車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

辰野町内の道祖神:石仏~Ⅱ~ in 長野県辰野町

2022年09月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町平出、法性神社近くに「庚申塔」「二十三夜塔」各二基

法性神社の手水舎横に「庚申塔」二基

法性神社参道脇に「握手抱擁双体道祖神」一基。「庚申塔」「文字碑」他五基。更に右に石造物群が並びます。

「享和四甲子年(1804)三月二日 平出下町中」の刻。表情はうかがい知れませんが、 顔を少しかしげて男神の手にそっと手を重ねる女神。その仕草はこの上なく可憐で愛に満ちています。

石碑の隣に「仏塔」十基、「文字碑」二基。ここにある仏像碑は石工:向山重左衛門の作品とされています。

「青面金剛と三猿」「愛染明王」には上部に「廾六夜」、裏に「石師当村住」の刻が有ります。

「馬頭観音」「勢至菩薩」

左の仏塔には「文政七甲牛(1824)一月日 古畑氏」の刻。右の仏塔には「文政二壬戌天(1819) 四月十二日 春日氏」の刻が有ります。

「如意輪観音」二基

「菩薩像」

辰野町沢底日向の土蔵横に「抱擁双体道祖神」一基。「青面金剛像と三猿」二基。「庚申塔」四基。

「天明三癸卯天(1783)二月吉日 施主」の刻。タンポポの綿毛の中にこっそりと隠れて頬寄せ合うのは、まだあどけなさの残る男女神。

二人の甘いささやきに、ふんわりと飛び去っていた綿毛たち。それでも二人だけの暖かな時間は何時までも続きます。

「青面金剛像と三猿」

辰野町の道祖神・石仏巡り~Ⅲ~に続きます。

撮影日:2016年4月25日

 

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辰野町内の道祖神:石仏~Ⅰ~ in 長野県辰野町

2022年09月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町羽場、火の見櫓の下に「酒器祝言双体道祖神」。他「文字碑道祖神」各一基。

『石工:竹渕三郎平』「明治三庚午年(1870)三月日 東京神□ □石末流 台□□ 年」の刻。双子のような顔立ちの男女神。女神は大きな提(ひさげ)を持ち、男神の盃もそれに負けない大きさ。どちらも袴を着用しており。男神は珍しい佩刀姿です。

辰野町伊那富に「酒器祝言双体道祖神」・「庚申塔」各一基

まだあどけなさの残る男女神、はんなりとしたお顔で善き日を迎えた二人の表情はこの上なく幸せに満ちています。

辰野町下田中屋、公民館前三叉路に「八衢比売(やちまたひめ):八衢毘古(やちまたひこ):岐(くなど)神」の文字碑。「帯代金百両 樋口西割 中屋中」の刻。三神は道を守る神とされ、道祖神とするところもあるようです。

辰野町樋口「須勢理比賣命 大国主大神」の文字碑。「酒器祝言双体道祖神」各一基

『石工:竹渕三郎平』「帯代金 百五十両  樋口西割 下村中」の刻

こんな風に並べると、男女神の名札のようでちょっと楽しい(〃∇〃)

辰野町樋口、山際宝蔵前に「酒器祝言双体道祖神」「仏塔」各一基。「庚申塔」四基。

『石工:竹渕三郎平』背丈も顔立ちもお揃いのような男女神。この先に続く未来へ、こんな風に肩を並べて歩いていけますように。

何方の御像かは不明ですが、裸足の足の指まできちんと彫り込まれているのが印象に残りました。

辰野町樋口「握手肩抱き双体道祖神」「仏塔」「二三夜塔」各一基。「庚申塔」五基。

幼さを感じさせる女神の手をしっかりと握りしめる男神。年若い男女神の未来が幸せでありますように。

「念仏碑」「石仏」等十七基。

辰野町赤羽、八島神社前の参道横に「巻物:双体道祖神」一基。

「赤羽村 看之人命」の刻。男神の顔が欠けているのがとても痛々しく見えるのですが、それでも幼さの残る二人は大切な誰かの延命を願う巻物を持ち、こうして立っているのです。

