峰猫屋敷

覚え書と自己満足の場所

蔵原伸二郎の話

2006年07月04日 17時10分34秒 | BOOK
昨日に続き、町田多加次著・『蔵原伸二郎と飯能』より、蔵原伸二郎の略歴と人となりについて書きます。

明治32年(1899年)に熊本は阿蘇神社の直系として生まれた蔵原伸二郎は、19歳で上京、
戦争中は戦争謳歌の詩を多く発表して売れっ子でした。
疎開先として青梅の岩藏に身を寄せ、その後埼玉の吾野で終戦を迎え、一時は入間市扇町屋に住だこともありましたが、
晩年のほとんどを飯能市で過ごしました。

戦争詩人であった蔵原。敗戦後は人が訪れることも少なくなりました。
詩人の仕事としては「小学○年生」の詩の選定などで僅かばかりの収入を得たり、頼まれれば近隣の小学校の校歌を作詞していたそうです。
しかし、詩人という職業は成り立たない、と著者は書いています。
それでも詩人であり続けた蔵原は、清貧の人だったそうです。

才能がありながらも恵まれない蔵原伸二郎は、戦後3冊だけ詩集を出しました。
3冊目の詩集、『岩魚』の中に、孫を腕に抱いて呟く様子の詩、『風の中で歌う空っぽの子守唄』があります。
その詩の中で蔵原は、赤ん坊に愛しさを感じ 幼い命の中に永遠を見据えながらも、
「お前のおじいちゃんには
 もう何の夢もない
 もう何の願いもない
 すべてが失敗と悔恨の歴史だ」
と書いています。

しかし、最後の詩集である『岩魚』は評判になり、やがて読売文学賞を受賞します。
授賞式は昭和40年2月6日。
前年から体調を崩し、1月に入院していた蔵原が危篤状態に陥ったのが授賞式の朝だったそうです。
そして翌月の3月16日、永眠。

蔵原伸二郎の大学時代の同級生であった石坂洋次郎は、『岩魚』を何気なく読んで大きなショックを受けたといいます。
「ああ、君は人知れずこれだけの仕事をなしとげていたのか、それに較べると、かりそめの名声に囲まれた私の生き方のなんと空しいことか」

青っぽい灰色(?)の瞳を持つ蔵原伸二郎を、続けてこのように賞賛します。

「碧い眼の蔵原君よ!
 少なくとも君の『きつね』の詩は天に記された文字である。
 いつまでも消えない文字である。
 私は君の何十倍、何百倍の文字を書いているが、
 それらは、青空にひととき浮かぶ白いちぎれ雲のように、
 いつのまにか、あとかたもなく消えてしまうものばかりだ」


蔵原伸二郎の奥様は色白のお嬢様だったらしく、貧しさの中にあっても常に夫を尊敬していたそうです。

蔵原が亡くなる前のしばらく、口もきけなくなって筆談していたとのことですが、
3月15日の晩、ひどく苦しみだした蔵原は奥様の手を取り、
手のひらにカタカナで 「スキ」 と書いて翌日未明に亡くなったそうです。


最後に詩集『岩魚』集録、狐の詩6編のうち、もうひとつ掲載します。

      

【 老いたきつね 】

冬日がてっている
いちめん
すすきの枯野に冬日がてっている
四五日前から
一匹の狐がそこにきてねむっている
狐は枯れすすきと光と風が
自分の存在をかくしてくれるのを知っている
狐は光になる 影になる そして
何万年も前からそこに在ったような
一つの石になるつもりなのだ
おしよせる潮騒のような野分の中で
きつねは ねむる
きつねは ねむりながら
光になり、影になり、石になり雲になる
 夢をみている
狐はもう食欲がないので
今ではこの夢ばかりみているのだ
夢はしだいにふくらんでしまって
無限大にひろがってしまって
宇宙そのものになった
すなわち
狐はもうどこにも存在しないのだ