発行人日記

図書出版 のぶ工房の発行人の日々です。
本をつくる話、映画や博物館、美術館やコンサートの話など。

たれかこきやうをおもはざる

2024年03月03日 | 昭和のおもひで
 郷里のANAクラウンプラザホテルが3月末で閉業となる。
 1983年の開業時は宇部全日空ホテル。
 設計は1936年開業のアールデコ様式が内装にふんだんに使われている市民館と同じ村野藤吾。
 会社近くにあったので、一階の「サルビア」で日替わりランチをしょっちゅう食べていた。スープとサラダとおいしいコーヒーがつき、いつも賑わっていた。
 地下にある「雲海」で食べていたのは松花堂弁当。野菜の炊き合わせが美しく盛り付けられていて、お正月に行くと、ちゃんとお屠蘇が出た。
 中華レストラン「敦煌」は、会社の宴会に使った。おこげの餡かけが好きだった。
 昔はコースの出るレストランも上階にあって、ランチだが食べた記憶がある。
 ショップで気の利いたグリーティングカードが買えた。
 展示会もいろいろあった。データベース検索の展示会は驚きだった。社内データではなく、もっとたくさんのものが調べられる。まだインターネットもメールもする人がいない時代だった。隔世の感。
 一番広い宴会場である国際会議場は、学会に使われていたことはあったが、一度でも国際会議は開催されたのか。そこでの宝石呉服毛皮の展示会には行った。芸能人が呼ばれてのお見立て会があり、ほかの人も来たことがあるのだろうが、加藤剛を見たのを記憶している。毛皮コートやダイヤやダチョウやワニのバッグや叶姉妹が身につけていた宝飾時計やローマ時代のような金細工のペンダントがどんどん売れていた。ミンクやフォックスを皆様どこでお召しになっていたのか。着ている人を街ではほとんど見なかった。たぶん、毛皮というよりも、気分が晴れる、何か華やかなものが欲しくて買い物をしていたのだと思う。
 確かに、ちょっと気分が変わるというか、都会っぽいハレた気分が簡単に味わえる場所だった。
 そして、ああいう実用にそぐわないものも、ほとんどの人が買おうと思えば買える時代でもあったのだ。

 今はどうなっているのだろうか。ショップはどうしているか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022年秋の覚え書き1

2022年10月13日 | 昭和のおもひで
◆アントニオ猪木氏死去
 「元気ですか!元気があれば何でもできる」
 まったくもって正しい。元気を維持するのが大事だ。

◆池永正明氏死去
 西鉄黒い霧事件で若くして球界を引退した名投手である。昭和が遠くなる。割と近所にお家があって、近年になって終活で引っ越された。
 池永氏にいただいたウインドブレーカーが家にある。プロギアというゴルフブランドで、毎年新作を友人のジャンボ尾崎氏から送ってくるのだそうだ。問題はそのプルオーバーのウインドブレーカーの似合う人間が家には一人もいないことである。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田舎少女と牛丼にまつわるエトセトラ

2022年04月28日 | 昭和のおもひで
 写真は、「うまい、やすい、はやい」ならぬ「うまい、からい、せまい」らしい福岡市内のカレー屋さん。

◆田舎少女の初吉野家
 吉野家の牛丼を初めて食べたのはいつのことだったか記憶にない。だが確かに食べた。大阪だったか名古屋だったか神戸だったか東京だったか。
 まだ昭和で、地元には吉野家はなかった。ともかく私がそのころ住んでいたのは田舎町だった。
「やったね、パパ、明日はホームランだ」と子どもが喜んでいる当時のテレビコマーシャルによれば、父親がおみやげに買って帰れば、坊やは明日の少年野球でホームランが打てるらしかった。

◆こんなんなら自分で作ると思った
 ワンレンロングヘアでサングラスしてヨーガンレールあたりのゆるっとしたワンピースにレノマのフラットサンダル履いて表参道を歩いていても、芸能人少年ユニットの路上パーフォーマンスが始まるなり、ラ・バガジェリーの柔らかいショルダーバッグから一眼レフを取り出してしまうところが、おのぼりさん丸出しである。
 そんな田舎少女たる私に都会で高いごはんをおごってくれる人はいなかったが、吉野家の牛丼は中毒になるようなものではなかった。いつどこで食べたにせよ、吉野家は、娘時代において一回こっきりだったと思う。そう いや食べたことがあるような的な。材料も少なく自分で手早く作れるようなものをわざわざ外で続けて食べたりしない。何か他の物を食べる。外にいて、ゆっくりできる場所で食べられないのであれば、カロリーメイトでも齧っとく。そのぶん、別の消費にまわすよ。お金は大事だ。
 
◆「消費者なんてチョリーッス」
 で、問題の  
「キムスメ、シャブ漬け」
 意味不明である。何ですか、この昭和ヒヒオヤジ的下品な劇画用語は?
 居酒屋でも聞かんわ。

 つまりですね、吉野家の常務をしてた敏腕マーケター伊東某さんがクビになったのは、女性蔑視とか田舎蔑視とか下品とか、というよりも、もっと深いとこで致命的なこと、
「消費者なんてチョリーッス」
 と、消費者全体を舐めてたことが露呈してしまったからなのだと思うのですよ。これまで、よほどお仕事がうまくいってたのね。

 いわゆるひとつの「トレンディ」なものは、実はヒヒオヤジが消費者を舐めて作っているのではないか。という警句を残し、伊東さんは去っていったのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アラームがうるさい

2021年02月21日 | 昭和のおもひで
私の耳の中で鳴る警告音が
あまりにうるさいので
せめて半径五メートルに
人がいないときにはマスクをはずす

私は自粛しない
沈丁花が木犀が
どの庭から薫ってくるか
二酸化硫黄の粒子は
どの風に混じっているのか
不完全燃焼から生じる毒ガスが
どこに溜まっているのか
測定する野性を自粛しない

あなたが怖がる以外の理由でマスクはしない

自粛することは
あるかもしれないが
放棄はなしだ

自粛しなくていいものを
自粛するのは放棄だ

細胞に組み込まれた生存への危機管理に従えば
答えは導かれる

計測せよ
あるいは
感じろ
五感六感のデータの
解析を止めるな
他の者に考えさせるな
さもなくば
自らの手足を縛れと
差し出すことになる

疑問を持つことを
笑うことを
愛することを
考えることを
発言することを
私は放棄しない
自分から
囚われの身になることは
断じて
選ばない




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

怒る時間がない

2021年02月05日 | 昭和のおもひで
◆緊急事態宣言
 夜、飲食、特に飲酒を伴う飲食に出ることのめったにない私なので、緊急事態宣言はさほど生活に影響しない。ただ、この不景気が売り上げに影響しないわけがないことと、土日の西鉄バスの本数が減るのが憂鬱である。

◆私は怒っている
 仕事に追われて怒る時間がない。なにかとてつもなくよくないことが起きているというのに。新しい本を売らなければ、仕事に行かなければ生活が成り立たない。怒っている時間がない。
 相変わらず元気に働いて(新刊できたし)ごはんがおいしくて(今夜は春巻よ)よく眠れるのだが、私は怒っている。だが、日々の生活に追われ、怒る考えをまとめる時間がない。しかし怒っている。
 よほどまずい。危機である。感染症など小さなことである。もっとまずいことはほかにある。ブラッドベリの書いた、きのこ宇宙人にすでに征服された社会に生活しているのかも知れない。メンタルをやられない決意で快活に過ごしてはいる。だが、頭の隅にこれってやべーぞという意識は常にある。危機を危機として自分の言葉で表現し、解決方法を模索するのは現世を生きる大人の役割である。
 私は生産性を向上させ、きちんと怒る時間を確保しないといけない。仕事をもっと短い時間で確実に終えないといけない。