辰野町の道祖神・石仏巡り~Ⅱ~に続きます。

撮影日:2016年4月25日

 

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宮木諏訪神社 in 長野県辰野町宮木

2022年09月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町伊那富宮木に鎮座される「宮木諏訪神社」。御祭神は『建御名命』。昨日で御柱祭は終わっているのですが、「祝・御柱祭」と書かれた門柱とか・・これが気になるのはやっぱり未練なのかな😔

「本殿は延宝二年(1674)に建てられたもので一間社流造、銅板葺き、棟梁は『藤原金三郎政次』。一部天正三年(1575)の部材を再利用したものや元禄期に改修されたされた時のものが見られます。諏訪神社本殿と棟札(2枚)は江戸時代初期の神社本殿建築の遺構として貴重な事から1991年に辰野町指定有形文化財に指定されています。」

「棟札ハ本殿ニ還シ置ク 二〇一三年吉日」の立て札と碑

入母屋造り軒唐破風向拝付きの拝殿。

拝殿前の「一の御柱」「祝 御柱ご協力ありがとうございました」の垂れ幕がまだ残されています😔

本殿の横にあるので多分、三・もしくは四の御柱。

摂社群

「棟札ハ本殿ニ還シ置ク」の札と碑

「蚕神様」「蚕玉大神」

参拝日:2016年4月26日

 

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辰野三輪神社 in 長野県辰野町辰野

2022年09月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野辰野に鎮座される「三輪神社」。御祭神は『大己貴命・建御名方命・少彦名命』

「上辰野の甘露井にあったが、天正年間に現在地へ移されたと伝えられている。当社は神社名からしても奈良県大三輪町の三輪神社(大神神社)に代表される三輪信仰に刺激されて祀られたものと思われる。本殿脇に「諏訪魂石」がある。三輪信仰が中心の神社であるが建御名方命を祀り、辰野郷の御柱祭の本宮となっている。」辰野町誌より

拝殿の左右には御柱が立てられ、拝所前には真っ白な大御幣。祭祀が行われた後の社殿は空気の色さえも変わったように感じられます。それはきっと、御祭神がお喜びになられているからだと・・私たちはいつもそんな風に思うのです。

拝殿前より神域を守護されるのは昭和六年十月建立の松本型狛犬さん一対。石工は、そうあの!『田近勝之、田近正一』

松本市以外でお目にかかれるなんて、なんだかすごく懐かしくて嬉しい。予定外の神社だったのに、御柱も含めて、もしかして呼んでくれたのかしら?😊

覆屋の内に鎮座する本殿は辰野町の有形文化財指定。文政11年(1828)建立で、棟梁は立川流二代目・立川和四郎富昌の弟子で諏訪の宮大工『小口直四郎代昌』。社殿彫刻の見事さが説明されていますが、覆い屋の中では見る事はできません。

拝殿と本殿の間にある「祝詞殿」。三殿が連なる形式はこの地方では珍しいとか。

三の御柱建ての際の画像ですが、本殿側から見るとこんな風に並んでいます。後方にも石祠などがあったのですが、さすがに皆様の作業の邪魔になりそうなので自粛😅

撮影日:2016年4月25日

 

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法性(ほっしょう)神社 in 長野県辰野町平出

2022年09月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町平出に鎮座される「法性(ほっしょう)神社」。御祭神は『健御名方命 御産子命(みしゃごのみこと) 天照大御神 誉田別命』。

「法性神社の由来碑」

「延暦二十一年(802)坂上田村麿が東征の際武運長久を祈って伊那に五社を造営したが、その一つであるという伝承がある。元暦二年(1185)に信濃権守大祝盛高が再建。後、弘治二年(1556)に武田晴信(信玄)が再建。寛政八年(1796)吉田家へ願い、諏訪法性大明神の社号をうけた。明治四十一年、平出北原にあった八幡社と、境内にあった御社宮司社と伊雑皇社を合祠し「法性社」を「法性神社」と改めた。」

石段参道の先に拝殿

石段参道下より神域を守護されるのは、信州ではあまりお目にかからない出雲丹後系の狛犬さん一対。吽形さんの口には朱が塗られ、阿形さんは仔狛を足の間で遊ばせています。

と・・機嫌よく写真を写していたら、真榊を手にした神主さんと揃いの法被を着た方達が・・・何かお祭りでもあるのでしょうか?

