発行人日記

図書出版 のぶ工房の発行人の日々です。
本をつくる話、映画や博物館、美術館やコンサートの話など。

マイ東京物語

2016年06月30日 | 日記
 原宿駅が建て替わるそうである。記憶の東京がひとつ減る。
(BGM 「俺ら東京さ行ぐだ」吉幾三)
 今住んでる福岡は九州一の都会だが、都会というのは天神(西鉄福岡天神駅周辺)と博多(JR博多駅周辺)のことで、ほかにも町はあるけど大橋も香椎にもデパートはないし、西新の町もデパートが消えて久しい。デパート=都会という発想自体、田舎者臭いが、ようするにたとえばシャネル(の客ではない私が言うのもおかしいが)ブティックを擁する都市型商業施設をもつ繁華街というのは、確か天神と博多のみである。そういった地方の都会にはひとつかふたつしかないような繁華街がぐるっと数珠つなぎになってるのが大都会東京である。東京は、どこまでも東京が続いている、みたいなことが書いてあったのは、夏目漱石の「三四郎」だったか。100年以上前からそうだったのである。
 しかも人が多い。毎日がどんたくのごたぁる。
 バブル時代に手取り収入≒可処分所得な山口県の自宅通勤OLをやってた自分は、さすがに日帰りとか一泊帰りはしなかったが、3日以上休みがあれば、誰か高校時代の友人が泊めてくれたこともあり、東京はいつでも行ける場所だった。空港が近いので東京は近かった。山口で仕事を終えた3時間後には、渋谷で一人飯を食べてた(夜着くから、ごはん位は済ませておかないと)。女性の一人食事客には、よくカクテルサービスがあって、スクリュードライバーをウォッカ抜きで(単なるオレンジジュース!!)オーダーしたものだ。
 原宿駅で、都会だなと思ったのは、駅の中の広告看板である。「四谷シモン人形教室」!!  ああ、東京というところは、その気になれば、四谷シモンに人形製作を習うことができるのだなあ。駅に看板があるということは、電話して私が行っても構わないんだなあ、ということだった(大阪には大屋政子バレエ教室というのも存在したが)。
 政党が若者有権者向けに選挙対策のパンフレットだかチラシだかをマンガで作った話が最近あったが、選挙対策を兼ねていたマンガパンフレットなら、1989年の暮れか1990年の始めかに、渋谷で受け取った。宗教団体の選挙対策だった。絵柄は当時の「ヤングジャンプ」っぽくて、がんばれば君も超能力が身につく。有名な政治家にだってなれる(引き合いに出されていたのは海部俊樹氏、土井たか子氏だった)。僕らと一緒に修行しないか的な。大変オモシロいと思ったものだが、捨ててしまったのが惜しまれる。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お前いつまで生きているつもりだ発言について

2016年06月24日 | 日記
 それがわかれば苦労はない。
 人間の死亡率は100%だが、自分の余命が3日なのか3月なのか3年なのか30年なのか見当がつかないのが問題なのだ。わかれば、過ごし方、言い換えれば、お金と働き方と遊び方の配分が違ってくる。
 自分は、つねづね、あさって人類が滅亡しても不思議ではないのだと思っているが、50年100年続いた場合を考えると、自分が死んでしまえば何もかも帳消だとやりたい放題するのは控え、慎重に行動しないといけない。次代への責任ってものがあるではないか。
 しかし、ひょっとして、人類滅亡まで残り5年くらいと内心考えている人は意外に多いんじゃないかとも思う。
 どうにもならなくなる前に人類はどうせ滅亡しちゃうもん、次の世代なんて存在しないもん、と思っている人が多数いるから、と思えば納得いくことはある。深刻な問題を先送りにしている本当の理由は、それではないのかと思えるくらい。
 まさか、閣下、あなたは、人類の実際の残り時間がとても短いことをご存知なのではないでしょうね?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クラムボンは笑ったよ

2016年06月16日 | 本について
 宮沢賢治といえば、「やまなし」。小学校の教科書に載ってた。
 黙読し、音読して、透明な水の底を感じるのである。この世には、奇跡のように美しい事象が、普通に溢れている。それを文字にして書きあらわすことができるということを知った作品である。
 こんな課題を、国語は自動的に担任が担当する小学校の教科書に載せていいものか、と思わないでもない。指導する人は絞られるべきである。「指導」にはそぐわないということをちゃんとわかっている、という意味での優秀な人が指導するのが望ましい。そして、ペーパーテストには不向きである。
 これは、感じるものであって、感じ方というのは評価するのには不向きだし、感じ方を採点されてその結果を気にする子どもや、その結果を気にして、子どもにフィードバックしてしまう親だった場合、「自分の思うように感じていい、という感性」「自分が感じたことこそ自分の正解という考え」が、損なわれ、それが欠落した人生を送ってしまうかも知れないのである。
 という危険なテーマだと私は勝手に思っているのだが、あまりにも美しいので教科書には載り続けている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TOKIOが漂流する(沢田研二あたりの歌声で脳内再生を)

2016年06月15日 | 日記
 舛添要一氏はついに都知事をやめる決意をしたらしい。
 結局この人は何がしたかったんだろう。この人の理想は何だったんだろう。他人のお金で自分や家族が贅沢をするために都知事になったのだろうか。他にしたいことがあっただろうに、どうしてバレれば知事の座を追われるようなことを続けてしまったんだろう。これもまた、行きたくない方向に自分を連れて行ってしまった人の標本として、メモしておくべき件なのだろうか。
 舛添氏の「子どもがこの件でいじめられている」という話を読んで、あれ?どっかで見たような?と思った。エンブレム問題の佐野研二郎氏が「この件で妻や子どもが中傷されるのが耐えられない」みたいなこと言ってたよね。
 家族とか子どもがいじめや中傷に遭うのは確かによくないことだが、でもね、一般ピープルの多くが、家族が自分の仕事ぶりのせいで後ろ指さされることがないように、卑怯な儲け口からの誘惑を断ち切っているから、世の中は曲がりなりにもまっとうに回っているんだってば。仕事への誇りはどこ行った? 
 福島原発はコントロール下にある、というかなり無理に思えることばからはじまった東京五輪誘致である。最初の釦を掛け違えているのだから、いろいろな無理が出て来るのは致し方ないことなのかも知れない。 
 あしたはどっちだ?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする