車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

大町市内あちこちウォッチ in 長野県大町市

2022年10月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

大町市大町、若一王子神社参道近くに「岳に眠る:日本アルプス遭難者慰霊碑」

私は基本的に憶病です。山も海も湖も川も、近づき過ぎると怖い。名山も遠くから見て感動する。海も湖も川も絶対に安全な岸辺から見て感動する・・そんなスタンスで本当の自然の美しさなんか分からないよと笑われます。それでもやはり臆病なまま生きいくだろうと思います。御亭主殿にもそれを望んできました。互いを失う恐怖に怯えるよりも、平凡な日々を甘受したいと今でも思っています。

大町市大町大国町に「枝垂れ桜と大黒天像」

大町市指定有形文化財「大黒町追分の石造り大黒天像」「花崗岩製で松本平では最も古く、最も大きいもので、彫刻技術も優れた物である。この像の建立を機会に町名を大黒町に改めたという経緯がある。裏面に「嘉永五年三月 当国高遠非持住 伊藤徳十 同 留十」の印刻があり、造立の由来、年代・作者も特定できるものであり、石造り文化財から信仰の歴史を考える上でも重要なものである。」現地案内より

大町市指定天然記念物「大国町追分の枝垂れ桜 推定樹齢百五十年と考えられ、石像の建立年代とほぼ重なり、記念樹としてその時植えられたという可能性も考えられます。」現地案内より

大町市大国町、千国街道と善光寺街道の分岐点「街道追分跡」「馬頭観音」一基。何故か全く気が付かなかったのですが、写真を写していた私の真後ろに「左 越後道」刻の「庚申塔」があったらしい・・😅

紙垂が巻かれた「馬頭観音像」碑

大町市大町仁科町にあるJR大糸線「信濃大町駅」。駅舎は2010年に屋根の形状などを変更して山岳都市をイメージした山小屋風に改装。長野県産杉材を壁に利用しており、ぬくもりが感じられる仕様となっています。

駅前に『百瀬晋太郎』氏の詩碑【山を想えば人恋し 人を想えば山恋し】。大町市に生まれ、日本で最初に山案内人組合を創設し、大沢小屋を作るなど、登山界に貢献した人物。針木岳の大沢小屋にあるレリーフにも、同じ言葉が刻まれているそうです。

北アルプス山麓をイメージした「大町市観光協会スタンプ」。顔をのぞかせているのは・・もしかして「ニホンカモシカ」??

駅前にある水場。岩陰からこっそりと顔をのぞかせているのは、標高およそ2,500メートル以上の日本アルプスに生息している「雷鳥」・・のモニュメント。最初、鳩?と思った自分が恥ずかしい😅

訪問日:2016年4月18日

 

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仁科(にしな)神明宮 in 長野県大町市社宮本

2022年10月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

大町市社宮本に鎮座される「仁科(にしな)神明宮」。御祭神は『天照皇大神』

「その昔、皇大神宮御領であった仁科御厨の地に勧請された社。創始年代は不詳ですが、神宮雑例集によると後冷泉天皇の永正年にはじめて 信濃に御厨が建立されていた記事があり、この時にはすでに建立されていたのではないかと考えられます。建久3年の神宮雑書信濃御厨の記事にも、麻績、藤長、長田の御厨とともに仁科御厨の名がつらねており、しかも仁科御厨にかぎり、「件御厨往古建立也」と注記があり、信濃でも一番古いことが伺われます。」公式HPより

「国宝本殿は桁行3間、梁間2間、軒高6.6m、棟木の長さ8.3m余、戸前は中央一戸四方に擬宝珠勾欄を廻らし、左右に特有の棟持柱が立ち、屋根檜皮葺、千木高く棟木の上には巴紋をつけた勝男木6本が置かれた平入の建造物で、内宮式神明造である。破風板は、そのまま延びて千木となり、破風板にはそれぞれ4本の鞭懸があり、妻には棟持柱があるなど構造手法に古式がうかがわれ、神明造りの原形式を保存している点で、建築史上貴重な遺構である。細部は概ね室町時代の様式を伝えている。」Wikipediaより

反対側から本殿と釣屋

「釣屋は、本殿と中門との間をその屋根の中段から両下造にして連ねており、屋根は板葺で棟木を置き、柱を用いてない。垂木は疎で小舞を打ち、化粧屋根裏となっている。釣屋の下に張られてある濱縁は維新前までは拝殿と称され専ら祭事を執り行ったところであって、検校・左近・権頭の所謂三新主のみがここに奉仕し、詞官祝を始め12人の小祝は遥か下の神楽殿に詰めていた。」Wikipediaより

