黒沢明監督作品選(1983.1.28.)
並木座で『醜聞』と『野良犬』を再見。両作品とも、去年「文芸地下」での「志村喬追悼」の際に、見たばかりだったが、やはり何度見ても引き込まれてしまう。特に、両作品で全く違うキャラクターを演じた志村は圧巻。そして、『醜聞』のクリスマスの酒場での「蛍の光」の合唱シーンは、名場面の一つとして忘れ難いものになった。
『醜聞』(50)(再)(1982.5.17.文芸地下)
今回の特集は、「志村喬追悼」とのことだが、この映画は彼の数多い出演作の中でも異彩を放っている。いつもは、寡黙だがきらりと光るいぶし銀のような役が多いのだが、この映画の志村は驚くほど冗舌だ。それがまた、人生の敗北者のような男なので、その冗舌さが何ともいえない空しさを感じさせるのだ。
さて、「醜聞=スキャンダル」というタイトルからして、どろどろとした人間模様が描かれるのだろうとは予想していたのだが、『生きる』(52)同様、喜劇的な要素も多く、笑っているうちに心にぐさりと刺さるといった感じがした。
この映画が作られた頃は、今ほどイエロージャーナリズムが氾濫してはいなかっただろうに、現在でも通用するということは、黒澤らに先見の明があったということか。
火のない所に煙は立たぬというが、有名人故に、痛くもない腹を探られる場合もあるだろう。この映画における小沢栄太郎演じる、悪らつな雑誌編集長ほどではないにしろ、売らんかなで面白半分に記事を書き発表するやからはいる。では、記事を書かれて名誉を傷つけられた者は、一体どこに怒りをぶつければいいのか。結局、泣き寝入りするしかないのか…。
書く側と書かれる側という関係が存在する以上、これは避けては通れない問題だ。この映画のように、法廷ですっきりと決着が着けば問題はないが、多くの場合は水掛け論で終わってしまう。それ故、事実無根のことを書かれても、イメージダウンを恐れて、引き下がってしまう者も少なくないはずだ。
今から30年も昔の、今ほどマスコミが大きな影響力を持っていなかった時代に、黒澤明たちは、映画の中で、そんな問題提起を行っていたのだ。
ところで、この映画の中で最も感動的なのは、クリスマスの酒場のシーンだ。
酔っ払って自分の悪どさを嘆く弁護士の蛭田(志村)と、この男を心底信頼してはいないが、憎み切れもしない依頼人の有名画家(三船敏郎)が、一緒に飲んでいる酒場で、近くにいた酔客(左卜全)が、「来年こそはいい年にしよう。みんなそう思いながら、また来年、また来年…」と語り始める。
それを聞いた蛭田が突然立ち上がり、「私も来年こそは真人間になりたい。出直したい。皆さん、私のために『蛍の光』を一緒に歌ってください。お願いします」と酒場の客たちに哀願し、歌い始める。最初はしらけて聞いていた客やホステスたちも、だんだんと加わり出し、最後は涙ながらの大合唱となる。
このシーンを見ながら、そうなんだ。みんな「来年こそは…」「いつかは」と思いながら、結局変われない。それを繰り返しながら、それでも生きているんだ。人間はみんな幸福になりたいに決まっているんだ、といった思いが湧き上がってきた。
このシーンは、まさに黒澤明がうたった人間賛歌だという気がした。そして、このシーンが、後年の『生きる』における、「ハッピーバースデー」の合唱に送られて、再出発する渡辺勘治(これも志村だ!)に通じるのだ。
『野良犬』(49)(再)(1982.5.20.文芸地下)
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