◆劣化した議員
 複数の国会議員が銀座だかのお高いクラブに行き、批判されて議員辞職や離党を強いられている。
 まったく同情するものではないが、問題は別にあると私は思う。
 それはパンデミックとは違うのではないか、という議論をせず、世の大勢の空気を読んで、緊急事態宣言や特別措置法に反対しなかったのに、自分たちだけは、8時以降銀座の、おそらくは高そうな香水の匂いがするきれいなお姉さまのいる素敵なお店で飲食していたのである。
 自分の行くところはいいのか?
 問題ないと思うのなら、なぜそれを話し合わない?
 その頭と口は飾りなのか? 議論の土俵さえ作らず、上がろうとせず、そのうえ
「私は銀座にお金を落とすっ」
「罰則?過料?アホも大概にせいっ」
「何が悪いっ」
 と開き直る(のもどうかと思うが)覚悟もなしに、すごすごと議員辞職や離党に応じる。情けない。議員は私たちに代わって議論する係ではないのか、歳費もらってなにやってんだか、と怒ってみる。




















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幾時代かがありまして

2020年02月13日 | 昭和のおもひで

◆サーカス見物

   雪が降ったり、道が凍ったり、寒くて手袋がいるわねなどと思ったりしないうちに沈丁花が香り始めた今日この頃の福岡市中央区。

    寒くはない雨。平日なので、きっと空いているに違いない、と思って、出かけた先はサーカス。誰にねだられたわけでもない。私が行きたかった。

   ゼンジー北京(私、中国は広島生まれョ)と、東京コミックショー(レッドスネークカモン)は、昔ライブで見た記憶がある。 福岡に来てからは、宮崎の大空港(おおぞらみなと)師匠の腹話術ショーとイリュージョンショーの二本立てを見に行ったり、ジャグリングは、ピーター・フランクル氏(もちろん数学者本人)のパフォーマンスを新天町で2度ばかり見かけた。

   映画に出てくるサーカスは、「怪人二十面相・伝」で金城武が軽業師を演じる。レトロモダンな世界がツボにハマる楽しい映画である。

   昔はサーカスショーは、よくテレビ放送していた記憶がある。だから、子供のころ親に連れていってもらったサーカスで記憶しているのは、こういうのだろうな、と予想のついた空中ブランコでも猛獣使いでもなく、直径7~8メートルくらいの球形のカゴの内側をオートバイがぐるぐる走るパフォーマンスだ。意表をつかれたのだと思う。

   というわけで赤坂門でバスを降り、舞鶴公園までてくてく歩くと、そのうちテントが見えてくる。

    平日小雨午前の部だったが、お客さん多し。佐賀県の小学校の団体さんも。

  場内が暗くなり、ミラーボールの散らす光とスモークで、いきなり異界へと連れて行かれる。洗練されたアクロバットやみごとなジャグリングや逆さまに走るバイクやゼブラや象やライオンのショーや息を呑む空中ブランコ(中原中也のゆやゆよん)休憩はさんで正味2時間くらい堪能。ああ夢の世界ね。

    あらゆるパフォーマンスを鑑賞するに、音楽にせよ踊りにせよサーカスにせよ、同じことを思う。どのくらい鍛錬が必要だったのだろうか。

    

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1960年代昭和少女マンガにどっぷり浸かれるサイト発見

2020年01月25日 | 昭和のおもひで

◆「丘けい子の世界」は、レトロマンガのお宝ザクザク

 アラカン以上の女子の皆様、丘けい子の「挑戦」って覚えてます? 1969年週刊マーガレット、といえば、アニメ化された「アタックNo.1」とか、実写ドラマで石立鉄男と岡崎友紀が共演していた「おくさまは18歳」などの少女マンガが絶賛連載中で、表紙は森田健作千葉県知事の若かりし姿とか、キーハンターのキャストとか(紀伊半島と聞くだけで野際陽子の歌が脳内自動再生される私は古い)、フォーリーブス(ジャニーズ事務所初期のユニット。4人の名前が全部言えればあなたも立派なシックスティーズガール♥)とか。