「国宝中門(前殿)は単層平入の四脚門で、屋根切妻造・檜皮葺で千木と勝男木とが置かれてある。柱は円柱で、控柱は八角の礎石の上に立っている。根太貫を通して上に床を張り、更に門柱に唐居敷を切り込み、蹴放を置き、方立を立て、両開きの格子附吹寄舞良戸が吊ってある。柱上には冠木を載せ、それと直角に肘木を組み、その上に梁を置いて控柱を連ねてある。梁の上には前時代に見るような丈の高い美しい曲線をもった板蟇股が置いてあり、更にその上に本殿と同様な美しい舟肘木を組んで棟木を受けている。垂木は疎垂木で小舞を打ち化粧屋根裏となっている。屋根の形式は本殿とほぼ同じであるが、勝男木が四本であることと勾配の緩やかであることとが異なっている。」Wikipediaより

拝殿より本殿を仰ぐ

神門左手に並ぶ境内社

神門左手に「元御神木」「仁科神明宮 元御神木」の碑

神楽殿

「御即位記念神苑 大正四年十一月」

社務所内の「大天狗」・・「神明宮境内で倒れそうになって切られた「サワラ」の老木(推定樹齢300年以上)で制作しました。」

社務所内に置かれていた奉納面

「長野県無形文化財:太々神楽」のステンドグラス

参道正面に建つニ之鳥居は、伊勢神宮の遷宮により賜った資材で建立されたもの。

一之鳥居からニ之鳥居に向かう途中の左手に三本杉。昭和54年(1979)3月30日、突風により「三本杉」の中央の杉の木が、根元の癒着の為に倒伏。画僧中央、杉の木の間にある覆い屋は、その根元の部分をもとの位置に復元保存したもので、周囲5m余、高さ50m余、樹齢推定800年余といわれています。

手水舎

手水鉢を支える天邪鬼像

境内奥に広がる「天然記念物:仁科神明宮の社叢」

参拝日:2016年4月18日

 

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若一王子(にゃくいちおうじ)神社 in 長野県大町市大町

2022年10月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

大町市大町に鎮座される「若一王子(にゃくいちおうじ)神社」。御祭神は『若一王子 (熊野那智大社第五殿に祀られる神)・伊弉冉尊・仁品王(にしなおう)・妹耶姫(いもやひめ)』

「垂仁天皇の御代に仁品王が社を建て伊弉冉尊を奉祀したのに始まり、後にこの地方の人等により創始の神として、仁品王とその后妹耶姫が合祀された。鎌倉時代、安曇郡一帯を治める国人領主の仁科盛遠が熊野権現に詣で第五殿に祀る「若一王子」を勧請してより、若一王子の宮と称された。現在の本殿は戦国末期の弘治二年(1556)に仁科盛康によって造営され、更に江戸初期の承応三年(1654)社殿の大修造がなされた。当初若一王子権現と称したが、維新の際現社号に改められ、昭和6年に県社に昇格、昭和51年には別表神社(旧官国幣社格)に加列され、神仏習合の姿をそのままに残した仁科の里の大社として歴史と伝統を今に伝えている。」公式HPより

御本殿は弘治二年(1556)に仁科盛康により造営。四隅に柱を立てた一間社:隅木入春日造りで、国重要文化財に指定されています。

本殿正面の鬼。こうした形式にはあまりお目にかかった事がありません。

拝殿は、昭和48年の伊勢神宮第60回式年遷宮による内宮外玉垣南御門他の神宮社殿の譲与を受け旧拝殿を幣殿となし、その前に新設されたもので、昭和50年の建立。

本殿東の観音堂(大町市指定有形文化財)は、拝殿と廊下でつながれている茅葺の建物で宝永三年(1706)に建立。本尊は若一王子の本地仏とされた『十一面観音』

仁科三十三番札所巡りの第一番札所。昔から「火不見(ひみず)の観音様」といわれ、火災除けの霊験あらたかと伝えられています。

三重塔(長野県宝)は三間三層の柿(こけら)葺。宝永八年(1711)に木食故信法阿の勧進によって建立されたもので、江戸時代の建物としてはよく均斉がとれ、蟇股の人身獣面の十二支の彫刻は有名にして他に類を見ません。

