地下にある「雲海」で食べていたのは松花堂弁当。野菜の炊き合わせが美しく盛り付けられていて、お正月に行くと、ちゃんとお屠蘇が出た。
ショップで気の利いたグリーティングカードが買えた。
◆サーカス見物
雪が降ったり、道が凍ったり、寒くて手袋がいるわねなどと思ったりしないうちに沈丁花が香り始めた今日この頃の福岡市中央区。
寒くはない雨。平日なので、きっと空いているに違いない、と思って、出かけた先はサーカス。誰にねだられたわけでもない。私が行きたかった。
ゼンジー北京(私、中国は広島生まれョ)と、東京コミックショー(レッドスネークカモン)は、昔ライブで見た記憶がある。 福岡に来てからは、宮崎の大空港(おおぞらみなと)師匠の腹話術ショーとイリュージョンショーの二本立てを見に行ったり、ジャグリングは、ピーター・フランクル氏(もちろん数学者本人)のパフォーマンスを新天町で2度ばかり見かけた。
映画に出てくるサーカスは、「怪人二十面相・伝」で金城武が軽業師を演じる。レトロモダンな世界がツボにハマる楽しい映画である。
昔はサーカスショーは、よくテレビ放送していた記憶がある。だから、子供のころ親に連れていってもらったサーカスで記憶しているのは、こういうのだろうな、と予想のついた空中ブランコでも猛獣使いでもなく、直径7~8メートルくらいの球形のカゴの内側をオートバイがぐるぐる走るパフォーマンスだ。意表をつかれたのだと思う。
というわけで赤坂門でバスを降り、舞鶴公園までてくてく歩くと、そのうちテントが見えてくる。
平日小雨午前の部だったが、お客さん多し。佐賀県の小学校の団体さんも。
場内が暗くなり、ミラーボールの散らす光とスモークで、いきなり異界へと連れて行かれる。洗練されたアクロバットやみごとなジャグリングや逆さまに走るバイクやゼブラや象やライオンのショーや息を呑む空中ブランコ(中原中也のゆやゆよん)休憩はさんで正味2時間くらい堪能。ああ夢の世界ね。
あらゆるパフォーマンスを鑑賞するに、音楽にせよ踊りにせよサーカスにせよ、同じことを思う。どのくらい鍛錬が必要だったのだろうか。
◆「丘けい子の世界」は、レトロマンガのお宝ザクザク
アラカン以上の女子の皆様、丘けい子の「挑戦」って覚えてます? 1969年週刊マーガレット、といえば、アニメ化された「アタックNo.1」とか、実写ドラマで石立鉄男と岡崎友紀が共演していた「おくさまは18歳」などの少女マンガが絶賛連載中で、表紙は森田健作千葉県知事の若かりし姿とか、キーハンターのキャストとか(紀伊半島と聞くだけで野際陽子の歌が脳内自動再生される私は古い)、フォーリーブス(ジャニーズ事務所初期のユニット。4人の名前が全部言えればあなたも立派なシックスティーズガール♥)とか。
その時代の週刊マーガレットに連載されてたマンガが「挑戦」なのだ。
なにしろ、このお話では、寄宿舎暮らしの女の子がほぼ騙されてCIAに入り苛酷な訓練に耐え、東西冷戦時代の世界を股に大活躍するのだよ。もちろんフィクションにしてパラレルワールドだから荒唐無稽で、自動車がジェット機に変身する50年後の今でさえ実現していない乗り物も登場する。銃弾も飛ぶし細菌兵器も出てくる。主人公の死んだはずのパパもCIAのエージェントで、変装して彼女を援護する。しかも21世紀に入って900ページ近くにわたる続きが書かれております。他のマンガもたくさん公開されてて「丘けい子の世界」で検索すると、無料でいろいろ読めます。
丘けい子のマンガは、そういや社会派なのが多かったし、強くて元気な女の子が主人公のマンガがとりわけ多かったような。これ読んで強くなろうと思った少女は少なからずいるのではないかと。新聞記事とマンガがリンクして、社会問題に目を向けるきっかけになったりしたんじゃないか。こんなマンガを読んだ少女たちの多くは今シックスティーズ。大事なことは、かなりの部分少女マンガから教わってるのでは。
酷暑である。熊谷市で41度越えなど、百葉箱の中の温度なのだから、太陽の下はまさに炎天下なのだろうな。
酷暑は静かである。蟬の声ばかりである。カラスはどこへ行った? 国体道路を運転していて、けやき通りに入ると、涼しい木陰にほっとする。歩いてても車でも、信号待ちは日陰に入りたい。歩きは日傘必須である。夕刻も静かだ。夜も過度に暑いので、静かだ。玩具花火の売れ行きはどうだろうか。
子どもの頃は夏休みともなれば、まず終業式の夜は隣に住んでた従兄妹たちとでガーデン花火大会である。朝はラジオ体操。まあよくある感じね。
家から数分歩けば、そこは入り江の中にある遠浅の海岸で、いつでも泳げた。そんな距離だから、家から直接水着を着て浮き輪を持って行く。入り江を取り囲むのはふたつの岬で、ひとつは月崎、入り江の向う側は灯台のある漁港で丸尾崎といった。その入り江の月の岬の近く側が私たちの遊び場だった。今では考えられないかも知れないが、子どもだけで勝手に海に行って泳いでいた。夏休みの心得に、6時までには帰宅しろ、行き先は親に教えろ、というのはあった気がするが、必ず大人と行きましょうなどという注意はなかった。当時は、海は勝手に行って泳ぐものだった。ともかく遠浅で、どこまで行ってもぬるい海水があって、足が地面についた。ちょっと掘ればアサリがいた。砂浜には普通にカブトガニがいた。桜貝の貝殻を集めた。誰が溺れたとか死んだとかいう話も聞いたことがなかった。大きな川が流れ込んでいない入り江の遠浅海岸というのは、今考えれば、海水浴場としては理想的である。安全だったのである。
この海岸沿いに昔から住んでいたのだと父は言った。二十何代まで遡る、と。文政期の墓が残っているので、江戸時代の人の移動を考えると、たぶんそれは本当のことなんだろうな、と思う。いちど「その前はどこで何をしていたの」と聞いてみたことがある。さあ、瀬戸内の海賊だったのかもね、と笑ってた。江戸時代には樺太探検をした人も出た場所である。海賊はともかく、海の民の住み着いたところかも知れない。ちなみに、そのあたりで歌い継がれている盆踊り歌は、なぜか那須与一だった。
お盆過ぎには刺すクラゲが増えるので、海に行くのはやめる。それとともに宿題モードとなり、そのうち夏休みは終わるのだった。