【 きつね 】
狐は知っている
この日当たりのいい枯野に
自分が一人しかいないのを
それ故に自分が野原の一部分であり
全体であるのを
風になることも 枯草になることも
そうしてひとすじの光にさえなることも
狐いろした枯野の中で
まるで あるかないかの
影のような存在であることも知っている
まるで風のように走ることも 光よりも早く
走ることもしっている
それ故に じぶんの姿は誰れにも見えない
のだと思っている
見えないものが 考えながら走っている
考えだけが走っている
いつのまにか枯野に昼の月が出ていた
上の詩は、タイトルにもありますように蔵原伸二郎1899(明治32)~ 1965(昭和40)という詩人の作品です。
私がこの詩を知ったのは大学生のとき。新潮文庫の『現代名詩選』でした。
幾多もの名詩の中で、この詩に惹かれました。
日当たりの良い枯野にポツンと存在する狐。それでいて自分が全てであると想念する狐。
自分を風とも光とも、またそれらを超えるものとも思いながら走る狐。
走る狐はいつしか姿をなくし、風の塊が通り抜けたように枯草が直線に分かれていく。
そして、画面はポンと空を映し、昼の白月。
これを読んだとき、質の良い短編アニメを観るように絵が浮かんできました。
私はこの詩を、切り取ったノートに書き写してバインダーに挟んで持ち歩いていましたが、学生時代は遠くなりにけり。
いつしか蔵原伸二郎という名も詩も忘れかけていたとき、割合近くの本屋さんでトップ画像の、
『蔵原伸二郎と飯能』(町田 多加次・著) に出会いました。
その本を読んで驚きました。
かの蔵原伸二郎、戦後は都心から離れた東京の青梅や埼玉の吾野・入間・飯能辺りで過ごしました。
それはなんと、私が結婚してから住んでいる この地に近い場所。
この蔵原伸二郎、他にもきつねシリーズの詩がありますが、それも良いです。
の本を読むと死ぬ間際のエピソードなど、スペシャルドラマの題材にしたいくらい。
蔵原伸二郎について、次回も続けます。
狐は知っている
この日当たりのいい枯野に
自分が一人しかいないのを
それ故に自分が野原の一部分であり
全体であるのを
風になることも 枯草になることも
そうしてひとすじの光にさえなることも
狐いろした枯野の中で
まるで あるかないかの
影のような存在であることも知っている
まるで風のように走ることも 光よりも早く
走ることもしっている
それ故に じぶんの姿は誰れにも見えない
のだと思っている
見えないものが 考えながら走っている
考えだけが走っている
いつのまにか枯野に昼の月が出ていた
上の詩は、タイトルにもありますように蔵原伸二郎1899(明治32)~ 1965(昭和40)という詩人の作品です。
私がこの詩を知ったのは大学生のとき。新潮文庫の『現代名詩選』でした。
幾多もの名詩の中で、この詩に惹かれました。
日当たりの良い枯野にポツンと存在する狐。それでいて自分が全てであると想念する狐。
自分を風とも光とも、またそれらを超えるものとも思いながら走る狐。
走る狐はいつしか姿をなくし、風の塊が通り抜けたように枯草が直線に分かれていく。
そして、画面はポンと空を映し、昼の白月。
これを読んだとき、質の良い短編アニメを観るように絵が浮かんできました。
私はこの詩を、切り取ったノートに書き写してバインダーに挟んで持ち歩いていましたが、学生時代は遠くなりにけり。
いつしか蔵原伸二郎という名も詩も忘れかけていたとき、割合近くの本屋さんでトップ画像の、
『蔵原伸二郎と飯能』(町田 多加次・著) に出会いました。
その本を読んで驚きました。
かの蔵原伸二郎、戦後は都心から離れた東京の青梅や埼玉の吾野・入間・飯能辺りで過ごしました。
それはなんと、私が結婚してから住んでいる この地に近い場所。
この蔵原伸二郎、他にもきつねシリーズの詩がありますが、それも良いです。
の本を読むと死ぬ間際のエピソードなど、スペシャルドラマの題材にしたいくらい。
蔵原伸二郎について、次回も続けます。