車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 愛媛県四国中央市&旧伊予三島市

2021年01月21日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

四国中央市(しこくちゅうおうし)は愛媛県の東端に位置する市です。2004年4月、川之江市、伊予三島市、宇摩郡土居町、新宮村が合併し発足しました。新居浜市、県を跨いで香川県観音寺市、徳島県三好市、高知県土佐郡大川村・土佐町、長岡郡大豊町・本山町と四国三県に隣接。南に法皇山脈、北は瀬戸内海燧灘に面し、四国地方を代表する工業都市の一つで、日本一の紙の町を標榜、日本有数の製紙産業地帯となっています。

キャッチフレーズは「手をつなぎ 明日をひらく元気都市」

「四国中央市 紙のまち資料館」の玄関脇には紙業発展の礎を築き、今日のめざましい繁栄の素因を作ったとされる『篠原朔太郎翁立像』

販路開拓で紙の町を創った三傑の一人とされる『住 治平坐像』

2004年4月1日制定の市章は「四国初の高速道路開通を実現し、縦貫、横断自動車道の結節点に位置することとなった四国中央市が、その地理的メリットを生かし人、物、情報等の交流拠点都市を築こうとする躍動感、そして迎え入れる人の優しさ、ふれあう心の温もりを表したものである。左右の2本のラインは、高速道路と四国中央市の頭文字の「S」を意味し、左のライン(ブルー)は「うみ」を、右のライン(グリーン)は「やま」を、そして中央の球(オレンジ)は「まち」をそれぞれイメージさせ、自然と都市との調和を象徴している。」公式HPより

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旧伊予三島市(いよみしまし)は愛媛県の東予地方、宇摩地域に位置した市です。川之江市、宇摩郡別子山村・土居町・新宮村に、また県を跨いで高知県長岡郡大豊町・本山町、土佐郡土佐町・大川村に隣接。四国の瀬戸内海側のほぼ中央、四国四県の県境に近接した位置にあり、北には波静かな燧灘、南には四国山脈の峰々を望み、四国山地と法皇山脈の間には吉野川支流銅山川の清流が横たわります。銅山川沿いには、四国の自然100選に選ばれた「翠波高原・富郷渓谷」などの景勝地があり、また、金砂湖は県立自然公園にも指定。これら豊かな自然に育まれた豊富な水により全国屈指の「紙のまち」として製紙産業が発展し今や四国を代表する工業都市となっています。「市の木:クスノキ」「市の花:ツツジ、コスモス」を制定。

1889年、町村制施行により、宇摩郡三島村・松柏村・寒川村・豊岡村・富郷村・金砂村が発足。

1898年、三島村が町制を施行、宇摩郡三島町(第一次)が発足。

1944年、中曾根村、中之庄村、三島町、松柏村が合併、三島町(第二次)が発足。

1952年、寒川村が町制を施行、宇摩郡寒川町が発足。

1954年、宇摩郡三島町、松柏村、寒川町、豊岡村、富郷村、金砂村が合併し、伊予三島市が発足。

マンホールには市章と、翠波(すいは)高原の「コスモス」がデザインされています。

昭和30年5月1日の市章は「「ミシマ」を図案化したもので、マの点は発展浪頭にかたどり海外雄飛をも印象づけ更に合併6ケ町村を円く円に抱擁、繁栄と融和のシンボルとして意味づけた」旧公式HPより

撮影日:2011年6月15日

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旧宇摩郡土居町(どいちょう)は愛媛県の東予地方に位置した町です。新居浜市、伊予三島市、宇摩郡別子山村に隣接。南に中央構造線により切り立った赤石山系の山々が連なり、北は燧灘に面し、その間に平地が東西に広がり、農村地帯を形成。五葉松やサトイモの産地としても知られ、昭和60年(1985)に四国で初めて高速道路(四国縦貫自動車道 土居インターチェンジ・三島川之江インターチェンジ間)が開通。「町の木:五葉松」「町の花:ツツジ」「町の鳥:メジロ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、宇摩郡土居村・長津村・小富士村・天満村・蕪崎村・関川村が発足。
1954年、土居村・長津村・小富士村・天満村・蕪崎村・関川村が合併、宇摩郡土居町が発足。

