■ 年齢にかかる「碇」
行動経済学で「アンカリング効果」というものがあります。人は、ある数字や言葉が意識に刷り込まれていると、それが碇(いかり)が沈むように意識に引っ掛かって、その数字なり言葉を新たな基準として行動を決めるものです。こういうことは日常でよくあります。
30歳になったら結婚しなければもう結婚できない、35歳までには子どもを生まなければ初産がたいへんだ、40歳までに家を買わないとローンが払えなくなる、45歳までに部長職についていないとその先の出世はない、60歳までに○○千万円貯めないと老後人生は破滅だ、遅くても○○までに○○しないと・・・・などなど。
確かに、そのとおりにできれば豊かな人生が送れるかもしれない、でも・・・・。アンカリングは自分の環境や制度に左右されてしまうことがあります。「なんとなく」その歳までにそうしなければならないと「手遅れ」になる、と世間でも見られているように思い込んでしまっています。これを「年齢のアンカリング」とでも呼びましょうか。
さて、60歳には何の「碇」(アンカー)が掛かるのでしょうか。まさしくそれは「定年」です。これは社会的制度でもあり会社の制度でもあります。本人が意識せざるをえない「碇」です。60歳というのは、例えば「年齢不問」で求人カードを見て「定年年齢」を見ると、「60歳」とあります。年齢不問なのに定年が60歳であれば、その時点で60歳前後は最初から採用予定がないことがわかります。求人上、年齢に定めをおいてはならないので「年齢不問」としてあるだけです。年齢不問とするくらいなら、定年も不問(定年なし)とでもしてくれれば気が利いていますが、先方に採用する意思があるとは限りません。
60歳というのは、高年法(高年者雇用安定法)が施行され65歳まで雇用延長されても、やはり現役と引退の区切りとして「碇」が掛かっているのです。これは実際に会社側の制度として定着してきたので、それに会社員も完全に意識を固着させています。再雇用となる会社でも、世間の会社で再就職する場合でも60歳は「引退」として「碇付け」(アンカリング)されています。
■ 「碇」をはずすために
60歳以降は正社員では雇わない、正社員でも月給は現役時代の半分、というのが一般的です。例えば、月給40万円もらっていた人は20万円もらえば万々歳、賞与はなくてもこれだけもらえればありがたいほうです。「だって、退職金も年金ももらえるんだから、それでもいいじゃん」と思われているのかも知れません。体力も気力も向上心もなく、先もない、そんなふうに「60歳」は思われ、本人たちもそういうものと意識づけられています。
でも、そうでない人が多いのも実態です。正規職に就けなくて所得も平均以下、退職金なし、したがって年金も少ない、再雇用もない。再就職するにも60歳を基準に年齢が増えていくにしたがって、就職条件が悪くなっていくのを意識せざるを得ません。「60歳」・・・、この数字は重く碇を下ろしていきます。
国のデータでは完全雇用に近いといっても非正規労働者がほとんで、失業率改善といっても60歳以上の人は今までの経験を活かせない労働にしか就けていません。例えば、「中高齢者歓迎」の求人にしても、パート、アルバイト、若者が就きたがらない介護や調理補助、ビル管理、清掃の仕事などです。しかも、こういうものでも「経験者優遇」ですから、サラリーマンをしていた人は経験のない仕事ばかりです。残るは、非正規の肉体的作業です。肉体的作業といっても、若者ほど体力を使えるものではありません。
政府がいくら高齢者が働ける社会と言っても、現実がそうなっていないからどうしようもないのです。「60歳」というのは、本人の気持ち以外に、社会全体が制度として碇を下ろしているので厄介です。結局、「自分はもう60歳だから」といって、自分で自分の心に碇を下ろさざるを得なくなってしまうのです。
碇を上げて行動するには、現役の時以上にエネルギーが必要となります。社会全体に碇が下ろされているなら、それを個人で引き上げるのは相当な労苦です。では、どうすればいいでしょう。社会の「碇」を外すのが難しければ、まず個人レベルで、自分の「碇」をずらしていくことです。「碇」が60歳に掛かっているなら、それを前や後ろにずらす。「自分の定年は55歳」と決めたなら、その「碇」に合わせて早めに準備する。「65歳までが現役」なら、その歳まで現役並みに働けるよう知力・体力を蓄えておく。
定年前に何をしておかなければならないか、それに向かって動くことがたいせつです。貯蓄や資産設計、働き方の準備、健康、人脈などいろいろあります。「碇」の意識を変えなければ、「定年は突然に」やってきます。
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