この作品を読んでいくうち、主人公のラスティニャックは、ジュリアン・ソレル(『赤と黒』)とダブってイメージが浮かんでくる。出世欲にとらわれた野心家であること、自信過剰、自意識が強く、自己を正当化する青年像である。
青年ラスティニャックは、パリの社交界で自分の野心と女を武器に出世することを人生の目標としている。といっても、真から悪人ではなく、内心は優しい青年である。このへんはソレルに共通している。この青年がパリで、自分の人生で出世の頂点に立つのかどうか。
―― さあ、今度は俺とお前との勝負だ。
パリの街に向かって叫ぶこの青年の言葉で小説は終わる。「お前」とは、もちろんパリの社交界である。
バルザックは膨大な作品を書き、その小説群を「人間喜劇」として集大成した。作品に出てきた人物は、彼の他の作品に何度も再登場する。ラスティニャックがパリで成功するかどうかは、バルザックの他の作品を読まなければわからない。このやり方は、後に出る作家フォークナーの「ヨクナパトファ・サーガ」に取り入れられている。
ゴリオ爺さんの存在は重い。いまは貧困層の下宿に住むゴリオは元事業家である。年老い、くたびれた姿は下宿人仲間にも蔑まれている。彼はパリの上流社交界に嫁がせた2人の娘に全財産を吸い取られ、いまも病の身体から絞り出すように金目のものを娘たちに与えようとしている。それがゴリオ爺さんの幸せなのだ。そこまで与え尽くし、極貧のうちに最期を遂げようとしても、娘2人は臨終に姿を見せない。野心家のラスティニャックもさすがに、この爺さんには優しく接する。
親であれば、子からどれだけ吸い取られても、自分が病になっても子に尽くしたいと思う。娘たちの生き方は良いとは言えないが、ゴリオにはそんなことはどうでもいいのだ。一種、神のごとく大きな存在か、あるいは大馬鹿の哀れな爺さんにしか見えない。ただ、親であれば財産がなくとも、いや財産があればよけいに、やはりゴリオ爺さんと同じ生き方をしていると思う。今でいえば、贈与とか相続の話と同じである。親にしてみれば、自分が愚かとか哀れであるとかいうことは関係ないのである。
そもそもバルザックを読む気になったのは、「人間喜劇」という壮大なテーマとともに、社会に渦巻く人間模様がどのように描かれているかに興味があった。そして、特別富裕でもない若者が、どのように世界にのし上がっていくか。その欲望と悲哀とは。富と貧困は。今の経済小説といわれるものを読むよりは、バルザックの小説を1つでも読んでみると、人間の経済生活が少しでもわかるというものだ。
経済といっても、この21世紀ほどに19世紀当時は複雑な社会ではなかったにしろ、人間の本質はそうそう変わらない。いまバルザックを読むことは、そういう意味で面白く、意味のあることかもしれない。
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