昭和49年11月1日制定の町章は「「どい」を図案化したものです。」

土居町入野PAにあった路上のタイル絵には上記「五葉松」の他に「町の鳥・メジロ」、特産品の「ミカン」が描かれています。

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旧宇摩郡新宮村(しんぐうむら)は四国のほぼ中央、愛媛県の東端に位置した村です。北は法皇山脈を境に川之江市と、西は伊予三島市に。さらに県を跨いで、東は徳島県三好郡池田町・山城町に、南は高知県長岡郡大豊町に1000メートル級の山々で隣接。村の大部分は急傾斜の山林で、耕作地は少なく、集落は谷あい及び比較的傾斜のゆるやかな中腹に分散。土佐街道が村を南北に縦貫しており、歴史的遺産や言い伝えも数多く残されています。「村の木:山桜」「村の花:菜の花」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、宇摩郡新立(しんりつ)村、上山村が発足。
1954年、新立村と上山村が合併、宇摩郡新宮村が発足。

昭和50年11月17日制定の村章は「「シン」を回転したものです。」

(※)旧宇摩郡土居町・旧宇摩郡新宮村では、マンホールに類する物は何も見つけられませんでした。

撮影日:2014年3月25日

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岩松地内~あちこちウォッチ in 愛媛県宇和島市津島町

2021年01月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

昔ながらの港町の面影を残す宇和島市津島町岩松地区。旧宇和島街道に沿った町並には明治から大正の建築が残されており、風情のある町並を楽しむことができます。

岩松川沿いに建つ「大畑旅館」。終戦直後『獅子文六』が執筆の為に滞在したという部屋が残されているとか。

何ともにぎゃかな看板の「大野文六堂」。前述の『獅子文六』の小説「てんやわんや」にちなんだ「文六餅」なるものが販売されているそうですよ。

岩松地区最大の建造物群とされる「西村酒造場」。白漆喰の壁と格子戸の対比が眩しいほど鮮やかで、町並の中でもかなり目立つ存在です。

さらに際立って足を止めさせる、西国三十三観音霊場 第15番札所「金龍山:臨江寺」の山門。昭和14年に建立された鐘楼門の二階部分には中央に花頭窓、左右に格子が嵌め込まれた窓が設けられ、お寺と言うよりも別の建物を髣髴させる・・優美な佇まいです。

神社と違ってお寺の場合、檀家でもない者が出入りするには何となく敷居が高く、手軽に入って参拝と言うのは意外と臆するのです。特に私達のような余所者には・・

だからと言って建物だけ写真に撮って素通りなんて・・罰当たり過ぎて😅 ご本尊様がおいでであろう本堂に向かい、神妙に手を合わせて御真言を唱えさせていただきました🙏🙏

敷居が高いと気軽に建物などを画像に収める事が躊躇われます。そんな訳で画像に残したのは山門の彫刻くらいですが、それも何故かひっそりと・・って・・・まるで不審者ですよね😅

ひっそりと写した彫刻ですが、向背の龍の躍動感は迫力満点。牡丹を咥えて振り返る獅子も魅力たっぷり、特にビックリしたような目がこの上なく可愛らしく。

さらに私たちを静かに狂喜させたのが、山門の留蓋😲。足元に紅葉が散らばり、左小脇に抱きかかえているのが鹿だとしたら「寿老人」かな?

はて、そうするとこちらはどなたを表しているのでしょう?大人と子供の組み合わせですが、どちらも半裸で剃髪しておられる所を見ると、俗世の人ではない気もします。色々と調べてみましたが、結局何も分からず😔❓

とっても活きのよいお魚がはねるのは「酒庵・まほろば」の壁。私が育った瀬戸内海の小さな漁船では「ガシラ」と呼んでいたような気がするのですが、確信はゼロ!😅

岩松の繁栄を支えていたといわれる「大庄屋:小西本家」。貞享元年(1684)宇和島から岩松に移住して酒造商を営み、三代目で苗字帯刀を許され、宇和島藩では最も家格の高い庄屋として活躍した小西家。明治初期には岩松村の土地の半分以上を所有する豪商となったと云います。

駆け足で通り過ぎた津島岩松の町歩き。本当はもっと沢山の見所があったのですが、結果としてはほぼ半分以上が「臨江寺」の紹介(極一部)となりました。八年近くも前の思い出ですが、それでもこうして振り返ると懐かしさで一杯です。

