても怖くないさと思えるようになるのが一番大切と考える。

そうなるといいと願っている。

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中秋の名月と言うけれど、月は曇り空で見えなかった。

“”きりしぐれ 富士を見ぬ日ぞ おもしろき“” 松尾芭蕉

というきもちになりたいとは思う。

こういう季節はゆったりした音楽も似合うように思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。



超高齢化社会

2021年09月20日 | 日記
敬老の日にちなんで、今日の新聞に65歳以上の人口が過去最多の3640万人になったと出ている。

総人口の29.1%と出ている。

国民の3人に1人近くが65歳以上かと思うと愕然とする。

団塊ジュニアの世代が65歳になる2040年にはこの数値は35.3%になる見込みと書いてある。

それは、こんな人口構成では、経済も立ち行かなるはずだと思う。

それに、コロナ。

ワクチンもできるだけ多くの人に打ってもらうという政策が模索されるのも経済ゆえと思えてくる。

経済が立ち行かなくなればコロナでしんどい目をする人よりも経済でしんどい目をする人のほうが多くなるのかも知れない。


イタリアでは労働者に接種を義務付ける政策が実施されると新聞に出ている。

もはや、接種を義務付け、あるいは、半ば義務付けという国も欧米にはあるようだ。

ただ、イタリアはルネサンスの国であると同時にファシズムが起きた国でもあるので、イタリアがやっている政策だから日本でやっても、ということにはならないような気もするのだけれど、、、。

イスラエルでは2回接種の効果が薄れてきて、3回め接種をしないとワクチン証明書が無効になる動きだと出ている。

イスラエルは、パレスチナとの戦争がたえない国だから、ちょっと事情がことなるかも知れないけれど、あまり、強制ということをしていたら、3回目も義務、となって、ワクチンを投与し続けなければならないことになるのか、、、。


本当に心配しだすときりがなくなってしまう。

すべてが僕の取り越し苦労であることを祈るばかりだ。

コロナからまた人口の話に戻るけれど、高齢者の人口が増えたので社会保障が支えきれず70歳まで企業は労働者を雇用することが努力義務と新聞に書いてある。

他方で男の健康寿命(寝たきりや認知症にならずに生きられる寿命)は72.14歳(2016年)と出ている。

要するに70歳まで働くというのは健康寿命ギリギリまで働くということか、仕事をやめたらあとは2年くらいしか健康寿命はない。

と統計どおりに考えるとそれもわびしいし、、、。


これだけ、みんなが高齢になってからも働くと、僕のように早めに仕事の一線から退いてしまった者は申し訳なさを感じることもあるし、、、。

これでは若い人も何に希望をもったらいいのか、わかりずらい世の中と感じる。

もう、このような状況になってくると本当に人類が生き延びられるのかどうかも怪しいと考える人もでてくるだろう、というか、僕自身も本当にそのように考えることもある。

ノアの大洪水のような時代かも知れないと、、、。

そんな中、なんとか心のよりどころ、心の支えを自分なりに見つけていきたいとは思う。


そんなことをあれこれ考えていたら、今日テレビに出ていた松任谷由実さんのANNIVERSARYという歌の歌詞のこんな一節が心に浮かんだ。

“”今はわかるの 苦い日々の意味が
ひたむきならば やさしいきのうになる“”

ひたむきでいられればいいなと思う。できればやさしいきのうになることを夢見ながら、、、。

それはともかく、いちにち いちにち 無事にすごせますように、それを第一に願っていきたい。