朱塗りの両部鳥居の内より神域を守護されるのは、昭和十年七月建立の岡崎型の狛犬さん一対。

「境内社:八坂神社」。御祭神は『素戔嗚尊』

絵馬は「八岐大蛇を退治する素戔嗚尊」の鏝絵。明治二十七甲午年の奉納です。 

日本アルプスを背景に朱塗りの鳥居と社殿

満開の桜の参道

一の鳥居

参拝日:2016年4月18日

 

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ふらり寄り道:辰野の町~Ⅱ~ in 長野県辰野町

2022年10月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町小野に長野県の県宝「小野宿問屋(旧小野家住宅)」があります。「伊那街道小野宿の問屋・名主をつとめた小野家の建物で、安政六年(1859)の大火後に建築されたものである。主屋の両脇には北側には薬医門形式の表門、南側は通用門が設けられている。幕末における町家、特に宿問屋としての姿を今日に伝え、小野宿町並みの中心部の景観を形成する重要な建物のひとつである。」

「南塩終点の地」碑 「太平洋沿岸で取れる塩を南塩といった。三河湾沿岸で取れた塩は、矢作川を舟で運ばれ、更に馬の背で足助まで運ばれた。この塩は「足助塩」として中馬により伊那街道を根羽から飯田を経て伊那谷を北上し、伊那街道に宿場があったこの地域まで運ばれてきたと考えられる。~後略」

小野家の南隣には下見板張りの「旧郵便局」

「小野正實翁頌徳碑 」

辰野町辰野にあるお堂に『守屋貞治(もりやさだじ)』「陀羅尼地蔵尊」が納められていたとの事ではるばるやって来たのですが・・盗難に合った為、現在は別のところで管理されているそうです。

案内によれば、高遠石工の中でも特に優れた腕を持ち、「稀代の名工」と謳われた守屋貞治。優れた石仏を数多く彫像したことから石仏師ともいわれ、その生涯において350体にもおよぶ作品を残した事が記されています。

登り口の右手に立てられていた石仏二基、句碑一基

宮木諏訪神社から車で少し走った一画に、農協の前身である「産業組合発祥の地」碑と、漢学者「村上豊三郎:報徳碑」

辰野町北大出に鎮座される「神明神社」に「天狗祭りの舞台」が有るという事でやって来たのですが・・・

鳥居までの石段に心折れ、更に境内に至る石段を見て完全に挫折しました😭

ちなみに参道途中の立て看板に「この山は天狗の住む山、には気をつけて下さい」と、神楽に登場するような所作を見せる天狗様が書かれていました。

辰野町伊那富日向にある町指定有形文化財「明光寺山門」。案内に「薬医門形式の山門。棟札によると棟梁は立川一門で諏訪高木村住の小口直四郎で、文政八年(1825)の建築」と記載されています。

辰野町北大出区に「郷蔵跡」の碑。文字がかすれてうまく読み取れませんが「明治四十二年に取り壊された」旨が記されています。

訪問日:2016年4月26日

 

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ふらり寄り道:辰野の町~Ⅰ~ in 長野県辰野町

2022年10月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町樋口に「史跡:樋口次郎兼光の墓」が建立されています。兼光は木曽義仲の四天王の一人と言われた武将で、元服後にここ樋口に居を構え「樋口」を名乗った事から、この場所に墓碑が建てられました。

「乳母子(めのとご)として義仲と共に育ち、弟の兼平と共に忠臣として仕える。治承四年(1180)の義仲挙兵に従って各地を転戦。寿永二年(1183)の倶利伽羅峠の戦いで活躍し、義仲と共に入京。元暦元年(1184)正月、義仲に離反した源行家・源義資を討伐するため、河内国石川へ出陣するが、その間に鎌倉軍が到着し、敗れた義仲は粟津(滋賀県大津)の戦いで討ち死に。翌日、義仲の死を知った兼光は京へ戻る道中で源義経の軍勢に生け捕られ、義仲らの首と共に検非違使に身柄を引き渡され、渋谷高重によって斬首された。」案内より抜粋

敷地内に祀られる「石祠・石碑・石仏」

同じ敷地内に、明治期『山県有朋』によって建立された「彰忠碑」。

辰野町沢底、日本最古の道祖神に向かう途中に見かけた「アズマイチゲ群生地」の看板。残念ながら季節的にまだだったのか、それとも遅かったのか・・何もありません(^^;)

かわりに、看板近くの土手に福寿草が咲いていました。

厳しい冬の寒さに耐え、雪解けとともに可憐な黄色い花を咲かせると言われる福寿草ですが、4月も終盤のこの時期に、こんなに可憐な姿で私たちを出迎えてくれました。「幸せを招く」「幸福」 花言葉通りの幸せをありがとう。

