8月9日(火)
昨夜、新宿発の夜行バス*(バス)*に乗り、早朝、石巻の実家に到着。朝食を頂いて、いざ、ボランティア活動へ出陣。
石巻専修大学構内にある災害ボランティアセンターで登録後、大街道地区の民家の泥出し作業をするグループに混ぜてもらった。
大街道地区は、石巻湾の工業港からの津波をまともに受けて半壊全壊した家屋が多く、製紙工場や飼料工場からの瓦礫や、大型トラックなどが流れてきて破壊された家や、自動車の流失被害の大きい地区だ。
周囲には、土台ごと流され、更地に近い状態になった場所もあるが、辛うじて残っている家屋は5カ月近く経ってもあの津波にあった日のまま、手つかず状態でそのまま放置されている家が沢山あり、そのほとんどは、再建不能で撤去を待つ家か、そこのご家族が全員亡くなっている場合が多い。
築7年目というそのお宅は、辛うじて家の原型は保っているが、2階の床上50?まで水に浸かった家だ。
床下のヘドロを描き出すだけで、9:00~3:00まで10人がかりでやっても終わらなかった。
ヘドロは、工業港の海底に長年堆積していた化学薬品の匂いなのか、独特の異臭を放ち、うっかり皮膚に付着したら「ヘドロ焼け」になると言われ、長袖にアームカバー、長ボム手袋、長ズボンの上にレインパンツ、ゴーグルに、防塵マスク、ほっかぶりの上に帽子といういでたちで、気温35℃の中での作業だった。
作業は、きつかったが、メンバーには恵まれた。
というか、ボランティアに来ている人達の心意気や、作業ぶりに感謝、感激、感動しながらの作業だった。
自宅も被災しているのに、全国各地から駆けつけて懸命にボランティア活動をしている人たちに感激して、自分もボランティア活動を始めたという地元の人
阪神大震災の時は、自分は小学校低学年だったが、その時、全国からたくさんの人たちが来てボランティアをしてもらったり、支援物資を送っていただいて助けられたので、今度は自分がボランティアをする番だと思って石巻に来てくれた人、
海外留学中にニュースで震災の事を知り、自分にもできることはないかと駆けつけてくれた人
きっかけや思いはそれぞれだが、その丁寧でエネルギッシュな仕事ぶりには本当に頭が下がるし、元気をもらえる。
休憩中に、お隣のおじいさんとお話をした。
津波が来た時には逃げ遅れ、2階に通り残されたが丈夫な鉄骨住宅だったので、(木造家屋はすべて流されている)2階まで浸水し、水が引くまで2日間閉じ込められていたそうだ。
そのおじいさんが、
「今は、自分の家の事で精いっぱいだけど、あんだ方ボランティアの人たちの仕事ぶり見でっと、今度どごがでこいな事あったら、今度は自分がそごさ行って役に立だねくてねえなと思うよ。ほんとに、ありがだいことです。」
とおっしゃって下さった。
その家だけでなく、周囲の家の庭には向日葵が植えてあった。その事を聞くと、
「ボランティアさんが植えでってけだのっしゃ。向日葵は塩害に強いんだと」
見れば、おそらく綺麗なお庭だった時に植えられていた木や草花は、塩水やヘドロをかぶり、赤茶けて枯れ、根こそぎ倒れている。その中で元気に葉を広げ、つぼみを付けている向日葵は、見ているだけで元気になる。
家々によって生育がずれているのは、ボランティアが入った順番の差らしい。
とりあえず今日の作業が終わり、明日は、残りのヘドロ出しと外回りをすることになって、引き上げた。
ボランティアセンターの資材倉庫前で片付け作業している時、全身を水洗いしている学生たちがいたので声をかけると、牡鹿半島の富貴浦という町自体が壊滅状態になった地区の側溝の泥出しをしてきたのだという。そればかりか、明日は福島のダムの決壊現場のボランティアに行くという。
三重県から来たという息子の様な年頃の若者の屈託のない笑顔に、思わず胸が熱くなって、
「熱中症や怪我に気を付けて、がんばってね!あと、放射能にも。」
と言って別れた。
こういう人たちが、故郷を綺麗にしてくれ、石巻が一日も早く復興する様に応援してくれているのかと思うと、本当にありがたくて涙が出る。
専修大学の広い駐車場に駐めてある全国各地のナンバープレートの地名を見ながら、身体は疲れているのに、心はすごく元気になって家路に着いた。
昨夜、新宿発の夜行バス*(バス)*に乗り、早朝、石巻の実家に到着。朝食を頂いて、いざ、ボランティア活動へ出陣。
石巻専修大学構内にある災害ボランティアセンターで登録後、大街道地区の民家の泥出し作業をするグループに混ぜてもらった。
大街道地区は、石巻湾の工業港からの津波をまともに受けて半壊全壊した家屋が多く、製紙工場や飼料工場からの瓦礫や、大型トラックなどが流れてきて破壊された家や、自動車の流失被害の大きい地区だ。
周囲には、土台ごと流され、更地に近い状態になった場所もあるが、辛うじて残っている家屋は5カ月近く経ってもあの津波にあった日のまま、手つかず状態でそのまま放置されている家が沢山あり、そのほとんどは、再建不能で撤去を待つ家か、そこのご家族が全員亡くなっている場合が多い。
築7年目というそのお宅は、辛うじて家の原型は保っているが、2階の床上50?まで水に浸かった家だ。
床下のヘドロを描き出すだけで、9:00~3:00まで10人がかりでやっても終わらなかった。
ヘドロは、工業港の海底に長年堆積していた化学薬品の匂いなのか、独特の異臭を放ち、うっかり皮膚に付着したら「ヘドロ焼け」になると言われ、長袖にアームカバー、長ボム手袋、長ズボンの上にレインパンツ、ゴーグルに、防塵マスク、ほっかぶりの上に帽子といういでたちで、気温35℃の中での作業だった。
作業は、きつかったが、メンバーには恵まれた。
というか、ボランティアに来ている人達の心意気や、作業ぶりに感謝、感激、感動しながらの作業だった。
自宅も被災しているのに、全国各地から駆けつけて懸命にボランティア活動をしている人たちに感激して、自分もボランティア活動を始めたという地元の人
阪神大震災の時は、自分は小学校低学年だったが、その時、全国からたくさんの人たちが来てボランティアをしてもらったり、支援物資を送っていただいて助けられたので、今度は自分がボランティアをする番だと思って石巻に来てくれた人、
海外留学中にニュースで震災の事を知り、自分にもできることはないかと駆けつけてくれた人
きっかけや思いはそれぞれだが、その丁寧でエネルギッシュな仕事ぶりには本当に頭が下がるし、元気をもらえる。
休憩中に、お隣のおじいさんとお話をした。
津波が来た時には逃げ遅れ、2階に通り残されたが丈夫な鉄骨住宅だったので、(木造家屋はすべて流されている)2階まで浸水し、水が引くまで2日間閉じ込められていたそうだ。
そのおじいさんが、
「今は、自分の家の事で精いっぱいだけど、あんだ方ボランティアの人たちの仕事ぶり見でっと、今度どごがでこいな事あったら、今度は自分がそごさ行って役に立だねくてねえなと思うよ。ほんとに、ありがだいことです。」
とおっしゃって下さった。
その家だけでなく、周囲の家の庭には向日葵が植えてあった。その事を聞くと、
「ボランティアさんが植えでってけだのっしゃ。向日葵は塩害に強いんだと」
見れば、おそらく綺麗なお庭だった時に植えられていた木や草花は、塩水やヘドロをかぶり、赤茶けて枯れ、根こそぎ倒れている。その中で元気に葉を広げ、つぼみを付けている向日葵は、見ているだけで元気になる。
家々によって生育がずれているのは、ボランティアが入った順番の差らしい。
とりあえず今日の作業が終わり、明日は、残りのヘドロ出しと外回りをすることになって、引き上げた。
ボランティアセンターの資材倉庫前で片付け作業している時、全身を水洗いしている学生たちがいたので声をかけると、牡鹿半島の富貴浦という町自体が壊滅状態になった地区の側溝の泥出しをしてきたのだという。そればかりか、明日は福島のダムの決壊現場のボランティアに行くという。
三重県から来たという息子の様な年頃の若者の屈託のない笑顔に、思わず胸が熱くなって、
「熱中症や怪我に気を付けて、がんばってね!あと、放射能にも。」
と言って別れた。
こういう人たちが、故郷を綺麗にしてくれ、石巻が一日も早く復興する様に応援してくれているのかと思うと、本当にありがたくて涙が出る。
専修大学の広い駐車場に駐めてある全国各地のナンバープレートの地名を見ながら、身体は疲れているのに、心はすごく元気になって家路に着いた。
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