訪問日:2013年3月25日 

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ご当地マンホール in 愛媛県旧津島町(宇和島市)

2021年01月19日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧北宇和郡津島町(つしまちょう)は愛媛県の南西部、南予地方に位置した町です。宇和島市、南宇和郡愛南町に。また県を跨いで、高知県宿毛市、四万十市に隣接。宇和海に長く突き出した由良半島の概ね北側半分が町域で、東半分は標高が500メートル以上の山間地。西半分はリアス式の海岸で、海岸線は95キロメートルに達し、その一部は足摺宇和海国立公園を形成。平地は岩松川とその支流に沿ってわずかに開け、真珠・魚類の養殖が盛ん。また獅子文六の小説「てんやわんや」のモデルとなった事でも知られます。「町の木:ヤマモモ」「町の花:ショウブ」「町の鳥:シラサギ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、北宇和郡津島村・清満村・北灘村・畑地村・下灘村が発足。

1895年、北宇和郡津島村が、岩松村と高近村に分裂。

1899年、北宇和郡清満村から、御槙村が分立。

1919年、岩松村が町制を施行、北宇和郡岩松町が発足。

1938年、岩松町と高近村が合併、北宇和郡岩松町(第二次)が発足。

1955年、岩松町、清満村、御槙村、北灘村、畑地村、下灘村が合併、北宇和郡津島町が発足。

2005年、旧宇和島市、北宇和郡吉田町、三間町と合併し、宇和島市津島町となりました。

マンホールには町章を中心に「町の鳥:シラサギ」「町の木:山桃」「町の花:しょうぶ」がデザインされています。

昭和44年(1969)1月1日制定の町章は「満願寺の境内にある「二重柿」を図案化し、「ツシマ」を表したものです。」合併協議会資料より

撮影日:2013年3月25日

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旧北宇和郡吉田町(よしだちょう)は愛媛県南西部に位置した町です。西予市、宇和島市、北宇和郡三間町に隣接。宇和海に突き出した半島と付け根の部分にあり、急傾斜地が多く、平地はわずかに10%程度。正面の宇和海では真珠・ハマチ養殖が盛んで筏が並び、背後の山々には山頂近くまで果樹園が切り開かれ、日本一のみかん産地として有名。かって旧吉田藩の陣屋として栄えた歴史があり、それが町名の由来とされます。「町の花:ミカン」「町の鳥:メジロ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、北宇和郡吉田町・立間尻村・奥南村・立間村・喜佐方村・高光村・東宇和郡玉津村が発足。
1938年、北宇和郡立間尻村を編入。
1955年、北宇和郡奥南村、立間村、喜佐方村、高光村知永、東宇和郡玉津村と合併、北宇和郡吉田町(第二次)が発足。
2005年、旧宇和島市、北宇和郡津島町、三間町と合併し、宇和島市となりました。

昭和32年(1957)9月25日制定の町章は「中央に頭文字のYをおき、市の特産品である蜜柑の花を表しています合併協議会資料より

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旧北宇和郡三間町(みまちょう)は愛媛県の南予地方に位置した町です。西予市、宇和島市、北宇和郡吉田町・鬼北町に隣接。三間盆地を形成する流域は水田地帯で、かつては吉田藩の穀倉地帯であり、今日でも三間米の産地として知られています。「町の木:クスノキ」「町の花:コスモス」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、北宇和郡三間村・成妙(なるたえ)村・二名村が発足。
1954年、北宇和郡三間村、成妙村、二名村が合併、北宇和郡三間町が発足。
2005年、旧宇和島市、北宇和郡津島町、吉田町と合併し、宇和島市となりました。

昭和43年(1968)11月1日制定の町章は「「三間」を図案化したものです。」

(※)旧北宇和郡吉田町・旧北宇和郡三間町は未訪問のため、ご当地マンホールの有無は未確認です。

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遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑 in 愛媛県宇和島市

2021年01月18日 08時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

遠き昔より、「耕して天に至る」と形容されてきた「遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑」「急斜面に石垣を積み上げて作られた階段状の畑地は、眼前に広がる宇和海の美しさもあいまってまさに絶景。「日本農村百景」に、また2007年7月には全国で3例目の「国の重要文化的景観」に選定されました。」HPより

