「松林図屏風」左隻
「松林図屏風」右隻
金碧から次第に金と色彩が抜けて行き、最後の最後で水墨の最高傑作『松林図(しょうりんず)』にたどりつく。
東京国立博物館に開館時刻10時過ぎに来たばかりというのに、もう1列4人ずつの行列が五重、六重にうねっていて、最後尾から入館口まで50分もかかるという。1時間くらいの待ちなら初詣でもあるし、それほど苦でもないので並ぶとする。
中に入っても、人である。こちらは整然とした列ではない。展示ケース前に並ぶ人を追い抜くのはいけないが、後方の立ち位置ならいくらでも人を追い抜いていく。一点ずつゆっくり見ていきたいのだが、休日の、しかも最終日の美術館はそれを許してくれない。
仏画から移ってきて、金碧の障壁画『花鳥図(かちょうず)』『楓図(かえでず)』(国宝)『松に秋草図(あきくさず)』の前に立つと、さすがだなと思う。しかし、どういうわけか、等伯の金碧画は実物を前にすると褪せて見える。印刷物だと、金箔と緑の色が鮮やかに映えて、ぜひとも実物の前で浸り切りたいと思うのだが、ちょっと拍子抜けした。等伯の屏風画は少し離れて遠くから全体を見るのがいい。だが、人の黒い頭が絵の下半分を隠してしまい、それも叶わない。
金と色彩が抜けていき、白黒、陰影、濃淡の世界が現れてくる。この世界もいいが、やはり、色があったほうがいいかなと思っていると、最後に現れてくるものの予感がそこまできているのを感じる。
展示の最後に、最高傑作と言われる『松林図(しょうりんず)屏風』(国宝)。この屏風図は不思議である。色彩がないのに、現実的な色彩があるように錯覚する。そこに自分がいると幻覚する。
松の遠近、林間のもや、奥行き、まったく不思議な空間である。下絵図とも言われているが、これはこれで完成図といっていい。墨には色がついていない、しかし墨の色が滲み出ている。墨に奥行きがある、見る人はその中に入り込んで迷い込んでしまう。
等伯は、金碧画の背景を金で埋めた。それは現実世界にはない光景だが、極楽画として見れば、空間が金に映える世界は存在するのだろう。
等伯は、水墨画の背景を空白で埋めた。そこには金箔を埋め込んだものはない。ただ松の林を重ね描くだけで、そこに現実的にもやの世界を存在させたのだ。
見ている私はそこに入って行き、その不思議さを歩いて行き、やがて消えて行く。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます