発行人日記

図書出版 のぶ工房の発行人の日々です。
本をつくる話、映画や博物館、美術館やコンサートの話など。

たれかこきやうをおもはざる

2014年04月16日 | 日記
◆郷里のおもひで

 離れて20年以上になる郷里の老舗ホテル倒産のニュース。某昭和を代表する大物歌手が来たときにここに泊まり、それに際して彼女の筋のリクエストに応じ、お風呂を檜だか何だかに改装したという伝説もあった(木のお風呂は一般的ではない地方である)のだが。地元新聞のweb記事では、各界の惜しむ声が載っていた。
 自分が住んでいた町なわけだから、私がそのホテルに泊まる用事などはなかった。用事といえば、バンケットかレストランである。
 そのホテルでの知人の結婚披露宴と日にちが重なるので一泊の社内旅行はパスする旨上司に伝えると、彼は激昂した。嘘ついてパスするんだろうということであった(あなたと一緒に夜の宴会に出るのは確かに耐え難いものはあるけど、ほかの営業店の人たちには会いたいから都合が合えばぜひ行きたかったと思ってはいても大人だから言わないわ)。かといって、招待状を見せると言っても見たがらなかった。学校出たての新入社員たちには、よく「君たちのかわりはいくらでもいるんだからな」と言っていた。今思えばマネジャーとして明らかな不適格者だった。ある程度の規模の会社のいいところは、そういう人は短期間で転勤になるところである。部下にとって疲れる御仁はそのまた上司にとっても疲れる御仁だったに違いない。
 新婦はそういえば小児科医で、新郎はサラリーマン。お色直しで、マイクを持って歌いながら入場してたなあ。結婚してしばらくして仲間と集まったとき夫が「リストラされちゃうかも」と言うのに答えて「子ども産めるじゃん♪」と妻が答えていた。彼はマメな多趣味人で、何より妻を大事にしてた。
 ほかにそのホテルで覚えているのはボールルームダンスのカジュアルなパーティーで、それも随分昔な気がする。くじ引きで当たったクリスタルガラスの花器は、今も母が使ってるはず。あと呉服宝石の展示会くらいはあったかも。
 そのころから、地方都市ではよくある話だが、商店街の商店がそれぞれの理由で静かに終了しはじめていて、それはずっと続いている。その決定打的というか象徴的なできごとが、今回の、商店街に近いホテルの倒産廃業事件といえる。
 母が昔参加していた集まりに、青年会議所の人たちが来て、地元商店街が寂れている(30年くらい前の話!!)なにかいいアイデアはないか、と聞かれてこう答えたと聞いた。「ご自身の奥様やお嬢様は、地元でお買い物をしていらっしゃいますか?」自分の家族には博多とか東京で買い物させといて地元の一般ピープルには地元で買わせようなんてずるいもんね、他人に買わせることばっかり考えるより、自分や家族がどうやったら地元で買うか考えりゃいいのに、と言っていた。
 閉店にせよ廃業にせよ撤退にせよ、鉄道の廃線にせよ、ほとんどの場合、惜しまれるより先に利用されなかったということなのだ。
 あまり利用しないでいて、なくなるとなると惜しむというのはいかにも都合がいい考え方である。残って欲しいものは意識して利用しないと残らなかったりするのだ。

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「神様のカルテ2」 仕事と幸せについて

2014年04月10日 | 映画
◆労働と余暇の問題
「神様のカルテ2」試写会、都久志会館。
 先月鑑賞して時間が経ったんだけど、その感想を。
 医師という専門職の労働問題がテーマである、と私は思った。労働と余暇に関する問題は、私の学生のときからの研究テーマである。
 この映画の主人公、櫻井翔演じるところの栗原一止医師は「年に3日しか休んでいない」のだそうな。確かに、普通の被雇用者が年に3日しか休めないとなると、心身にどこか異常が出てくるのは想像にかたくない。私がこれまでやったことがあるいかなる雇われ仕事も、年362日行うことを強制されるなど、考えるのも恐ろしい。塀の向こうのお仕事たる懲役刑でさえ土日祝はお休みなのだそうですよ。

◆お仕事が好きならなんとかなる、かな?
 栗原医師が正常さを保っているのは、結局仕事が好きだからであろう。好きな仕事をしている人にはあまりお休みは必要ない。憂さ晴らし気晴らしの必要が少ないから。
 医師というのは理科系の秀才で、しかも臨床をしているからには対人スキルもある程度持っている人であろう。つまり就こうと思えばほかの仕事にも十分就けた人である。だが医師を選んだ選べたということである。中には仕方なく医師をしている人もいるのかも知れないが、医師は、生命がかかってて手加減できない仕事の最たるもので、義務感と責任感と報酬のために仕方なくやるには辛すぎはしないか。そもそも仕事が嫌いな人は映画に出て来るような24時間営業の病院に勤めたりしないと思う。

◆実は休んでいる、とツッコミを入れてみる
 それから、栗原医師は、病院にいる時間中診療したり専門文献を見てばかりいるわけではない。彼はヒマさえあれば病院の廊下を二宮尊徳よろしく文芸書を読書しながら歩いているではないか。職場にいるというだけで、それは余暇時間ではないのか。たいがいの職種の被雇用者が就業時間中に読書することは困難である。それが許される職場であるので、精神的均衡が保てるのである。患者さんは急にやってくるものの、その程度の自律は許容されるのでやっていけるということである。

◆まっ、しょうがないな
 結局家族にしわ寄せが向かうという話であるが、この映画に出て来る3人の妻のうち医師でない2人は「まっしょうがないな」という感じである。医師自身の病気の発見が手遅れになってしまっても、悔しさに歯軋りするというより「まっしょうがないな」という感じ。仕事が好きな相手が好きで一緒になったのだろうから、好きな仕事で本人のことがあとまわしになってしまって残念だけど仕方がない、本人も本望だろうと。

◆ただ子育てとなると
 問題は、夫婦とも医師の場合で、どちらも忙しくて、しかも親に頼れない場合子育てが大変であるということである。

◆仕事と私とどっちが大事なの問題について
 ともあれ「仕事と私とどっちが大事なの」と配偶者なり恋人なりに言われてしまうようなら、自分自身の中途半端な仕事への姿勢を反省しなくてはなるまい。相手も大切だが、仕事は自分の大切な要素であるということが相手に伝わっていてそんな戯言を言われるわけがない。
 人生の幸福は、その人が自分の仕事を好きであるかどうかがある程度決定づけるものである。向いた仕事を探す能力や、目の前にある仕事を楽しめるというか好きになる能力自体も、幸せの資質であると思う。
 仕事が好きか、報酬はどうか、余暇時間はどうか、と、その人の幸福とは、どのような函数で表せるのだろうか。ずっと考え続けようと思う。
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