辰野町沢底鴻之田で見かけたお蔵の鏝絵は、波頭を蹴立てて天に上る昇龍の図。

辰野町上平出の一画で見かけた・・・これは多分「シルバープリベッド」、と思うけど自信ない 😓

訪問日:2016年4月25日

 

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辰野町内の道祖神:石仏~Ⅶ~ in 長野県辰野町

2022年09月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町伊那富宮所・上井の上、小横川橋南に「酒器祝言双体道祖神」「明治二十年二月吉日(1887) 山崎中」の刻。お二人の男女神はおそらく媒酌人なのでしょう。共に長い年月を過ごしてきた風格と互いへの信頼感がにじみ出ています。

辰野町伊那富 :宮木諏訪神社に「蚕神様」「蚕王大神:文字碑」各一基。

昭和27年、蚕種製造業者が業績拡大を祈念して蚕蛾の供養塔を建立。「蚕神様」には、蛾と繭と桑の枝葉が大きく彫られています。

辰野町伊那富宮木仲町、諏訪神社前に「双体道祖神」一基。「鳳凰永扇 国土安寧 仲町下町 氏子中」の刻。

女神は五十鈴を、男神は神剣を手にしています。幾年かを重ねた男女神が漂わせる張り詰めた結界の前には、何物も踏み込むことはできません。

「馬頭観世音」碑。「明治十四年九月二日」の刻

辰野町伊那富北大出鞍掛に「握手抱擁双体道祖神」「二三夜塔」「庚申仏塔」他、各一基。

「鞍掛中 帯代七両」の刻

とても若く初々しい男女神。固く結ばれた口元は緊張からでしょうか?互いに握り合う手につい力が籠められて・・それでも片時も離れたくない二人の姿が心に残ります。

辰野町伊那富北大出、明光寺の駐車場に「庚申塔」四基、「仏塔」他各一基。

「七子観音」

辰野町伊那富北大出宮下、神明宮下に「酒器祝言双体道祖神」一基。「庚子」二基。「石祠」一基。「文字碑」一基。

「昭和五十九年(1984)三月 宮下小路中  ㈲唐木屋石材工芸 唐木一平刻」の刻 。

この最良の日のために結い上げた女神の髪は匂うほど美しく、盃を持つ男神はその美しさに酔いしれ、今この時の幸せをかみしめているようです。一対の御殿雛を見ているような・・気高くも美しい道祖神です。

辰野町伊那富北大出・上垣外に「酒器祝言双体道祖神」「念仏供養塔」「馬頭観音」各一基。

「帯代拾五円 北大出上垣外」の刻。こちらも祝言を差配するお仲人役の男女神でしょう。恰幅の良い男神と、いかにもしっかり者の女神。すっかり似たもの夫婦になって、なんだかとても幸せそうですね。

撮影日:2016年4月26日

 

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辰野町内の道祖神:石仏~Ⅵ~ in 長野県辰野町

2022年09月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町の道祖神、文字碑、石仏も~Ⅵ~まで突入しました。この日の一押しは麗しい蚕神様。思いもかけない場所に隠れていた為、危うく見逃しかけましたが無事に遭遇できました。

辰野町横川 木曽沢バス停前に昭和11年(1936)建立の「蚕王神」一基。台石に「蚕王神」の刻。馬上姿で左手に「繭箱」、右手に「桑枝」、頭に「蚕種の皿」を載せています。

辻を挟んでビニールハウスの前に石仏群。中央に「双体道祖神」一基。「庚申塔」「文字碑」など八基。「仏塔」「仏像」など五基。

「酒器祝言双体道祖神」、若い二人は緊張のあまり笑顔を忘れてしまったようです。

「大師像」「菩薩像」

辰野町辰野、堀上竹原に「双体道祖神」一基。「元文五歳」刻から「昭和五十五年」刻の「庚申塔」四基。他「石仏」「石祠」など十基。

「石工:竹渕三郎平」「猿田彦命 天鈿女命」「竹原中 明治六癸酉(1873)二月八日 帯代十五両 」の刻。 見た瞬間・・今は亡き知人にとても良く似ている!と思わず二度見、三度見(笑)。特に男神の顔も体格も彼女にそっくり過ぎて、あまりにもよく似ていて・・・涙がこぼれました。

辰野町伊那富上辰野、堀上荒井に「双体道祖神」一基。左隣に「石祠」一基。石祠としては最古の「永禄七申子年(1564)」の刻あり。更に左に、寛政・大正・昭和の「庚申塔」三基。

「石工:竹渕三郎平」「猿田彦命 天鈿女命」の刻。裏「明治六癸酉(1873)二月八日 氏子中 帯代十五両 」の刻。男神のお顔がお相撲取りさんに似ている・・・でもって、女神のポッチャリした唇がとってもチャーミング。竹渕三郎平氏、はふくよかなスタイルがお好みだったのかも(⌒∇⌒)

近くに「明治五十五年二月」刻の「庚申塔」・「大師像」「念仏碑」など。

辰野町伊那富小横川・中村の「酒器祝言双体道祖神」一基。「庚申塔」二基。

「小横川 中村」 裏「石師平出村中谷仙司 帯代十五両」の刻

晴れの日を寿ぐ若い男女神。女神のお顔に浮かぶ微笑みは、愛する人との永遠の契りへの喜び。それを見守る男神の顔も嬉しそうです。

辰野町伊那富小横川・入村の「握手肩抱き双体道祖神」一基。「庚申」「庚子」各一基。

「小横川 上村中  帯代二十五両」の刻

幸せ過ぎて目じりが下がりっぱなしですか?(⌒∇⌒) 見る位置によって若くも老けても見える男女神。末永くお幸せでありますように。

辰野町の道祖神・石仏巡り~Ⅶ~に続きます。

撮影日:2016年4月26日

 

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辰野町内の道祖神:石仏~Ⅴ~ in 長野県辰野町

2022年09月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町平出に「双体道祖神」二基。「二十二夜様」「二十二夜塔」「甲子」他、石塔多数。

「天明六丙午(1786)二月八日」の刻。道祖神の上部には「御幣」。仏教系の道祖神なのか、男神が向かって左に立ち、寄り添うように立つ女神の手を握っています。顔立ちは判りませんが、きっととても雅な男女神だと思います。

こちらは摩耗が進み過ぎて、ともすれば道祖神である事に気付かずに通り過ぎてしまいそうな・・・それでも立ち止まる事が出来たなら「きっとそうなんだろう」と思わせる雰囲気があります。

「二十二夜様」

「二十二夜様は一生に一度しか願掛け出来ないから、大病の時東の空を向いて、何歳の男とか女とか唱えて願掛けをする。全快すると旧暦七月二十二日の晩、月の出を待って拝む。月の出まで立って待たねばならないから、これを御立待ちといった。また、お参りをしてお灯明のろうそくの燃えさしをいただいてきて、出産のときそれを立てると安産になるとも言われた。大正八年の道路改修の時、旭町の通りにあった二十二夜塔を宝性神社参道に移し、大正十一年に現在地に新しく建立した。~以下略」現地案内より

撮影日:2016年4月25日

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辰野町小野:小野駅から「小野宿」に向かう道すがらに見かけた「庚申塔」「二十三夜塔」「仏塔」 

小野公園山裾の広場らしき場所に「庚申塔」三基。「二十三夜塔」一基・・他

野町上島、渡戸上組本道三叉路に「握手双体道祖神」一基。「庚申塔」三基。「石仏」「石祠」など十六基。

「延享四丁卯(1847)二月日 道祖神 施主村中」の刻。中区一杯に身を寄せ合う男女神。二人の間に入り込める物はきっと何もありません。

辰野町飯沼、JA川島支所前に「はだか武兵衛碑」。他「仏塔」「仏像碑」など三十数基。

「はだか武兵衛碑」「はだか武兵衛」と刻まれた碑に大きな御幣が縛りつけられています。はだか武兵衛は常に裸でいた駕籠かきだったらしく、疾病の神として信仰されているそうです。

「聖観音菩薩」

「金精様」もありました・・・・・(/ω\)

辰野町の道祖神・石仏巡り~Ⅵ~に続きます。

撮影日:2016年4月26日

 

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辰野町内の道祖神:石仏~Ⅳ~ in 長野県辰野町

2022年09月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

「美しい日本」を取り戻すべく、孤軍奮闘された安倍元総理の国葬が「日本武道館」にて執り行われます。遠方の為、九段坂公園での献花は叶うべくも無く、知り人に思いを託しました。この国の行く末を憂いて戦ってこられた元総理の御霊に、心より感謝と哀悼の想いを捧げます。

(ー大和心ー 題字:安倍晋三氏 千葉県香取神宮内)