 その時代の週刊マーガレットに連載されてたマンガが「挑戦」なのだ。

  なにしろ、このお話では、寄宿舎暮らしの女の子がほぼ騙されてCIAに入り苛酷な訓練に耐え、東西冷戦時代の世界を股に大活躍するのだよ。もちろんフィクションにしてパラレルワールドだから荒唐無稽で、自動車がジェット機に変身する50年後の今でさえ実現していない乗り物も登場する。銃弾も飛ぶし細菌兵器も出てくる。主人公の死んだはずのパパもCIAのエージェントで、変装して彼女を援護する。しかも21世紀に入って900ページ近くにわたる続きが書かれております。他のマンガもたくさん公開されてて「丘けい子の世界」で検索すると、無料でいろいろ読めます。

 丘けい子のマンガは、そういや社会派なのが多かったし、強くて元気な女の子が主人公のマンガがとりわけ多かったような。これ読んで強くなろうと思った少女は少なからずいるのではないかと。新聞記事とマンガがリンクして、社会問題に目を向けるきっかけになったりしたんじゃないか。こんなマンガを読んだ少女たちの多くは今シックスティーズ。大事なことは、かなりの部分少女マンガから教わってるのでは。 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三原市、あるいは呑気者のDNA 画像はクリックで拡大します

2019年05月24日 | 昭和のおもひで
◆広島県三原市に行く。
 私の三原市の記憶は学生時代、仏通寺という禅寺が98%である。部活で一晩泊まって座禅した。大きく達磨大師が墨書された衝立てがあった。自分が呼吸とそれを意識する脳だけになる経験は希有なものであったが、足が痺れてかなわない。二度とやらない。もっと楽な姿態でできる瞑想もあるだろう。
 企業研修や経営者の研修に座禅を取り入れているところも少なくはないことは知っている。ある会社の本社ビルには座禅堂があり、役員は毎週座禅していたらしい。そのことを新聞か雑誌で読んで数年してその会社は上場廃止の憂き目にあった。座禅したからといって商売がうまく行くというわけではないから、会社で毎週というのはナンセンスであると思う。すくなくとも、参加したくない人は気兼ねなく断れる空気が必要であるが、毎週座禅する会社にそんなものがあったのだろうか。
 というわけで、久々の三原。JR三原駅は北側に三原城址があり、駅から直接に入れる。小早川隆景の城である。新幹線が通る前は、さぞ見晴らしが良かったのではないかと。三原市だけに。南側は瀬戸内海で、少し歩けば渡船場がある。因島に渡れる。
 三原はタコの町、ということだそうだ。お土産売場を見ると、タコの干物があった。内蔵を抜いて干すとタコは透明になるのだな。軽くて薄くて保存料がなくても保存がきいて、焼いて食べるほかに、刻んで醤油と酒に漬けておいてご飯に炊き込めばタコ飯になるそうだ。これに決定。

◆ドリス・デイ死去
 ドリス・デイショーは子どもの頃テレビで見てたのではないかと。母の愛唱歌は「ケ・セラ・セラ」である。ちなみに亡き父の愛唱歌は植木等の「黙って俺について来い」、マッチョな題名だが、アニメ「こち亀」のオープニングタイトルにも使われた呑気な歌である。彼らの名誉のために言っておくが、律儀で堅実な両親であった。血液型性格診断信奉者には、両親姉私全員の血液型がOであることを言い終わらないうちから爆笑される。なぜだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そして3月が去る

2019年03月31日 | 昭和のおもひで
◆そして3月が去る
 住居の共用部分にウッドデッキがあって、暖かくなったので、そこにノートパソコンを持ってって仕事しよう、紅茶を小さな魔法瓶に入れて、と思いついたけど、黄砂と花粉とPM2.5のミックスで、あまり具合がよろしくないのでやめた。少し雨が降ったあとの白い車にうっすら縦線が入っているのをよく見かける福岡の春。

◆九電記念体育館、博多スターレーン終了
 今日でお別れ。九電体育館は、昔は大相撲の会場だったし、高校の同級生が、クイーンのコンサートに行った話をしてたのを覚えている。私が福岡に来てほどなく、つまり20何年か前、バブル期に計画されたウォーターフロントの建物いくつかが立て続けに完成したのと、天神にシャンデリア煌めくコンサートホールができたのとで、イベント会場は、ぐぐっと海の方へ移動した。
 博多スターレーンは、以前にも書いたが、ショーアップ系格闘技イベントがたびたび開催されていた。私には図書館ブックフェアの会場。次からはどこになるのか。 

