モンテとレッドウィングスの日々

モンテディオ山形、そしてパイオニアレッドウィングスをこよなく愛し続けています。

最後のパイオニア①

2014-08-06 12:03:15 | パイオニアレッドウィングス
日曜日、最後の集いの会があったようですね。
これで、名実ともに一区切りということでしょうか。


先日、昔のパンフレットなどが出てきたので見ていたら、
ファンクラブ通信の第2号(あれ、なんで創刊号が手元にないのかな)とか、
昔のメンバーパンフレットとか、懐かしい~


思い出してみると、パイオニアの応援を始めたのは、
たぶん、べにばな国体後、チームが実業団リーグに昇格した96年くらいからだと思います。

元々バレー好きで、モントリオールオリンピックで、日立のセッター松田にはまり(笑)、

確か、最初の日本開催のW杯の時には、受験生にもかかわらずテレビを見続け、
夏場の講習では友達とテーブルバレーに興じてました。
あの時は高校では絶対バレーをやるんだと心に決めていました(結局行きがかり上、高校球児になってしまいましたが)。

現実的に、パイオニアの試合の応援に行ったのは、たぶん97年の山形市スポセン?での朝日生命戦だったと思います。
その頃は、まだ相手といい勝負に持ち込むのがやっとの状態(この試合勝ったのかは不明)。
でも、地元のチームを応援するのは非常に楽しかった記憶があります。


偶然ですが、その頃パイオニア監督をされていた田村さんのHPに、当時の監督の思いが詰まったページがありましたのでご紹介だけさせていただきます。

http://www.geocities.jp/hap_s_tamura/vallyball.html
「東北パイオニアバレー部員へ送ったメッセージ」

実業団に上がったばかりのパイオニアへの期待、不安が率直に綴られていて、
あのころのひたむきに戦っていたチームが蘇ってきました。



チームは、その前後にキューバやドミニカから助っ人が来たり(数年後両国代表になった選手もいたと思います)、
元全日本、元カネボウの大谷が入団するなど、徐々に戦力が高まり、
何といっても、マッチョさんと椿本、内田、西畑あたりが入って、急速に戦力が揃っていったと思います。

自分の中では、マッチョさんは、いまだに日本で最高のリーダーだったと思っています。


そして、2000年からセリンジャー監督となって、多治見、レオが入団、さらにその後吉原、フールマン、島崎が入って黄金期を迎えることになります。

個人的には、マッチョさんが元気だった2000年あたりが一番見ていて楽しかったですね。

マッチョさんはオールラウンダーで、今で言う木村沙織をファイターにしたようなタイプだと思いますが(笑)、
コート上での戦う鋭い目は、いまだにゾクッとします。

そして、レオ、マッチョさん、フールマン、多治見、吉原、内田という、なんとも豪華なメンバーでとうとう03/04シーズン初優勝し、
その後、栗原、江口が入って、05/06シーズンで2回目の優勝を成し遂げます。
そしてそこが、チームのピークとなりました。

極論を言えば、マッチョさん、フールマンとともに頂に上り詰め、フールマンの退団とともに坂を下ることとなりました。
だいたい、フールマンが打つと決まってましたから(笑)


そこからは、残念ながら転げ落ちるように成績は低迷し、
一時は引退した内田を復帰させたかと思えば、セッターが一人という時期もありましたね。
板橋が入ってなんとか間に合いましたが。

チームに浮沈はつきものですが、
ピーク時から浮上できずにここに至った原因は、
振り返ってみると、セリンジャー退団時にあったような気がします。

たぶん、そこが会社として、モデルチェンジすべき分岐点だったのではないでしょうか。

結果論ですが。
チームの将来像と、育成の方針。
そこが曖昧なまま、栄光よ再びで同じ路線で吉田監督で突っ走ってしまった感があります。

実際、チームは育成というよりは、助っ人頼み路線を継続し続けます。
これまでトップ選手に育成できたのは庄司くらいではないでしょうか。
この辺から、なんともチームの行き当たりばったり感が強くなり、
チーム強化というよりは、チーム存続にハードルが下がっていったような気がします。


to be continued
コメント (3)
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