車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

楊梅山 観音寺 in 長野県塩尻市贄川

2022年05月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

塩尻市贄川、国道19号沿いに門を構える高野山真言宗智山派寺院「楊梅山  観音寺」。室町時代の作と伝えられる「木造十一面観音立像」を本尊とします。

創建は大同元年(806)と伝わるも、織田家に転じた木曽義昌を粛清する為に当地まで進軍した武田勝頼との激しい戦いに巻き込まれ、その兵火により荒廃。時は下り、慶長2年(1597)本山京都智積院より、珍永僧都により再興。寛永10年(1633)の大火にて、重要記録共々焼失するも、万治2年(1659)に再建。本堂は安永4年(1775)の再建で、入母屋・銅板葺・正面千鳥破風・平入、外壁は真壁造りの白漆喰仕上げ。

山門は寛政4年(1792)に再建されたもので三間一戸・入母屋・銅板葺き(元こけら葺)、八脚楼門で、上部が鐘撞堂となる鐘楼門形式。江戸時代後期の楼門建築の遺構として貴重な事から昭和60年(1985)に塩尻市指定有形文化財に指定。

境内から見る山門

山門横に祀られる地蔵菩薩と如来像

祠の中に座す地蔵菩薩

本堂近くより参拝者を出迎えてくれるのは、見上げる高さの「聖観世音菩薩像」

真言宗寺院の少なかった木曽路において、ここ「観音寺」は贄川宿だけでなく広く真言宗の宗徒達から信仰されてきたといいます。子供の頃より御大師様が身近だった所為か、私にとっての「南無大師遍照金剛」は特定の宗派を表すものではなく、ある種のおまじない的存在だった事を・・ふと思い出しました。

参拝日:2010年10月3日

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麻衣廼(あさぎぬの)神社 in 長野県塩尻市贄川

2022年05月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

塩尻市贄川、観音寺の裏手に鎮座される「麻衣廼(あさぎぬの)神社」
御祭神は『建御名方神(たけみなかたのかみ)・事代主命・保食命(うけもちのみこと)』

社歴「天慶年間(938~947)に諏訪坂東(権現岩の上方)に創立。天正十年(1582)木曽義昌と武田勝頼の戦が鳥居峠にあり武田氏敗退の際社殿を焼失。文禄年間(1592~1596)現在地に遷宮。御柱祭りの記録は安永五年(1776)のものが有る。」

覆い屋の中に鎮座される御本殿は延享4年(1747)に建てられたもので朱漆に柿葺の三間社流造。市の有形文化財に指定されていますが、特別な祭礼の日でもない限り、お目にかかる事はできません。

木曽の地で『建御名方神』を祭る最古の神社とされ、御神紋も諏訪下社と同じ「立穀(たちかじ)の葉」。また七年に一度の寅と申の年の5月には御柱祭が執り行われます。

参道石段、鳥居の左右より神域を守護されるのは狛犬というよりも獅子と呼ぶ方がしっくりくる一対。阿形さんは隙あらば飛び出そうとする仔狛の背中をしっかりと押さえて苦笑い。吽形さんはそんな仔狛を厳しくも慈愛深い目で見守っています。足下の綺麗な装飾の毬は仔狛の為のものでしょうか。

石段左右に聳える巨木に張り渡した注連縄と紙垂。吸い込む空気も、深い社叢の気に満たされて、何とも言えない心地よさ。そういえばこの神社の社叢は市天然記念物に指定されていましたね。

覆屋の傍らに設けられた手水鉢にはまん丸の甲羅を背負った亀が。龍ではなく亀にしたのは何か意図があったのか、それとも石工の好みだったのか。いずれにしても見ているだけでほっこりするフォルムに癒されます。

亀さんの後ろに積み上げられた薪は、やがて訪れる季節への準備? 私たちには10月は秋の真っただ中ですが、木曽の冬はもう目の前。

御社名の【麻衣】は木曽の枕詩で、御岳の村落を中心に古くから織られていた「木曽の麻衣」に由来します。以前記事にした「木曽八景・小野の滝」の風景画に添えられた俳句にも「木曽の麻衣」が読み込まれています。
【名にたてる 木曽の麻衣そめなして 雲井にさらせ たきのしら糸】

参拝日:2010年10月3日

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贄川(にえかわ)関所 in 長野県塩尻市贄川

2022年05月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

中山道六十九次33番目は木曽路最北端の宿場「贄川(にえかわ)宿」。古くは温泉があった事から「熱川」と書かれていましたが、温泉が枯れてからは現在の漢字を当てるようになったとか。また、贄川宿には木曽福島関所の添番所として贄川番所が置かれ、中山道を通る人と物の往来を監視し、「女改め」や「白木改め」の任を担っていました。

「贄川口留番所」とも呼ばれた贄川番所は信濃国伊那郡にあり、その役割は非常に重要視されていました。管理者は尾張藩代官身分の『山村甚兵衛』。慶応3年(1867)明治の政変により関所は「入鉄炮出女」が緩和されましたが、その後の大政奉還に伴い、改めて関所の警衛を厳しくするよう命じられます。それが贄川関所の最期の花舞台だったかも知れません

明治2年(1869)廃関の令によって木曽福島関所を含む全国の関所が廃止され、贄川関所もまた同じ運命をたどりました。

取り壊された贄川番所は、昭和51年に古図をもとに復元され、関所関連の資料等を展示。また階下は「木曽考古館」として縄文時代の土器・石器が展示されています。

「中山道宿村大概帳」によれば、贄川宿の宿内家数は124軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒で宿内人口は545人。宿場は昭和5年(1930)の大火で古い町並みの大部分が焼失しましたが、上町の一部の鍵の手付近に昔の面影が残されています。

関所に向かう道に架けられたJR中央本線の跨線橋「メロディー橋」。橋の欄干部分が鉄琴仕様になっており、順番に叩いていくと木曽節のメロディーが奏でられます。
♪ 木曽のなぁ~中乗さん~~ 木~曽の御岳さんは~なんじゃらほい~♪
余りにもなじみが深い曲なのでついつい口ずさみ、車に戻った後もしばらくメロディが離れず、いつのまにかハモっている二人😄

ちなみに「中乗さん」とは、その昔、木材を木曽川で運搬した際、木材の真ん中に乗った人のこと。木材の先頭に乗る人を「へ乗り」・後ろを「とも乗り」・真ん中を「なか乗り」と呼び、いわゆる責任者的存在だったそうです。他にも説があるようですが、私的にはこの説に100万ペリカ😄

訪問日:2010年10月3日

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木曽路を行く・奈良井宿~特別編~ in 長野県塩尻市楢川

2022年05月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

木曽路の宿場歩きはこの奈良井宿がラストですが、ここでは特別に忘れ難い経験をしました。私の好きな言葉の一つ「一期一会」。この時の思い出はまさにその言葉そのものでした。

宿場歩きの途次に何気なく見かけた風景・・・その方は秋の日差しの下で何やら熱心に作業をされていました。

モノ作りを見るのが大好きなご亭主殿、作業をされるその方の手元にある不思議な形に魅せられてずっと眺めていたのですが、ふいに「興味がありますか?」と声をかけられ、作業の終わった不思議な品を手に取らせてくれました。

その後は「どこから来たの?」「はい、京都からです」とよくある会話が続き、「京都からですか、では一力はご存知ですか?」と聞かれ、「一力は「万」の字を二つに分けて一力としたんですよ」と・・

そこから話が弾み、書の話になりお店の看板文字の話になり、熱心に耳を傾ける観光客との会話が楽しいと思ってくださったのか、「では記念に一枚、何か書いて差し上げましょうね」と、店内に案内され・・

松坂屋さんの店内には、着物好きならずとも思わず手に取りたくなる和装小物や、漆器のグラスなどがお行儀よく並べられています。

さっき作っていたものの完成品ですよと見せて頂いた漆塗りの「たぼがき」。日本髪を結う時に使われる櫛の一種だと思うも、自分で使ったことが無いので名前に関しても確証はありません。お聞きすれば良かったなと後で後悔。

その後、何枚かの半紙に書をしたため、落款を押し、そのうちの一枚を選んでご亭主殿に手渡してくださいました。

そして「これは貴方にあげましょうね」と言って書いて下さった・・

【軒先に 山法師実る なら井宿】

御主人が作業をしていた腰掛の後ろに、不思議な身を付けた植物があり、何かと尋ねた私に、ニコニコと笑いながら「これは山法師の実だが、見たこと無いかね」

乾ききっていない半紙を大事に下げたまま宿場歩きを続けた二人。軽く二つ折りが大丈夫になるまで、意外と時間を要しましたが無事に自宅の額に収まりました。

訪問日:2010年10月3日

2014年、私たちは再び奈良井宿を訪れました。今回はj🐣さんが一緒だったので、前回のような特別なエピソードは無い筈だったのですが・・懐かしい真っ赤な櫛看板を見て、思わず店内に・・・。

四年前の事を話し、懐かしさについお声をかけてしまいましたと詫びる私を店内に招き入れ、お客様がおいでだったにもかかわらず、友人共々、思いがけないおもてなしをいただきました。御主人はあれから暫くして難病を患われたと奥様から聞かされました。書を頂いたこと、今も大切に額に飾ってある事を話すと、当時を思い出されたのでしょうか。「ではまた一つ書きましょうかね」と、四年前とちっとも変わらない優しい声で・・

お店を辞す時思わず涙をこぼしてしまった私の肩を抱き寄せて下さった奥様。多分これが最後になるかもしれないと思いながら、それでも再会を約束せずにはいられなかった・・・・結局・・果たせる望みが無くなってしまった事が悔しくてならない

あれから随分と歳月が流れて・・・最初に貰った山法師の書は2018年6月の大地震で吹き飛んだ屋根の雨漏りでダメにしてしまったけれど、お地蔵様の絵は今もにこやかに壁で笑っておいでになります。

訪問日:2014年6月20日

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木曽路を行く・奈良井宿~其の四 in 長野県塩尻市楢川

2022年05月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

気に入ってしまうとあれもこれも書きたくなって際限が無くなるのが私の悪い癖😔 と、わかってはいるのですがやっぱりカットできずに其の四まできてしまいました。 鎮神社の参拝を終えて坂道から見る上町の佇まい・・ああ、本当に何て穏やかな風景なのだろう。

奈良井宿には珍しい石置き屋根のお宅。昔はこうした景色の屋根もそれなりにあったのかもしれない。

さて、奈良井宿には山側に5つの寺があるのですが、その中でもっとも最北に位置するのは、天文元年(1532)創建の真宗大谷派寺院「専念寺」。と言ってもちゃんと見たのは寺鐘のみ。

旧本陣跡の後方の森に鎮座されるのは「稲荷神社」。体力温存のため😅 鳥居前からの参拝で失礼させて頂きました。

奈良井宿で最も観光客の多いお寺といえば、「マリア地蔵」で知られる臨済宗妙心寺派の寺院「広寺山:大宝寺」

信州・木曽霊場・七福神めぐりの寺で、知恵と寿命を与える神−寿老人の霊場寺としても有名です。

創建は天正10年(1582)、当時の領主奈良井義高が大安和尚を招いて自らの菩提寺として開いたのが始まりと伝えられています。後に奈良井宿が整備されると木曽代官となった山村氏が庇護し、明暦年間(1655~1657)に玉洲禅師を招いて中興開山。寺号を「広伝寺」から「広伝山:大宝寺」に改め、堂宇の再建も随時行われました。

ご亭主殿が一生懸命見上げているのは山門の彫刻。

渦巻ばかりのように見えますが、中央に亀に乗った仙人の姿があります。

おや、なんだか楽しそうな声が聞こえて来たけど何だろう? 旅の好奇心は意外と侮れないもの。「行け!」と本能のささやきに従ったら、何と「かぼちゃ」の出張販売。しかも賑やかな声の主は地元のお母さまたち。

地元の方が買い求める「かぼちゃ」・・という事は・・・これはめっちゃ美味しいのでは!!と悩んでいたら試食を勧められ・・ で、「開田高原のかぼちゃ」買っちゃいました😄

これからまだ宿場歩きを続ける予定なのに、荷物を増やしてしまった私。だって今買っておかなきゃもう二度目は無いかもしれないし、これは致し方無い事なのです!そのような事情ですので、荷物持ち、よろしくお願いします😊

宿場町には珍しい洋風の建物は「旧奈良井診療所」。山深い木曽の宿場町に建てられた、まるで西洋医学を具現するかのような洋館の診療所。そこにはきっと沢山のドラマが秘められていたに違いない・・・と、膨らむ妄想。

ご亭主殿が熱心に見ているのは、色彩豊かな奈良井の土人形が並ぶ「藤屋土産物店」。作品はすべて店主のオリジナルで、懐かしいお伽噺を題材にしたものから、武者人形・雛人形などと種類は多岐に渡っています。

宿場に軒を連ねるお店を一軒一軒見て歩くのは、実はとっても楽しいものでついつい寄り道が増えるのが困りもの。 こちらは日野薬草本舗さんの店内。柱の看板「日野百草丸」は、江戸時代から伝わる「百草」の、キハダの内皮を煎じたオウバクエキスに、5種類の生薬を配合した伝統の胃腸薬。店内にいると独特の生薬の香りがします。

香ばしい味噌だれのにおいの元は・・・「たなかや」さんの「五平もち」。これは今食べておかないと! ああ、でも蕎麦も捨てがたいし・・真剣に悩む二人😣😣

どんなに離れがたくても終わりはあるもの・・素晴らしい宿場の風景、忘れ難い人との出会い、そしてずっしりと重いお土産。四時間近くの奈良井宿散策、ラストの画像は奈良井権兵衛駐車場の奥に展示されている小型の蒸気機関車C12-199号

奈良井宿は、上町・中町・下町の3つの町割りから構成され、江戸・明治の建築が半数以上を占めています。ことに建造物は近世の宿場町や木工業にかかわる町の特徴を顕著に残している事から、昭和53年(1978)5月31日、国重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。

訪問日:2010年10月3日

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木曽路を行く・奈良井宿~其の三 鎮(しずめ)神社 in 長野県塩尻市楢川

2022年05月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

塩尻市楢川、奈良井宿の最南端・鳥居峠の入り口に鎮座される「鎮(しずめ)神社」。御祭神は『経津主命(ふつぬしのみこと)』

由緒「寿永から文治(1182~1190)の時代、『中原兼造』が鳥居峠に建立したと伝えるも、天正10年(1582)の戦火で焼失。元和4年(1618)、奈良井宿に疫病が流行り、これを鎮めるため『奈良井義高』が、「下総国・香取神宮」から『経津主命』を勧請し、現在の地で祭祀を始めたことから鎮(しずめ)神社と呼ばれるようになった。」

拝殿の奥、覆屋の中に建つご本殿は寛文4年(1664)の造営。大工棟梁は大桑村の定勝寺山門手掛けた『田中庄三郎重房』。一間社流造・こけら葺で全体に朱漆が塗られているそうですが、外からではその姿を見る事はできません。本殿は塩尻市有形文化財の指定を受けています。

拝殿の左右より神域を守護されるのは、目・口中・玉に鮮やかな彩色が施された、かなり個性的な狛犬さん一対。奉納年などの詳細は不明ですが、見た感じではそんなに古い物ではないようです。

台座付近を確認していると吽形さんの右前足の下で不敵に笑う仔狛さんと目が合って思わず苦笑い。無視するなとでも言いたげな顔つき、個性的という意味では決して負けていません。

朱塗りの鳥居の真後ろに建つ、朱塗りの神楽殿と御神木の杉(の根元部分)

巨木過ぎて、これくらい離れないと全体像は写せません。

奉納額の文字は随分とかすれていますが「鎮神社」の御社名だけは驚くほど鮮やか。

鎮神社の入口に建立された「蠶魂(こだま)大神」の碑。「蠶」は「蚕」の旧字であり、養蚕が盛んだった地域にはこうした文字碑が多く見られます。

鎮神社の前を北に進めば、中山道屈指の難所と言われた「鳥居峠」への登り口。京に向う旅人は、これから先に待ち受ける難所の峠を無事に越えられるようにと神に祈り、京からやっとここまで来た旅人は、長い道中の無事を神に感謝して宿で一息つく・・石灯籠に灯された火の色は、行く人・来る人のいずれにも胸に迫るものだったでしょう。

境内の近くに建立されていた同祖神、庚申塔。庚申様の足元には、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿の姿もあります

右から馬頭観音像、阿弥陀佛・廿三夜塔

庚申塔

さぁ、参拝を済ませたら、再び奈良井の宿場を歩く旅人に戻るとしましょう😊  奈良井宿の魅力はまだまだこんなものではありません!という事で(こればっかり)、明日は「奈良井宿~其の四」に突入です 。

