朝ドラの「ひよっこ」で、ビートルズ来日時の騒ぎが楽しく描かれていたので、あの時代を生で体験した“本物のビートルズファン”が書いたものを読みたいと思っていた。そんな折、偶然、ブックオフで見つけたのがこの本だった。
ビートルズ来日時の1966年。主人公の14歳の少女が住む小さな田舎町には、ビートルズのファンは彼女一人しかいなかった。そこにビートルズファンの少女が東京から転校してきて同級生となるが…。
「わたし=平山喜久子」と家族(父と姉)、町の大人たち、クラスメートとの交流を描きながら“あの時代”の一断片を再現している。
筆者の岩瀬成子さんは山口県出身で高名な児童文学者らしい。オレよりも10歳年上だから、恐らく主人公の喜久子は彼女の分身なのだろう。
60年代後半の少女の物語(特に心象風景やディテール)としては、北村薫の『スキップ』をほうふつとさせるところもあるが、少女(女)の目、あるいは地方から見た、感じた、聴いたビートルズという視点が新鮮だった。
例えば、こんな一節があった。
「オール・マイ・ラヴィング」とビートルズは歌う。聴いていると、だんだんわたしは内側からわたしではなくなっていく。外側にくっついているいろんなものを振り落として、わたしは半分わたしではなくなる。ビートルズに染まったわたしとなる。
夕飯のあと、台所でラジオを聴きながら茶碗を洗っていた。「シー・ラヴズ・ユー」が流れはじめても、しばらく茶碗をくるくる動かしながら聴いていた。それから、急に体のまんなかに穴をあけられたみたいな気がして、茶碗を掴んだまま顔をラジオに向けた。目の前を遮っていたものが、がしゃがしゃと壊れていくような気がした。
映画がはじまり「ア・ハード・デイス・ナイト」の最初のフレーズが響き渡ったとたんに、わたしはもう泣いていた。目の前でビートルズが動いていた。走っていた。髪を揺らしながら、こっちに向って走ってくる。
こういう感覚は男には書けない。
そして、喜久子は「~誰よりも、コンサートにはわたしがいちばん行きたいのです。~きっと日本に来てください。きっとですよ。おねがいします」と願い、ある行動に出るが、残念ながらコンサートには行けない。
「ひよっこ」でも描かれていたが、結局一番見たかった人たちが見られなかったのだ、という矛盾や不条理を感じて切なくなる。