祭事が終わったらしく、社務所に引き上げてゆきます。

そう言えば拝殿には沢山の御神灯が下げられていたけれど・・

もしかして御柱の祭祀があったのかもしれない。だってほら、まだ真新しい紙垂が巻かれた柱が境内に立てられているもの。という事は・・これから祭りがあるのではなく、祭りがあった・・つまり「祭りの後😔…」

この綱・・・多分御柱を運ぶために使われた「曳き綱」だと思う。でも仕方ないよね。祭りの予定を調べて日程を組んでいないし、そもそも祭りが有る事さえ知らなかったんだし。

と・・ヒソヒソ声で話していると、神主さんを先頭に先ほどの方達が拝殿に向かう様子。せめてお邪魔にならないように神事だけでも拝見させて頂ければ・・

拝殿内では神主さんの祝詞のあと、先ほど見かけた法被を着た方々が順に拝礼されている様子。静かに・・静かに、柏手の音も立てず・・出来るだけお邪魔にならないように参拝を済ませ、再び境内に戻ります。

奥の方に見える石祠群は、多分境内社かもしれない。でも拝殿内で神事が行われていると思うと、本殿に近寄るのも何となく躊躇われる・・かといって、ずっと終わるのを待てるほど時間に余裕もないし・・

拝殿近くの神庫に「波頭を翔る龍」の鏝絵。

境内には「平和祈念之碑」「旅順陥落記念碑」が建立されているとのことですが、この碑がどれに該当するのか、もしくは関係ないのかも不明。

法性神社入り口に建立されていた「有賀幸作君記念碑」。上に瀬戸団治による「戦艦大和最後の日」のレリーフ。中央に「海軍中将有賀幸作」像。左下に「川紀元」の書による「有賀喜左衛門」の撰文。

碑文「国に捧げた君たちの尊いいのちよとこしえに 世界平和のいしづえたれと祈る」

「昭和20年4月 日本海軍は戦艦大和を旗艦として残存僅か十隻を以って海上特別攻撃隊を編成し沖縄に突入しようとしたが進撃の途上敵機の猛烈な攻撃に逢い種子島西方海上において遂に敗滅した。その時巨艦大和に艦長として坐乗していたのは平出出身の有賀幸作君であった。君は艦の沈没に先立ち総員退去を命じ艦橋のコンパスに身を縛り艦と運命をともにした。私達は君と共に祖国のために壮烈な戦死を遂げた多くの将兵の心情を偲び日本海軍の最後の日を目に浮かべる。」 昭和42年5月 有賀幸作君記念碑建設委員会

参拝日:2016年4月25日

 

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塩尻市内あちこちウォッチ~Ⅱ~ in 長野県塩尻市

2022年09月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

長野県塩尻市洗馬にある、カフェとお蕎麦・地場産ワインの「きららランド」。お蕎麦がとっても美味しい。お漬物も美味しい(笑)。車泊の食事のお供に、特別にお漬物を分けて頂きました😀。

建物の裏はサラダ広場。ワインの塩尻らしい巨大な葡萄のモニュメント。

この狐は・・もしかして桔梗ヶ原に棲む「狐の玄蕃之丞」さん?!

塩尻市大門、塩尻庁舎の庭園に静態保存されている「D51 155号機」。昭和14年2月に日本車両株式会社で製造され、昭和48年2月までの34年間、塩尻の街を走り続けました。

男の人って何故か機関車を見るとワクワクするらしく、我がご亭主殿も例外ではありません😊

市役所庭園内の「東筑摩農学校跡の碑 明治43年創立昭和24年塩尻高等女学校を統合し桔梗原高等学校と改称。昭和37年高出に移転。昭和40年塩尻高等学校と改名す」

「短歌のまち 塩尻」の碑。塩尻市は、太田水穂や若山喜志子など近代歌壇に名を残す歌人たちを輩出した町なのです。

塩尻市宗賀、中山道の「平出一里塚」。現地案内に「江戸時代、塩尻市内には三つの街道にそって、八ヶ所に一里塚が築かれていたが、両塚を残すのはこの平出のみとなってしまった。この一里塚は日本橋の基点より五十九番目のもので、また、宝暦六(1756)年頃には、この付近に茶屋二軒のあったことが分かっている。」

塚の上の松は「平出の乳松:勘助子育ての松」と呼ばれ、それにまつわる伝承も残されています。興味のある方はググって見てください😊

塩尻市宗賀平出に、縄文時代から平安時代にかけての集落遺跡「平出遺跡」があり、現在までに290軒をこえる竪穴住居址、建物跡、それに伴う多くの土器、石器、鉄器類が発掘されています。

遺跡内には縄文時代や古墳時代の住居七軒が復元されており、中には宗賀小学校の六年生が卒業記念に残した復元住居もあります。

塩尻市片丘にある「南内田公民館」。戦後建築された公民館建築で、現存するものとしては県内最古と言われ、国の登録有形文化財に指定されています。

木造、入母屋の一部二階建、南北に張り出す平谷部分も入母屋造り。各々東西に玄関を構え、風格ある外観となっており、文化財に指定された今も地域住民の生活拠点として活用されています。

玄関上の屋根には「公」の文字が刻まれた鬼瓦。ちなみに鬼が居なくても鬼瓦と呼びます😀

訪問日:2016年4月23日~24日

 

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塩尻市内あちこちウォッチ~Ⅰ~ in 長野県塩尻市

2022年09月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

塩尻市片丘「島崎家住宅」。島崎家は北熊井村の名主を勤めた家柄で、建物が建てられたのは江戸中期(1716~1735)といわれています。

建築様式は、切妻造、妻入。屋根の勾配がゆるやかで、表の中2階がない古式の本棟造。屋根は板葺でしたが、今は鉄板葺になっています。客座敷は右手前に突き出るように造られていますが、これは本棟造で座敷を拡大するためによく用いられた方式であり、民家としては高い水準のものとして昭和48年(1973)6月2日に重要文化財に指定されました。

「日あたりの庭で 島崎光正」

【夏のあいだ咲き続けた草花の種子をてのひらにすると その小さなひと粒ひと粒に 羽のように綿がついていた 遠く旅立つ日のために  こんな工夫がしてあるのだから だまっておいて】

塩尻市片丘字松葉、常光寺の境内に隣接する、国指定重要文化財「小松家住宅」

「建築様式は寄棟平入りで、屋根は茅葺き。柱は栗などの雑木で、手斧で仕上げられている。土台はなく、礎石の上に直接すえられている。当初は片側に厩を含む広い土間をもち、部屋は表裏2室のみの間取りで、裏側の部屋は土座で、極めて単純なものであった。」公式HPより

建築年代は17世紀後半から18世紀初頭とされており、東日本に現存する民家の中でも際立って古いものになります。茅葺寄棟造の主屋が残る近世民家の祖型の一つにあたり、間取りや構造など類例を見ないことから、大変貴重な民家建築として昭和48年(1973)6月2日に国の重要文化財に指定されました。

塩尻市堀ノ内にある「堀内家」は旧堀の内村の名主を代々勤めた豪農で、建物が建てられたのは江戸中期(1701~1800)と云われています。建物は本棟造りの中で大型上質の家であり、この系統民家の一頂点を示しており、昭和48年(1973)6月2日に国の重要文化財に指定されました。生憎の改修中・・

中仙道 塩尻宿の碑 

塩尻市塩尻町にある「小野家住宅」。小野家は中山道塩尻宿の旅籠「屋号:いちょう屋」を代々営み、宿場の中心付近に屋敷を構えた宿場内の有力者であったと云います。

建築は江戸末期(1850)、二階建、切妻造段違、南面庇付、桟瓦葺。北面突出部は切妻造、北面庇付、鉄板葺。昭和48年(1973)6月2日に国の重要文化財に指定されました。

「高札場跡」

「塩尻宿:下問屋跡 高札場跡」碑・「塩尻宿:飛脚問屋跡」

「明治天皇御駐輦所碑」

訪問日:2016年4月24日

 

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塩尻市内の道祖神:石仏 in 長野県塩尻市

2022年09月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

塩尻市洗馬上組下平、琵琶橋の袂に「不動明王碑」「握手抱擁双体道祖神」「庚申」「名号碑」など、寛政期や天保期の石仏十一基。

「安政五戊午(1858)三月日 下平村中」の刻。

重ね合う手も慎ましやかに、未来を見つめて歩みだす二人。その顔に浮かぶものは互いを思いあう真心・・・。2010年の偶然の出会いから六年を経ての再会は、思った以上に感動的でした。

塩尻市元町中町、元町公民館近くに「握手肩抱き双体道祖神」一基。「石祠」一基。

「嘉永四年辛亥(1851)二月吉日 」の刻。

女神は角隠しのような冠を付け、真一文字に唇を結び男神の手を握っています。男神は女神の信頼に応えるべく、しっかりとその肩を抱き寄せています。

塩尻市元町十王堂の「握手双体道祖神」

摩耗が進んでいますが、多分この二人はまだ年若い男女神ではないかと思われます。恥じらいながらつないだ手が可愛らしく、俯く女神の顔はきっと赤く染まっている事でしょう。

【幾年を 経てなお固き相愛の 姿に越し方 かさね見ん】tibineko

撮影日:2016年4月23日

 

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雨寶山:常光寺(じょうこうじ) in 長野県塩尻市片丘 

2022年09月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

塩尻市片丘北熊井にある真言宗智山派寺院「雨寶山:常光寺(じょうこうじ)」『木造如意輪観音坐像』を本尊とします。

「創建時期は平安時代であり、寛永二年(1625)に牛伏寺の僧憲養により中興された。江戸時代には諏訪藩東五千石領に属し、北アルプスを一望する山門は高島城の御殿門が移設されたものである。本堂には、本尊の如意輪観音(鎌倉時代中期、塩尻市指定文化財)があり、寄木造りで漆箔が施されている。薬師堂には薬師如来、庚申堂には青面金剛が安置されている。」Wikipediaより

山門は、明治維新での城破却の際に当寺に移建された「諏訪高島城御殿藥井門」

「信州筑摩三十三カ所観音霊場:第十五番札所」

本堂前の「弘法大師修行像」、参道の「弘法大師修行像」【ありがたや 雨宝の山に大師は常におわします】

初めて拝見した「稚児大師像」

「庚申堂」

庚申堂扁額の三猿

境内の三猿像

小さな赤い括り三猿

鐘楼

境内でくつろがれるお坊様?

蛇に鶴・・何かの謎かけみたいです(^^;)

水芭蕉のお池と地蔵菩薩

安曇野市の「吉祥山:東光寺」でもお見掛けした「子育て道祖神」ですが、こちらの境内ではさらにお子神が成長されています。

まだ年若い夫婦神の真ん中に立つ幼いお子神。三方はいずれも正装のようで、拝見した瞬間「七五三道祖神」と・・頭の中で変換されました(笑)

境内には詩碑などが建立されており、興味深く拝見させて頂きましたが、今となっては正確に読み取れない文字も多く、紹介も中途半端になりました。

【いろは教えた大師様・・・・南無大師】 

【〇〇懺悔  若しもこの世に父母がいますなら 泣いて謝りたき事ばかり ・・・・ 涙かくして南無観世音 涙かくして南無観世音 許してのちに涼風あり 教えてくれた父さん母さん】読み取れない文字がありますが、どなたかの詩碑のようです。

太田水穂(貞一)の歌碑。広丘村生まれ長野師範に進学、島崎藤村に傾倒。卒業後、革新和歌団体「この花会」を和田の地に結成し、松本平を支配する保守的桂園歌人に対抗して信州文壇に大きな刺激を投じた人物です。

御詠歌【  むらさきの 雲のこなたに常光寺  導きたまへ 花のうてなに  】

参拝日:2016年4月24日

 

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塩尻短歌館・短歌公園 in 長野県塩尻市広丘

2022年09月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

塩尻市広丘原新田、近代短歌の潮流の源ともなった広丘の地に、明治元年(1868)に建築されたこの地方独特の本棟造り民家「塩尻短歌館」があります。公式HPには、建物は柳沢家のご厚意により塩尻市に寄贈されたもので、2009年に国登録有形文化財に登録された旨が記載されています。

その塩尻短歌館の後方、赤松林の中に、塩尻ゆかりの歌人達の碑が建立された「歌碑公園」があり、思わず一首詠みたくなるような(笑)独特の雰囲気を醸し出しています。

【  命ひとつ 露にまみれて野をそゆく  はてなきものを 追ふことくにも  】

太田水穂(貞一)広丘村(現塩尻市広丘原新田)に生まれる。

【  あき空の 日に照るみとり にほひ出で 見まはす四方に 阿ふれなむとす 】

窪田空穂(通治)和田村(現松本市和田)。一時、片丘村の村上家の養子となる。

【  いさゝ加の 水にうつろふ夕映に 菜洗ふ手もと明るみにけ里   柿の村人

島木赤彦(久保田俊彦)上諏訪町(現諏訪市)。明治42年に広丘尋常高等小学校長として赴任。在職中に広丘歌会を開き、中原静子らを育成する。

【  鉢伏の 山を大きく野にすゑて 秋年々の つゆくさの花  】 

四賀光子(みつ)長野市。後に水穂と結婚する。

【  春鳥の いかるがの聲うらかなし 芽ぶきけぶらふ 木立の中に  】

若山喜志子(喜志)広丘村(現塩尻市広丘吉田)。

【  いく重やま みやまの奥の山ざくら 松にまじりて 咲きいでにけり  】

潮みどり(きり)広丘村。姉喜志子の影響を受け、歌を詠むようになる。

【  うす紅に 葉はいち早く萌えいでゝ 咲かむとすなり 山ざくら  】

若山牧水(繁)宮崎県。太田喜志と出会い結ばれる。

歌人の散歩道に建立されていた若山喜志子の歌碑

【  水車小屋 へだてて見ゆる苗代の 小田に群れなく 夕蛙かな  】

「広丘国民学校碑」「広丘小学校の前身である広丘国民学校。校歌は、長野県出身の著名な歌人・国文学者である太田水穂によって作詞されたもの。校歌を記録するために、2010年に卒業生によって建立されたのがこの碑。デザインは穂高連峰、鉢伏連峰を表現したものである。」現地案内より

【  隣より また隣よりつぎつぎに 牛啼き出でて 村は明けゆく  】

太田青丘(兵三郎)広丘村(現塩尻市広丘原新田)。太田水穂の兄、嘉曾次の三男として生まれ、水穂の養嗣子となる。

公園内に建立されていた「牛馬観世音」「馬頭観音佛」他険しい峠が連なる塩尻や木曽のような山国における物資の輸送において、牛馬の存在は格別に大きなものでした。馬頭観音の碑や石仏が街道筋に多く見られるのは、そうした牛馬への感謝と無事を祈る気持ちの表れだったのかもしれません。

  「牛馬観世音史跡地」碑  「軍馬之碑」

【 刻まれし 文字をたどるわが指に 重なる指の面映ゆし】tibineko

訪問日:2016年4月24日

 

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