参拝日:2010年10月3日

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木曽路を行く・奈良井宿~其の二 in 長野県塩尻市楢川

2022年05月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

奈良井宿の宿場歩きは行ったり来たりの繰り返し、だから後で写真を見返しても建物の位置関係はまるで滅茶苦茶。まぁ、自分たちが納得できているので良いのですが、間違っても宿場歩きの参考にはなりません😅

ご亭主殿が気に入って何枚も画像に残した「徳利屋さん」。昭和初期まで旅籠として使われていた建物で、市の有形文化財に指定されています。宿場情緒たっぷりの建物は資料館を併設した食事処となっており、多くの人が出入りしていました。

二階の出粱(だしばり)づくり、鎧庇(よろいびさし)などに、典型的な民家の様式を残す建物は、塗櫛の問屋を営んでいた「中村家住宅」。天保年間の建物で、同じく市の有形文化財。

文政元年(1818年)創業の老舗の旅籠「御宿 伊勢屋」。江戸時代には脇本陣、下問屋を務めた家柄で、現在の建物は江戸時代末期の建築です。

「国重要文化財:手塚家住宅・上問屋史料館」は天保11年(1840)の建物で、近世を通じて宿の問屋役、庄屋役を断続的につとめた家柄です。明治時代に入ると奈良井駅郵便御用取扱所となり、昭和48年まで郵便業務を取り扱っていました。

明治13年の明治天皇御巡幸の際には行在所をつとめ、またその際にお昼を召し上がられたというお部屋も保存されているそうです。

馬籠・妻籠でも紹介した郵便局。片手落ちにならないように、奈良井宿の郵便局はこんな感じで、旧本陣跡の奥にあります。

ご亭主殿が立っているあたりが「本陣」の場所ですが、今は駐車場になっているようで、一応「本陣跡」と書かれた標柱が立てられています。

奈良井宿のちょうど真ん中辺りに、日本一標高の高い蔵元「杉の森酒造」があります。車泊で見知らぬ土地に行くたびに、その地方でしか味わえない地酒を買い求めるのを楽しみにしているご亭主殿。いそいそと店内に😄

寛政5年創業の看板と見事な造形美を見せる杉玉。2014年の再訪でこちらに寄るのを楽しみしていた御亭主殿でしたが、すでに休業されており、その願いは叶いませんでした。

とても!とても良い雰囲気の「珈琲処 つちや」さん!

開店時間にはまだ少し早いみたい、じゃぁこのまま先まで行って、帰りにちょっと優雅にお茶しましょうね😊

ご亭主殿が試案深げに立っているのは、上町と中町の間に設けられた「鍵の手」。宿場内に道の屈曲を作り、敵の直進を防ぐ為に設けられたもので、妻籠・馬籠で見た枡形と同じ性質を持たせています。

鳥居の奥に祀られる「荒沢不動尊」

馬籠宿以来の「双体同祖神」。同祖神は「道の向こう」より侵入する疫病や災いなどを防ぐ神として、主に道の境や村の辻などに祀られますが、こうした双体神の場合は夫婦和合の意味合いもあると言われています。

鍵の手の水場

注連縄が巻かれた松の巨木は、津島神社の御神木の赤松。その前に万延元年(1860)建立の庚申塔・祠・金比羅大権現の石碑が並びます。

観光客の姿が無い上町の佇まい。この静かな一画も、あと少ししたら賑やかなさざめきに包まれる筈。

さぁ、観光客の少ないうちに、何よりも歩き過ぎてへたばってしまう前に😓 予定に組み込んだ奈良井宿の神社参拝しなくちゃね。

と言うことで明日は「木曽路を行く・奈良井宿~其の三鎮神社」に続きます。

訪問日:2010年10月3日

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木曽路を行く・奈良井宿~其の一 in 長野県塩尻市楢川

2022年05月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

中山道六十九次34番目の宿場「奈良井(ならい)宿」。東海道と共有する草津・大津宿を除いた中山道六十七宿中(板橋から守山まで)、奈良井宿は江戸側の板橋宿から数えても京側の守山宿から数えても34番目に位置する、丁度真ん中の宿場町。木曽11宿の中では最も標高が高く、難所の鳥居峠を控え、多くの旅人で栄えた宿場町は「奈良井千軒」と謳われました。

「木曽の大橋」から始まる奈良井の宿場歩き。橋脚を用いない木橋は長さ33m、幅6.5m、水面からの高さ7mで、架橋の時点では日本一と言われていました。

1991年の起工から三年の歳月をかけて完成した「木曽の大橋」。奈良井宿の新たな名所として観光客の人気撮影スポットにもなっています。

樹齢250年~300年の地元の木曽ヒノキを使用した豪華な総檜造り。橋に用いた材木で、5軒~6軒分の家が建てられるという・・・庶民の私にはため息の出そうな贅沢な話。

そんな超贅沢な橋上を独占できる私たち、上下二枚の木曽大橋の画像は2014年のもので、この時は生憎のお天気でしたが観光客の姿も無く、ある意味ラッキー😄😄  大橋の画像のみ2010年と2014年を取り混ぜましたが、空の色以外は何も変わらないのが、何故か嬉しかった事を覚えています。

贄川関所の厳しい詮議も無事に通過し、次なる「藪原宿」に向かう旅人たちが疲れた足を休め、ほっと安堵の息をついたであろう宿場口。次の薮原宿までは一里半(約6k)で、距離としてはさほどではありませんが、全行程が標高1197メートルの深く険しい山道を分け入らなければならない難所の鳥居峠超え。

「中山道宿村大概帳」によれば、奈良井宿の宿内家数は409軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒、宿内人口は2,155人。宿の延長は8町5間(約881m)。街道の山側には、六つの水場と五つの寺が並び、宿場の外れには、まるで行く手を阻む様に鳥居峠が迫って見えます。

昔の旅の苦労の欠片も知らない私たちは、目に入る非日常の光景に目を奪われながら、宿場歩きを楽しみます。二階を少しせり出した出梁(だしばり)造りの家屋が道筋に沿って規則正しく並ぶ様は、「ああ、今まさに木曽路の宿場歩きをしているんだ」と実感させてくれる光景。

入口にはめられた大戸、日常の出入りにつかう潜り戸、入口の横のしとみ戸、二階の手すり付けられた格子、その両脇につけられた袖うだつ。

馬籠・妻籠と見てここ奈良井宿に立った時、唐突に「ああ、私はこの場所に来たかったんだ」と心の底から思いました。他の宿場が劣っているわけでも何でもない・・でも私はこの場所に立ちたかったのだと、強く確信したのです。

宿場に入ってすぐの山側に設けられた「下町水場」。綺麗な湧き水は今も昔もそこに住む人々の、そこに訪れる旅人の渇きを潤してきました。片隅に活けられた花の瑞々しさが水場の大切さを伝えてくれます。

よそよそしさも無く、かといって馴れ馴れし過ぎないこの心地よい距離間。目に入る建物のすべてが好ましく、何度も何度も同じ建物の前を行ったり来たり

庇板を押さえているあの桟木は「猿頭(さるがしら)」って言って、奈良井宿独特の様式らしいよ。などとパンフレットで仕入れたばかりの知識をひけらかす私😀

にわか仕込みの知識を織り交ぜて話しながら歩く道々、時折ご亭主殿がチェックを入れているのは木曽路に来てからすっかりファンになった「お焼き」の店。はいはい、とりあえず立ち食いになっちゃうからお茄子のお焼きを一つだけね😩

江戸時代、奈良井宿の名物として白木細工に漆を塗ることから発展した「木曽漆器」。昔から旅の土産として重宝された奈良井の木曽漆器は、今も旅のお土産として、時代に合った様々なものが商われています。

長い歴史が凝縮されたような「楐屋漆器店」の看板。楐(かい)の読みで合ってるのかしら?

大きな木曽漆器のお盆を看板にした越後屋さん。でも商っているのは漆器ではなく漆器に盛る美味しい食事。奈良井宿の中で木曽漆器製造業を営みながら、昭和48年4月16日に奈良井宿で最初の食堂「民芸食堂・越後屋」を開業したと紹介されていました。

何か変わったものを見つけたご亭主殿、カメラを構えて屋根の上にピントを合わせています。釣られて見上げた私、思わず「わぁ~!」

何という事でしょう!(大昔に流行ったフレーズで(笑))、そこには木彫りの鍾馗様がおいでになるではありませんか!

「民宿・江島屋」さんの屋根から街道を見下ろす「木彫りの鍾馗様」。実は知る人ぞ知る有名人なのです。一体見つけると他にもないかと探してしまうのが好事家の性。でも残念ながら鍾馗様はこちらの一体だけでした。

奈良井宿の魅力はまだまだこれから、と言うことで「木曽路を行く・奈良井宿~其の二」に続きます。

訪問日:2010年10月3日

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ご当地マンホール in 長野県旧楢川村(塩尻市)

2022年05月13日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・長野県

旧木曽郡楢川村(ならかわむら)は長野県の中部、木曾谷の北端に位置した町です。伊那市、木曽郡木祖村・日義村、筑摩郡朝日村、上伊那郡辰野町、南箕輪村、更に標高1,197mの鳥居峠を隔てて塩尻市に隣接。奈良井川の上流域を占めるが、耕地はきわめて少なく、北端の桜沢には「是より南木曾路」の碑があり、中山道六十九次33番目の宿場「贄川宿」、34番目の宿場「奈良井宿」を擁します。奈良井と平沢がおもな集落で、ともに木曽漆器漆の町としてられます。「村の木:ナラ」「村の花:ハギ」「村の魚:イワナ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、西筑摩郡楢川村が発足。

1968年、西筑摩郡が改称して木曽郡となり、木曽郡楢川村となる。

2005年、塩尻市に編入、塩尻市奈良井となりました。

マンホールには、どんぐりの実をつけた「村の木:ナラ」と、「奈良井川のヤマメ」が描かれています。

贄川地区のマンホールには、贄川宿に設置されていた「贄川の関所」、周囲に「百合の花」が描かれています。

贄川の関所(復元)

1989年7月18日制定の2代目の村章は「NARAKAWA」の「N」を図案化し、未来に向かって限りなくひらける村の姿を表します。下の中央にある線は奈良井川を表し、悠久と清澄を意味し、全体の形で村民の融和と円満を象徴する。」合併協議会資料より

楢川村と書かれた「消雪」用の蓋

三度笠に草鞋のキャラは、NPO法人わおん♪楢川地区のキャラクター『なららちゃん』。特産の木曽漆器が変身!して江戸時代の旅人姿になり、楢川の魅力を発信しています!

撮影日:2010年10月3日&2014年6月20日

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薮原(やぶはら)神社 in 長野県木祖村

2022年05月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

木祖村藪原に鎮座される「藪原(やぶはら)神社」。御祭神は『伊弉諾尊・伊弉再尊・速玉男命・事解男命』。相殿に『須佐之男命・菅原道真公』を祀ります。

由緒「天武帝9年(681)、縣坂頂峯に熊野の神々を御鎮座。のち建久3年(1192)縣坂南効の十王へ遷座。さらに永正8年(1511)に現在の地へ遷座された。創建以来「熊野社」と称せられ、中世には「熊野大権現」、のち「熊野大神宮」と改称、さらに明治4年(1871)に現在の社名に改称された。」公式HPより

秋の気配の中、鮮やかに映える朱塗りの両部鳥居を潜り急勾配の坂を登ると、二の鳥居。

鳥居の左右より神域を守護されるのは、護国タイプとも鈴昭和とも呼ばれる狛犬さん一対。

傍らに生島足島神社宮司『正七位・有賀四郎』氏による「奥谷壽雄翁頌徳碑」。薮原神社の宮司は奥谷家が世襲されており、その関連の方かもしれません。

塵一つ無く掃き清められた参道、その途中に芭蕉の句碑。
【杜かげや われらもきくや 郭公(ほととぎす) はせを

 

入母屋造の拝殿の奥には切妻の覆屋があり、内に村指定有形文化財の三間社流造・軒唐破風付の本殿が鎮まられます。文政10年(1827)諏訪の工匠2代目、『立川和四郎冨昌』の作とされており、向拝を始め随所に華麗な彫刻が施されているそうですが・・ここから先は立ち入れないようで画像には残せませんでした。

境内社:稲荷社

鳥居の内、小社の左右より神域を守護されるのは、巻物と玉を咥えた神狐さん一対。さほど古いものではないようですが、顔立ちは秀麗で整っておられます。

参拝日:2010年10月3日

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