2022年9月27日

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辰野町沢底鴻之田、鴻之田川沿いの鴻之田公民館近くの山裾に、第九番と番号が振られた「握手肩抱き双体道祖神」一基。他「石仏群」数基。

山間に佇む道祖神らしく苔に覆われた碑見。中区の中央でしっかりと手を握り合って佇む男女神。

姿はおぼろですが、山里の若者を彷彿させる素朴な佇まいと、極上の笑顔に癒されます。

「石仏」

先の石仏群から少し離れた川沿いに「奉納 巡拝供養塔」一基。

辰野町平出、辰野町消防団第七分団屯所の前に「握手双体道祖神」二基、庚申塔他二基

固く結ばれた手、お揃いの袴にお揃いで結ばれた紐。首をかしげて前方を見る男神は満面の笑み。女神の頬もいつの間にか緩んでしまう・・熟年っぽい印象のお二人ですが、実はもっとお若いのかも。

かろうじて握手をしていると思われる男女神。向かって左の方が背が高く見る事から男神と思われますが実際の所は不明。シルエットだけの二人ですが仲睦まじさは伝わってきます。

第七分団屯所建物の横に「庚申塔:昭和五十五年三月 上平出村中」の刻。「頌徳碑 」。一段高い台座の上に「石祠」横に「庚申塔」一基

辰野町平出川端に「双体道祖神」四基。「青面金剛仏」、「霊神碑:石工 赤羽諦寛」「二十三夜:勢至菩薩像」、他。

大きな文字碑の足元に並ぶ四基の「双体道祖神」。左はおそらく「酒器祝言双体道祖神」で、向かって左に男神がいるように見えます。右は互いに差し出す手が結ばれているところから「握手双体道祖神」だろうと思います。

どちらが男神でどちらが女神なのか・・・それさえも曖昧になり・・やがて静かに朽ちていくのを待っているかのような。それでも確かにそこには慈しみ合う神の姿が刻まれています。

「二十三夜:勢至菩薩像」。「勢至菩薩」を本尊として旧暦二十三夜の月待を行う事で、他に「念三夜」や「月天子」と刻まれることもあります。

台座に紫雲と馬

辰野町の道祖神・石仏巡り~Ⅴ~に続きます。

撮影日:2016年4月25日

 

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辰野町内の道祖神:石仏~Ⅲ~ in 長野県辰野町

2022年09月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町沢底入村稲荷社下に「日本最古の道祖神」が存在するという事、資料で見ると、男女神の姿も確認できるようで期待が膨らみます。

「握手抱擁双体道祖神」一基。「蚕玉(こだま)大神社」「馬頭観音像」「庚申供養塔」「天照大神」「大神宮」「摩利支天」の神名碑など十六基。

「永正二年(1505) 入澤底中」の刻。女神の差し出す手をしっかりと握りしめ、肩にまわす手に力を籠める男神。ところで女神の足元が若干見え過ぎているようですが・・、もしかして着物の裾を引き上げてます?。

辰野町平出上野、県道50号線沿いの山際に「握手肩抱き双体道祖神」。二人の間には御幣が立てられています。女神の手首をつかんでグイと引き寄せる男神。さて・・互いの肩にまわした手が何処から出ているのか・・長い時の流れの悪戯なのですが、想像するとかなり怖いかも(^^;)

ブロック壁をくりぬいた祠に「文字碑」「馬頭観音」碑、各一基

辰野町平出、道路より一段高くに「蚕神(さんしん)様」一基。「仏塔」「石祠」二基。「庚申塔」「文字碑」各三基・・他

「明治二十四年(1891)九月造立」の刻。紫雲の中、馬にまたがり左手に繭箱、右手に桑の枝を持つ蚕神様。「馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)」「おしら様」とも呼ばれ、大切なお蚕が病気や災害に見舞われることなく無事に成長する事を願って建立されます。

「如意輪観音像」

辰野町沢底鴻之田、石室の手前に第七番と番号が振られた「酒器祝言双体道祖神」一基。

顔の判別はできませんが、長い黒髪を後ろで束ねた女神の手には大きな瓢。男神は少し俯き加減で照れたように笑っています。

道祖神の後ろに「如意輪観音像」

道祖神が置かれた場所は、山裾の草木に覆われた一画

「不動明王」「役行者」の石像も見えます

「大師像」や「宝篋印塔」などもあり、寺の境内の跡のようにも見えますが、近くには説明や案内も無く、全ては想像の域を超えません。

辰野町の道祖神・石仏巡り~Ⅳ~に続きます。

撮影日:2016年4月25日

 

 

 

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