「耕して天に至る」・・・このフレーズに心を鷲づかみにされた私たちは、宇和島での外せない立ち寄り地として、この場所を選びました。

「魚見の丘」から見下ろす「水荷浦湾」。海の向こうに見る山肌の白さに??と思いながらも、まだこの時点では、噂の絶景を見られるという期待感で一杯でした。

ですが実際に現地について駐車場から見えた景色は・・・あの白い山肌の正体を知ったときの衝撃は・・・・

私たちは言葉を失い、しばらくは息をするのさえ憚られるほど、ただ黙ってその場に立ち尽くしていました。

これを段々畑と呼んで良い物なのか・・高さ1メートルほどの石垣は、はるか山頂まで続き、もっと驚愕なのはその山頂部分が目視できると言う事実。それは取りも直さず、切り立った急斜面であることの証。

観光案内のページには「歴史の重みと、壮観な造形の美に圧倒される」とありました。私たちもネットでここの写真を見たとき、単純に「凄い!」と思ってやって来たのです。

けれども、これを「造形の美」と呼ぶには、あまりにもその状況が過酷過ぎて、言葉が出ないのです。腕を伸ばして、たったこれだけの幅しかない畑を耕し、さらに耕地を求めて上に上にと石垣を築きあげてゆく。

海辺に面した集落では、おそらく男衆は漁に出ていた筈。それではこの畑を耕してきたのは家に残る女・子供・・・生きていく糧の助けとするべく耕されてきた段々畑。それでも・・これほどまでに急な山の斜面を切り拓かなければならなかった水荷浦の地形の厳しさ。

頂上付近で作業をしている人の姿が見えた時は、思わず声にならない声を飲み込み・・ 見上げている自分の体が小刻みに震え、足が竦み・・・思わずその場にしゃがみこんで動けなくなってしまいました。

頂上まで上る気力なんてとっくに消えうせ、ご亭主殿の後ろ姿に手招きされて下へ・・それでさえこんなに足裏がむず痒くなる光景なのに・・

観光案内にあるように、確かにこの光景は圧倒的な凄さを持って、私たちの心を鷲づかみにしました。見ていると、何故かポロポロと涙がこぼれて、そのまま我慢していると、声を上げて泣いてしまいそうになるほど・・。

「耕して天に至る」・・・この後に続くのは「以って貧なるを知るべし。」
身近に平地があるのなら、誰が好き好んで天に至る高さに畑を作るものか・・決して裕福ではなかった漁師の家に育った私にも、こんなに過酷な条件での暮らしは想像も出来なかった・・

それでも・・と、思い返します。こうして重要文化的景観となった事で、様々なものが生みだされ、それは間違いなくここの暮らしに反映される筈だと。

観光も含めて、この景観を守る為の様々な取り組みがなされていると聞きました。それはとりもなおさず、ここで生きてきた方たちの、財産となるべきもの。人々がそこに生きた証の遺産として、大切に守り残して欲しいと、心から願っています。

訪問日:2013年3月25日

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宇和島市内~あちこちウォッチ in 愛媛県宇和島市

2021年01月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

築城の名手「藤堂高虎」会心の名城とうたわれた「宇和島城」。宇和島市丸之内に建ち、別名を鶴島城と呼ばれる天守は、昭和9年(1934)に天守・大手門(追手門)が国宝保存法に基づき、当時の国宝(現行法の「重要文化財」)に、城址は昭和12年(1937)に国:史跡に指定されました。(昭和20年7月の宇和島空襲により大手門は焼失。)

お城への入り口になるのは、三の丸跡に移設された「市指定有形文化財:藩老:桑折(こおり)氏武家長屋門」。かってこの場所には三の丸御殿が建ち、その近くにまで海が迫っていたと言います。

宇和島の天守がこの地に初めて建造されたのは慶長6年(1601)。高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主「伊達政宗」の長子「伊達秀宗」が宇和郡10万石を賜り、元和元年(1615)に入城。2代「伊達宗利」の時、天守以下城郭の大修理を行い、寛文11年(1671)に完成しました。

これまでの経験からいうと、お城への道はたいがい大変なものと相場が決まっています。様々な理由は有るのでしょうが、一番の理由は敵が容易に攻め込めない様にという一点に尽きます。