◆萩原健一死去
 男性芸能人で歌手で俳優で、よく捕まる人ということで、清水健太郎と同じ枠に入れてたので、清水さんを脳内死亡枠に一緒に入れないよう注意したい。
 「青春の蹉跌」映画に桃井かおりと共演。映画はあまり記憶にないが、昔読んだ小説のオチに感心した。
 
 「妊娠した愛人を殺した若者が逮捕後、子は他の男の種と知らされる」身もフタもない表現だが、30字で書くとこうなる。何もかも失った上に、自分を愛したまま死んだと思っていた女性にさえ裏切られていた、という、泣きっ面にハチというお話で、それもこれも自業自得であるが、読者の皆様は以て他山の石とすべしということで。読書って大事ね。読まないと自分の経験値とそれにもとづく想像の範囲内でしかいろいろなことの予測はできない。

◆白石冬美死去
 明子ねえちゃん。パタリロ。勤続年数の長い方でした。


◆「運び屋」補足
 この映画は、「90歳からのハローワーク」というか、人生百年時代、年取ってても人生(悪の道だが)心機一転、やりなおせるかも、という視点でみると面白い。平然と修羅場を切り抜けるのも年の功だ。生命のぜんまいが回る限り、自分として生き続ける決意を。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和の夏休み、田舎無名の海辺リゾートのロコ小学生のおもひで

2018年07月26日 | 昭和のおもひで

 酷暑である。熊谷市で41度越えなど、百葉箱の中の温度なのだから、太陽の下はまさに炎天下なのだろうな。

 酷暑は静かである。蟬の声ばかりである。カラスはどこへ行った? 国体道路を運転していて、けやき通りに入ると、涼しい木陰にほっとする。歩いてても車でも、信号待ちは日陰に入りたい。歩きは日傘必須である。夕刻も静かだ。夜も過度に暑いので、静かだ。玩具花火の売れ行きはどうだろうか。

 子どもの頃は夏休みともなれば、まず終業式の夜は隣に住んでた従兄妹たちとでガーデン花火大会である。朝はラジオ体操。まあよくある感じね。

 家から数分歩けば、そこは入り江の中にある遠浅の海岸で、いつでも泳げた。そんな距離だから、家から直接水着を着て浮き輪を持って行く。入り江を取り囲むのはふたつの岬で、ひとつは月崎、入り江の向う側は灯台のある漁港で丸尾崎といった。その入り江の月の岬の近く側が私たちの遊び場だった。今では考えられないかも知れないが、子どもだけで勝手に海に行って泳いでいた。夏休みの心得に、6時までには帰宅しろ、行き先は親に教えろ、というのはあった気がするが、必ず大人と行きましょうなどという注意はなかった。当時は、海は勝手に行って泳ぐものだった。ともかく遠浅で、どこまで行ってもぬるい海水があって、足が地面についた。ちょっと掘ればアサリがいた。砂浜には普通にカブトガニがいた。桜貝の貝殻を集めた。誰が溺れたとか死んだとかいう話も聞いたことがなかった。大きな川が流れ込んでいない入り江の遠浅海岸というのは、今考えれば、海水浴場としては理想的である。安全だったのである。

 

 この海岸沿いに昔から住んでいたのだと父は言った。二十何代まで遡る、と。文政期の墓が残っているので、江戸時代の人の移動を考えると、たぶんそれは本当のことなんだろうな、と思う。いちど「その前はどこで何をしていたの」と聞いてみたことがある。さあ、瀬戸内の海賊だったのかもね、と笑ってた。江戸時代には樺太探検をした人も出た場所である。海賊はともかく、海の民の住み着いたところかも知れない。ちなみに、そのあたりで歌い継がれている盆踊り歌は、なぜか那須与一だった。

 お盆過ぎには刺すクラゲが増えるので、海に行くのはやめる。それとともに宿題モードとなり、そのうち夏休みは終わるのだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする