シアターコクーンで「令嬢ジュリー」の公演を観る。ストリンドベリの有名な戯曲だ。貴族の娘ジュリーと召使のジャンの愛のもつれと階級の争いがごちゃ混ぜになった劇で、これを理解することは難しい。
最近は寄る年波のせいか、好き嫌いが激しくなって、嫌なことは理解したくないというのか、受け付けなくなった。
それとともに、自分の理解力が落ちてきていることを自覚する。高齢の人でいまだにメディアで活躍している人も多いが、多分、能力が落ちてきているはず。自覚しているのかどうか。
劇場には若い女性が目立った。内容が内容だけに、なぜ「令嬢ジュリー」を観たいのか不思議だったが、多分、俳優の城田優目当てだったのだろう。
(配役)
ジュリー 小野ゆり子 ジャン 城田優 クリスティン 伊勢佳世
城田優はハーフなのか、イケメンだから、若い女性フアンがおおのだろう。
結末、原作ではジュリーは自殺するはずだが、今回の上演では、どうなるか、分からないところで終わっている。詰めが甘いと思うが、甘いのが今の日本である。
この芝居は、階級社会が分からないと、理解できない筈である。
舞台は台所。召使の部屋に通じる。終始ここで芝居が進行するが、この部屋は、天井近くに窓があることでもわかる通り、地下なのだ。地下=召使の世界、1階より上=貴族の世界と分別されている。両者をつなぐものは階段である。
しかし、通常、貴族が地下に下りることはありえない。伝声管で用を伝えるだけだ。
この階級の厳然たる区別がわからないと、ジャンの心理も理解できない。私は、ここで躓いてしまった。
格差は分かるが、階級は理解できない。評論家ではないのだから、分からなかったものは分からないと言えるのが、素人のいいところである。
階級社会のヨーロッパでは、そもそも貴族と平民は身体が違うという。貴族=背が高い、平民・労働者=背が低い。見かけだけで区別がつくらしい。
それを前提にすると、背が高い城田優が召使で、背が低い小野ゆり子が貴族の娘というのは逆さまではないか。小野ゆり子は背が低く、華奢すぎて貴族の娘には見えなかった。
戦後日本人は階級が理解できない。格差があるだけだ思っている。実際は、世界中、階級だらけなのだが。演出の小川絵梨子も理解できていない。
最近は寄る年波のせいか、好き嫌いが激しくなって、嫌なことは理解したくないというのか、受け付けなくなった。
それとともに、自分の理解力が落ちてきていることを自覚する。高齢の人でいまだにメディアで活躍している人も多いが、多分、能力が落ちてきているはず。自覚しているのかどうか。
劇場には若い女性が目立った。内容が内容だけに、なぜ「令嬢ジュリー」を観たいのか不思議だったが、多分、俳優の城田優目当てだったのだろう。
(配役)
ジュリー 小野ゆり子 ジャン 城田優 クリスティン 伊勢佳世
城田優はハーフなのか、イケメンだから、若い女性フアンがおおのだろう。
結末、原作ではジュリーは自殺するはずだが、今回の上演では、どうなるか、分からないところで終わっている。詰めが甘いと思うが、甘いのが今の日本である。
この芝居は、階級社会が分からないと、理解できない筈である。
舞台は台所。召使の部屋に通じる。終始ここで芝居が進行するが、この部屋は、天井近くに窓があることでもわかる通り、地下なのだ。地下=召使の世界、1階より上=貴族の世界と分別されている。両者をつなぐものは階段である。
しかし、通常、貴族が地下に下りることはありえない。伝声管で用を伝えるだけだ。
この階級の厳然たる区別がわからないと、ジャンの心理も理解できない。私は、ここで躓いてしまった。
格差は分かるが、階級は理解できない。評論家ではないのだから、分からなかったものは分からないと言えるのが、素人のいいところである。
階級社会のヨーロッパでは、そもそも貴族と平民は身体が違うという。貴族=背が高い、平民・労働者=背が低い。見かけだけで区別がつくらしい。
それを前提にすると、背が高い城田優が召使で、背が低い小野ゆり子が貴族の娘というのは逆さまではないか。小野ゆり子は背が低く、華奢すぎて貴族の娘には見えなかった。
戦後日本人は階級が理解できない。格差があるだけだ思っている。実際は、世界中、階級だらけなのだが。演出の小川絵梨子も理解できていない。