この中途半端に段差の異なった石段、慣れていないというのもありますが、昼間の明るい日差しの下でさえも歩幅の調子が狂って、危険な事この上なし。

石段の途中に、かなり大型の井戸を見つけました。説明では「宇和島城の本丸北側の井戸丸(井戸屋形)。井戸の直径は2.4m、深さ11m。井戸丸に通じる石段も往時のままに段差がそれぞれで異なる設計となっており、敵軍が攻めづらい工夫がなされている」とあります。

長い年月の中で苔むした石段、生い茂る草木が石垣の隙間からはみ出し、地面を覆い隠しています。気分的には山城にいく感じ・・

なんだかんだと言いながらでも、何とか天守までたどり着きました😄 途中までの道が嘘の様な、驚くほど明るく開けた天守台。やっぱり本物のお城は素敵で、満開の桜がさらに城を引き立たせています。「伊達なまち歩き」の顔出しは、多分伊達家の誰かなんでしょうね。

丁度団体さんとかち合ってしまって、入城は遠慮したのですが、どっちみち、往時のままの城内に気軽に入れるほど健脚でもないので、まぁ、良いか😅 お城の素敵さは十分堪能できたしね。

宇和島城を後にして住吉町に向かう途中、宇和島市駅にほんの数分立ち寄ってもらいました。目的は闘牛の像と、宇和島で最初に走ったという「ケ220・ドイツ製の蒸気機関車」。駐車帯が無かったので、ご亭主殿はロータリーを二週して、待ってくれました😅

とりあえず目的の物は写真に収めたし・・と言うことで住吉町に残された「宇和島市立歴史資料館」へ。明治17年(1884)、旧宇和島警察署庁舎として建てられた「擬洋風建築」の建物は、昭和28年(1953)に、南宇和郡西海町(現:愛南町)に移築され、同町の役場として1990まで使用。その後宇和島に里帰りをし、住吉町の樺崎砲台跡そばに復元されました。

残念ながら玄関ドアには「本日休館」の札・・好きでわざわざ予定に入れる割には、休館日を把握していない当たり・・間が抜けています😔 まぁ、この美しい外観を見る事が出来ただけで、良しとしましょう。

資料館の敷地には「旧宇和島海軍航空隊・甲種飛行予科練習生実習用教材:旧日本海軍魚雷酸素式機関部」や、「最後の小型焼玉エンジン」が屋外展示されていました。

見るべきものはこれで終わりですが、もう一つ気になるものがこの「やつしか」。何とも怪しい鹿もどきの集団が、意外とあっちこっちに出没するのです。

牛鬼ストリートの中の何処かのお店の玄関マットの中には、奉納の儀式でもしているような「やつしか」の集団がデザインされています。

「やつしか」とは宇和島地方に古くから伝えられ、350年余の伝統を持つ民俗芸能。「鹿の面を頭につけ、その面から垂れた布で上半身を覆い、太鼓を前に抱えて打ちながら歌い踊る。この「太鼓踊り」系の鹿踊りは、宮城県各地に普及。その中で、雄鹿たちが雌鹿を尋ね探して遂に発見して喜ぶ「めじしかくし」という踊りが、旧宇和島藩領となる南予一円には定着、分布している。」HPより

路上絵が出たついでに、国名勝の指定を受けた「天赦園」の庭に咲くという「白玉藤」。池泉廻遊式庭園の水面にうつる「白藤太鼓橋」・・時期が合えば実物を見たかったのですが・・

市の花は「ミカン」なので、多分これも 「天赦園」のお庭に咲く「あやめ」でしょう。

訪問日:2013年3月25日

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和霊(われい)神社 in 愛媛県宇和島市

2021年01月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

宇和島市和霊町、鎌江城跡に鎮座される「和霊(われい)神社」。御祭神は、宇和島藩家老『山家清兵衛公頼公(やんべせいべえきんよりこう)』

由緒「宇和島伊達家初代藩主秀宗の家老で、総奉行として政務を担当していた山家清兵衛公を祀る神社。伊達政宗の信頼も厚く、領民にも生き神と称される公であったが、その手腕を疎ましく思う反対派の兇刃に倒れ無念の死を遂げた。 その後藩主藩民その功績を偲び、公の御霊を和める為に建立された。」愛媛県神社庁より

随身門を潜り石段参道を登った先にて神域を守護されるのは、文化13年(1816)春建立の、大きな玉を抱いた広島型の狛犬さん一対。真正面から見た阿形さんの鼻が・・・・いや、狛犬さんのことは言えませんが😅  吽形さん・・そんなにシゲシゲと見るのは失礼ですよ!

拝殿前より神域を守護されるのは、昭和36年(1961)12月建立のブロンズ製護国型狛犬さん一対。怨霊と恐れられ、神となられた方が鎮まる社をしっかりと守っておいでです。

「境内社:竈(かまど)神社」、御祭神は『火産靈命(カグツチのみこと)』と思われます。

拝殿前より神域を守護されるのは、かなりの年代を経たと思われる狛犬さん一対。失われた四肢が災害に寄るものなのかどうか・・痛ましくはありますが、阿吽ともに、そんな些細なことなど気にしている暇はないといった風情が、この上なく頼もしく思えます。

「竈神社」の右手に鎮座される「境内社:三島神社」。御祭神は『大山祇命』と思われます。

拝殿脇より神域を守護されるのは文政7年(1824)8月吉日建立の狛犬さん一対。他の狛犬さんたちと比べるとかなり童顔に見えますが、だからって吽形さん・・そんなに驚かなくても😅

境内一杯に枝を広げる御神木「大銀杏」。無念の死を遂げた後も領民から慕われたと言う御祭神の姿を写しているようです。

神社の絵馬には、日本一の大鳥居や拝殿などと共に、和霊大祭の様子が描かれています。拝殿に奉納されていた「牛鬼」の頭は、この「うわじま牛鬼まつり」で使われたものでしょう。

境内の一隅に、どういう繋がりがあるのか、「坂本竜馬脱藩 百四十年記念」碑があります。調べてみると、坂本龍馬の4代前の先祖が屋敷神として「和霊神社」を勧請しているんですね。としても、やはりこの碑は、某大河への便乗感がぬぐえない気がするのですが😅
高知で散々目にした竜馬脱藩、まさかまたここでお目にかかろうとは、予想外でした。

今回参拝した「和霊神社」ですが、実はとても中途半端な参拝に終わってしまいました。ご亭主殿の大好きな狛犬さんも、全て見て廻れなかったし、急いだので画像の確認を怠ったことが如実に表れています。
理由は色々有ったのですが、それでも今振り返ると「残念だな」という想いがぬぐいきれません。距離的にもコース的にも決して近くは無い「宇和島市」・・再訪が叶うかどうかも定かではありません。

参拝日:2013年3月25日

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ご当地マンホール~3 in 愛媛県宇和島市

2021年01月15日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

宇和島市ではリアス式海岸を生かして養殖水産業(真珠、ハマチ、マダイなどの魚類)が発達し、稚魚・餌料供給、資材供給などの関連産業も発達してきました。かつては愛媛県の真珠養殖日本一の中心的存在となったほか、鯛類養殖では周辺地域も含めると日本一の産地となりました。平成の中頃、魚価の低迷や真珠貝(アコヤ貝)の大量死などにより、廃業が相次ぐなど苦境の時期もありましたが、平成後期以降は、漁価の安定等で経営環境は良くなってきました。

遊子地区の漁業集排マンホールには、海底に眠る「真珠」がデザインされています。

周辺地域も含めると、日本一の産地とされる宇和海の養殖鯛がデザインされています。

下の二つの碑は、水荷浦入口の「魚見の丘」にある「魚貝藻霊供養塔」の近くに建立されていたもの。

【海こそは 命とけふも 拝みて 漁りにいく 永遠にさきはへ】

【生命みな 尊きものよ 春の海】

撮影日:2013年3月25日

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ご当地マンホール~2~ in 愛媛県旧宇和島市(宇和島市)

2021年01月14日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧宇和島市(うわじまし)は愛媛県の南部(南予地方)に位置した町です。北宇和郡吉田町・三間町・津島町・鬼北町・松野町に隣接。 藤堂高虎により築城された宇和島城を中心に城下町として発展し、慶長20年(1615)より、宇和島伊達家が9代に渡って統治。幕末には、高野長英、村田蔵六(大村益次郎)といった人物が滞在し、宇和島の近代化に貢献しました。また大正末期から盛んになった「闘牛」でも知られています。
「宇和島(南予地方)の闘牛は、獅子文六が終戦直後に発表した小説『てんやわんや』の大ヒットや、西宮球場への宇和島闘牛の遠征興行をフィクション化した井上靖の『闘牛』(昭和25年芥川賞受賞)によって全国的に注目され、知名度を高めましたた。」HPより

明治22年(1889)、町村制の施行により、北宇和郡宇和島町・丸穂村・八幡村・九島村・三浦村・高光村・来村・宇和海村が発足。

1917年、宇和島町が北宇和郡丸穂村を編入。

1921年、北宇和郡宇和島町、八幡村が合併、市制を施行し宇和島市が発足。

1934年、北宇和郡九島村を編入。

1955年、北宇和郡三浦村・高光村を編入。

1957年、北宇和郡来村(くのむら)を編入。

1974年、北宇和郡宇和海村を編入。

マンホールには、ドーム型の闘牛場で戦う「闘牛」がデザインされています。

名古屋市下水道科学館の展示マンホール

大正9年(1921)9月1日制定の市章は「「八」を「宇」で囲んだものです。」

「宇和島市管工事協同組合」の文字と「蛇口から水が出ている水道」がデザインされています。

「うわじま闘牛定期大会は、年にたった5回の晴れ舞台です。制限時間なしで牛同士が戦い、逃げた方が敗けというシンプルなルールです。その歴史は深く、17世紀の後半頃、宇和海を漂流していたオランダ船を福浦の漁民が救助し、礼として贈られた2頭の牛がたまたま格闘したことから始まった、と伝えられます。うわじま闘牛では技は10種に分類されます。」HPより
闘牛大会が近づくと、こうした大会のポスターが至る所に貼られます。プロレスやボクシングでさえも苦手な私には、間違いなく一生、縁の無いものです😅

撮影日:2013年3月25日

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ご当地マンホール~1とマンホールカード第4弾 in 愛媛県宇和島市

2021年01月13日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

宇和島市(うわじまし)は愛媛県西南部に位置する市です。2005年8月1日 、旧宇和島市と北宇和郡吉田町・三間町・津島町が対等合併し、(新)宇和島市が発足しました。北は西予市、東は北宇和郡鬼北町・松野町、南は南宇和郡愛南町、海を隔てて西宇和郡伊方町、八幡浜市に。さらに県を跨いで高知県宿毛市、四万十市に隣接。西は宇和海に面し、入り江と半島が複雑に交錯した典型的なリアス式海岸が続き、4つの有人島と多くの無人島があります。東側の鬼ヶ城連峰は、海まで迫る急峻さを備え、起伏の多い複雑な地形をしています。海岸部の平野や内陸部の盆地に市街地や集落が点在し、河川の多くは宇和海へ注いでいますが、三間川は清流四万十川に合流して高知県へ流れています。「市の木:うばめがし」「市の花:ミカンの花」を制定。

キャッチフレーズは「人と交わり、緑と話し、海と語らう、きらめき空間都市」

カードデザインにも採用されたマンホールには、宇和島で200年の歴史を持つという「牛鬼」がデザインされています。

「和霊神社」の奉納:牛鬼面

「住吉トンネル」の牛鬼

2005年8月1日制定の市章は「Uwajima(うわじま)の「U」をデザイン。青色は「海と空」。緑色は「自然」。赤色は「きらめく太陽」。赤い円と緑のUで「人」を表現。『人と交わり、緑と話し、海と語らう、きらめき空間都市』にふさわしい発展性と躍動感のある市章。」公式HPより

宇和島の牛鬼をモチーフに誕生したキャラクター『もーに君』。特技はハマチやじゃこ天などで遊ぶことだそうです。

ご当地公衆電話ボックスはもちろん「牛鬼」。

撮影日:2013年3月25日

「西日本に伝わる妖怪、牛鬼(うしおに・ぎゅうき)は、主に海岸に現れては人や家畜を頻繁に襲ったといいます。難渋した人々は、喜多郡河辺村の山伏に退治を依頼します。牛鬼と対決した山伏は、ホラガイを吹き真言を唱えたところ、その威徳に牛鬼がひるんだので、持っていた剣で牛鬼の眉間を貫き、体をバラバラに斬り裂きました。牛鬼の血は7日7晩流れ続け、淵となったそうです。この時の淵は、高知県土佐山、徳島県白木山、香川県根来寺に、それぞれ牛鬼淵の名で、今もその伝承を語り継いでいます。」

