3月13日(日)
涙が止まらない。
胸が痛い。
この悲劇はいつまで続き、どれだけ拡大するのだろう…。
故郷の変わり果てた姿。
未だに連絡がつかない両親、親戚、友人、恩師…。
私の家だけが被害に遭ったわけではない、私だけが連絡が取れないわけではない。
自然の大きな摂理なのだか、地震の周期なのだか知れないが、こんな想像を絶する悲劇はどう受け止め、立ち向かったらいいのだろう…。
3月11日は、末娘の卒業式であり、前任校の卒業式でもあった。
夜明け前に、昼間なら車で1時間もかかる前任校に、手作りのお祝いメッセージを届けに行った帰りに見た朝焼けは、とても美しかった。
末娘の卒業式は、お天気に恵まれ(入学式は雨だった)、感動的だった。
友達とバイキングでお昼を食べるという娘に『軍資金』を渡し、私は、娘の高校への入学金の支払いと、自分自身の来年度の採用のための面接に出かけた。
その面接を受ける教育事務所のある建物の階段を昇っている時に、第一波がきた。
あまりの揺れの激しさに、扉の開いていた別のオフィスに飛び込み、机の下に隠れた。
私の足もとには、コンピューターやら、机上にあったであろういろいろなものが降ってきた。
揺れが収まった時、外に飛び出した。駐車場に置いた車の中に避難していたせいか、波打つような揺れを感じ続けた。
家族や友人に携帯で連絡を取り続けたが通じず、ラジオで、震源地が宮城県沖だと聞いて、不安と心配はMAXになった。
1時間ほどして、揺れがおさまった時、面接官の方が、私の書類を持ち出して避難してくださっていたので、面接官さんの車の中で面接をした。
その後、いつもなら20分ぐらいで家に着く道を、渋滞の中2時間かけて自宅に着いたのだが、末娘に連絡がつかない。
TVには信じられない映像が流れ続け、耳を疑うような情報が氾濫していた。
6時過ぎ、娘が無事帰宅。
10時を過ぎてから、一人暮らしをしている息子、長女と連絡がつき、弟、妹とも無事を確認し合った。
だが、被災地宮城県の両親、親戚、友人たちには全く連絡がつかない。
TVの気仙沼市街地の夜空を焦がすような炎上の画像は衝撃だった。
仙台湾に10mの津波が来るという情報に、体は震えた。
まんじりともしないで、余震におびえながら、TVに釘づけになって一夜を明かし、連絡のとれない両親を思って泣いた。
時間的に、二人が一緒にいた可能性は低い。
二人は無事を確認し合えたのだろうか。
二人とも高齢者であり、父は病気を持っている。心配性の母は父や連絡がつかない私たちを思って、どんなに心を痛めていることだろう…。
無事避難できたとして、停電で真っ暗な中、水も食料も、トイレも暖房もない避難所で、どんなに不安で寒い思いをしていることだろう。
連絡の取れない学校の先生をしている友人たちは、生徒とともに、学校に泊まり込んで、孤立して救助を待っているのかもしれない。
職務優先で頑張っている友人たちの無事と健闘を祈る。
一夜明けて…。
TVに映しだされた、私の故郷の変わり果てた姿に絶句した。
残っていたのは、北上川の河口にある日和大橋だけ。
かつて町だったところは、その残骸もなもなく、全て波が海にさらって行った。
ヘリコプターから撮影された松島から渡波までの海岸線は、仙石線の水没、跡形もない町、破壊され、水没した十条製紙工場跡、陸揚げされ置き去りにされた造船工場の大型船舶・・・。
レポーターの人が、ぬかるみを歩きながら、
「ここはもともと街があったんですけれどねえ…。跡形もなくなってしまいました…」
とつぶやいていた。
みんな、無事に避難できたのだろうか?
市役所や、元「丸光デパート」だった建物、石巻文化センターと思われるコンクリートの建物だけが、わずかに、ここがかつて『石巻』の街の中心があった場所だという面影を残していた。
私が小学校4年生までを過ごした『渡波』と言う港町は、上空からは確認できないほど、跡型もなくなっていた。
そこからほど近い牡鹿半島の付け根にあたる『女川』という町は、町全体が水没していた。
これは夢?この映像は現実?
ここには人々が住んで、その瞬間まで、つつましい穏やかな日常生活があったはず・・・。
それがこんなに短い時間に一変し、跡形もなくなってしまうなんて・・・。
まだ、何も受け止められない。
どうしていいかわからない。
何もできない自分にいら立ち、情けなく、涙だけが流れるばかりだ。
弟がいてもたってもいられなくなって、宮城に両親の救助に向かった。
弟は、中越大地震のときも、お世話になったスキー場を手伝いに、仕事を休んで物資を運搬したり、救助活動のボランティアに行った経験がある。
命がけで、自分にできることをやりに行った弟。
私は姉として何ができるだろう。
私は、弟が両親を連れ帰ってくれたときに着てもらう衣類と、食料を買い出しに走った。
両親の衣類を選びながら、涙が止まらなかった。
この服を着てもらえる日が必ず来ることを祈りながら…。
春休みには千葉に遊びに来てくれることになっていた。
息子の大学卒業、就職、長女の成人、末娘の中学卒業と高校入学、私の就職、そして、両親の結婚記念日祝い、父の1年遅れでの喜寿をお祝いするはずになっている。
「おまえ一人で、3人の子育てよく頑張ったね。本当に偉いね。春休みに行くからね」
両親はそう言ってくれた。
きっと、願いはかなう。祈りは届く。
そう信じて、両親を迎える準備をしよう。
そして、一緒に桜を見よう。
今、息子からの連絡で、石巻の状況をまとめて報告してくれている人のサイトを教えてもらった。
http://www.kraftwerk.jp/news/2011/03/12/262/
それによると、実家の方は床下浸水で、近所のコミュニティーセンターか、小学校に避難しているらしい。
とにかく、両親の無事と救助に向かった弟の無事を祈るしかない。
最後に、被災者の方々、関係者の方々に、心からお見舞いを申し上げ、犠牲者の方とご遺族に、お悔やみを申し上げます。
涙が止まらない。
胸が痛い。
この悲劇はいつまで続き、どれだけ拡大するのだろう…。
故郷の変わり果てた姿。
未だに連絡がつかない両親、親戚、友人、恩師…。
私の家だけが被害に遭ったわけではない、私だけが連絡が取れないわけではない。
自然の大きな摂理なのだか、地震の周期なのだか知れないが、こんな想像を絶する悲劇はどう受け止め、立ち向かったらいいのだろう…。
3月11日は、末娘の卒業式であり、前任校の卒業式でもあった。
夜明け前に、昼間なら車で1時間もかかる前任校に、手作りのお祝いメッセージを届けに行った帰りに見た朝焼けは、とても美しかった。
末娘の卒業式は、お天気に恵まれ(入学式は雨だった)、感動的だった。
友達とバイキングでお昼を食べるという娘に『軍資金』を渡し、私は、娘の高校への入学金の支払いと、自分自身の来年度の採用のための面接に出かけた。
その面接を受ける教育事務所のある建物の階段を昇っている時に、第一波がきた。
あまりの揺れの激しさに、扉の開いていた別のオフィスに飛び込み、机の下に隠れた。
私の足もとには、コンピューターやら、机上にあったであろういろいろなものが降ってきた。
揺れが収まった時、外に飛び出した。駐車場に置いた車の中に避難していたせいか、波打つような揺れを感じ続けた。
家族や友人に携帯で連絡を取り続けたが通じず、ラジオで、震源地が宮城県沖だと聞いて、不安と心配はMAXになった。
1時間ほどして、揺れがおさまった時、面接官の方が、私の書類を持ち出して避難してくださっていたので、面接官さんの車の中で面接をした。
その後、いつもなら20分ぐらいで家に着く道を、渋滞の中2時間かけて自宅に着いたのだが、末娘に連絡がつかない。
TVには信じられない映像が流れ続け、耳を疑うような情報が氾濫していた。
6時過ぎ、娘が無事帰宅。
10時を過ぎてから、一人暮らしをしている息子、長女と連絡がつき、弟、妹とも無事を確認し合った。
だが、被災地宮城県の両親、親戚、友人たちには全く連絡がつかない。
TVの気仙沼市街地の夜空を焦がすような炎上の画像は衝撃だった。
仙台湾に10mの津波が来るという情報に、体は震えた。
まんじりともしないで、余震におびえながら、TVに釘づけになって一夜を明かし、連絡のとれない両親を思って泣いた。
時間的に、二人が一緒にいた可能性は低い。
二人は無事を確認し合えたのだろうか。
二人とも高齢者であり、父は病気を持っている。心配性の母は父や連絡がつかない私たちを思って、どんなに心を痛めていることだろう…。
無事避難できたとして、停電で真っ暗な中、水も食料も、トイレも暖房もない避難所で、どんなに不安で寒い思いをしていることだろう。
連絡の取れない学校の先生をしている友人たちは、生徒とともに、学校に泊まり込んで、孤立して救助を待っているのかもしれない。
職務優先で頑張っている友人たちの無事と健闘を祈る。
一夜明けて…。
TVに映しだされた、私の故郷の変わり果てた姿に絶句した。
残っていたのは、北上川の河口にある日和大橋だけ。
かつて町だったところは、その残骸もなもなく、全て波が海にさらって行った。
ヘリコプターから撮影された松島から渡波までの海岸線は、仙石線の水没、跡形もない町、破壊され、水没した十条製紙工場跡、陸揚げされ置き去りにされた造船工場の大型船舶・・・。
レポーターの人が、ぬかるみを歩きながら、
「ここはもともと街があったんですけれどねえ…。跡形もなくなってしまいました…」
とつぶやいていた。
みんな、無事に避難できたのだろうか?
市役所や、元「丸光デパート」だった建物、石巻文化センターと思われるコンクリートの建物だけが、わずかに、ここがかつて『石巻』の街の中心があった場所だという面影を残していた。
私が小学校4年生までを過ごした『渡波』と言う港町は、上空からは確認できないほど、跡型もなくなっていた。
そこからほど近い牡鹿半島の付け根にあたる『女川』という町は、町全体が水没していた。
これは夢?この映像は現実?
ここには人々が住んで、その瞬間まで、つつましい穏やかな日常生活があったはず・・・。
それがこんなに短い時間に一変し、跡形もなくなってしまうなんて・・・。
まだ、何も受け止められない。
どうしていいかわからない。
何もできない自分にいら立ち、情けなく、涙だけが流れるばかりだ。
弟がいてもたってもいられなくなって、宮城に両親の救助に向かった。
弟は、中越大地震のときも、お世話になったスキー場を手伝いに、仕事を休んで物資を運搬したり、救助活動のボランティアに行った経験がある。
命がけで、自分にできることをやりに行った弟。
私は姉として何ができるだろう。
私は、弟が両親を連れ帰ってくれたときに着てもらう衣類と、食料を買い出しに走った。
両親の衣類を選びながら、涙が止まらなかった。
この服を着てもらえる日が必ず来ることを祈りながら…。
春休みには千葉に遊びに来てくれることになっていた。
息子の大学卒業、就職、長女の成人、末娘の中学卒業と高校入学、私の就職、そして、両親の結婚記念日祝い、父の1年遅れでの喜寿をお祝いするはずになっている。
「おまえ一人で、3人の子育てよく頑張ったね。本当に偉いね。春休みに行くからね」
両親はそう言ってくれた。
きっと、願いはかなう。祈りは届く。
そう信じて、両親を迎える準備をしよう。
そして、一緒に桜を見よう。
今、息子からの連絡で、石巻の状況をまとめて報告してくれている人のサイトを教えてもらった。
http://www.kraftwerk.jp/news/2011/03/12/262/
それによると、実家の方は床下浸水で、近所のコミュニティーセンターか、小学校に避難しているらしい。
とにかく、両親の無事と救助に向かった弟の無事を祈るしかない。
最後に、被災者の方々、関係者の方々に、心からお見舞いを申し上げ、犠牲者の方とご遺族に、お悔やみを申し上げます。