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マンホールカード、頂きました。

2017年4月3日、第4弾として全国42自治体で50種類(累計301自治体170種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「宇和島市」のマンホールカードは、「道の駅 みなとオアシスうわじま「きさいや広場」内観光センター」でいただけます。

1998年に設置開始されたマンホールには、「牛鬼」がデザインされています。

「宇和島市の祭りの花形「牛鬼」の顔を元にデザインしたマンホール蓋です。 牛鬼は、牛をかたどった大きな竹組の胴体に、長い首、鬼面の頭(かしら)、剣をかたどった尻尾を持ち、全身がヤシ科の植物シュロの毛や布で覆われています。 毎年7月22~24日に開催される「和霊大祭(われいたいさい)・うわじま牛鬼まつり」などの祭りで、数十人の若者に担がれ、長い首を打ち振りながら市内を練り歩きます。 本デザインのカラーマンホール蓋は、JR宇和島駅に近いアーケード商店街「きさいやロード」内とその周辺に設置されています。 中には色違いの蓋もありますので、じっくり散策してみてください。」

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紫電改展示館 in 愛媛県愛南町(旧城辺町)

2021年01月12日 08時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

御荘湾を含む海岸部は足摺宇和海国立公園の一部となっており、美しく穏やかな眺めが続きます。が・・今はそんな景色を楽しむ余裕がありません。

私達が目指すのは、愛南町御荘平城・馬瀬山頂公園内にある「紫電改展示館」。急がなければ開館時間内に間にあわなくなります!

「紫電改」と聞いて、それが第二次世界大戦中に開発された戦闘機の名前だとわかる人がどれほど居るのか・・私だって、はるか昔に兄が読んでいた漫画の存在が無ければ、多分知らずに通り過ぎていたと思います。
戦争を扱った作品はどちらかと言うと苦手だった私ですが、それは単に格闘技漫画は苦手と同じ感覚で、漫画作品として見るには、まだ夢見る夢子ちゃんにも満たない年齢の私には、縁の無い話だったからに過ぎません。

ちばてつや氏の漫画の中に登場する「紫電改」・・歴史の遥か彼方に埋もれてしまった筈の戦闘機が、この地上に姿を現したのは1978年11月。南宇和郡城辺町(現・愛南町)久良湾の海底で、ダイバーによって1機の紫電改が発見されました。着水した機体としては機首部分を除き、ほぼ損傷のない状態で発見された紫電改。
おそらくは、戦闘中に機体の不調によって着水を決意、波の静かな久良湾に着水したものの、機体もろとも水没したものと推定されます。が、それにしても賞賛されるべき操縦技術です。

1979年7月に引き揚げられた紫電改は、遺族の意思により引き揚げ時の原型を維持する程度に補修・塗装され、日本国内で現存する唯一の実機として保存・展示される事になりました。

松山海軍航空隊の『原田幸作氏』が捧げた「嗚呼紫電改」、読み進むうちに痛いほど胸が詰まって、見る見るうちに文字が滲んでしまいました。

【身は南豫に果つるとも 命輝け 宇和の真珠と】

命をかけてこの国を守ろうとした方々に、私たちは、きちんと応えているのでしょうか。散華された命に敬意も払えない人が、自らを知識人だと名乗り、したり顔で平和を語る世の中。それを見聞きするたび、ただただ申し訳なく、湧き上がる怒りにも似た涙を、抑える事が出来ません。

身を捨てて礎となられた方々に、有りもしない汚名を着せ、嘘で固めた自称!犠牲者にペコペコと媚び諂う自称識者・文化人、国を守るべき筈の政治家の言動を見聞きするたび、口にしてはいけない、汚い言葉を飲み込む自分がいます。

太平洋の海深く、大和と共に眠るご亭主殿の祖父様、名前しか知らない伯父さんたち・・名前さえ知らない何千何万もの方たち・・・私たちは、その尊い犠牲の上で自由を謳歌し、人と出会い、人と結ばれ命を紡いでいます。
名も知らぬ誰かの遺影の前に立って手を合わせて誓うのは、馬鹿の一つ覚えの「過ちを繰り返しません」ではなく!、「あなた方の命の購いの上に生かされている事を感謝いたします」・・それだけです。

訪問日:2013年3月24日

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