👆 狩野派・狩野柳元が描いた迦陵頻迦 かりょうびんが
銚子坂東札所27番円福寺から、利根川水郷ライン、
昔1800年ごろは、木下茶屋の遊覧船が、
行き来して、巡礼者も乗ってて、
かなりの繁栄ぶりだったといいます。
水田を横断して、
昔1800年ごろは、木下茶屋の遊覧船が、
行き来して、巡礼者も乗ってて、
かなりの繁栄ぶりだったといいます。
水田を横断して、
👇滑川山・龍正院、坂東札所28番。
👇車の乗り入れは困ります、などと、
暗示するかのように、控えめに龍正院の刻印、
本堂もさることながら、仁王門は重文になって、
暗示するかのように、控えめに龍正院の刻印、
本堂もさることながら、仁王門は重文になって、
👇8脚のある柱は、円柱ではなく、16角の柱で・・・。
👇大きな注連縄は、1700年代初頭、
賑わう滑川の門前一帯の火事に、
賑わう滑川の門前一帯の火事に、
👇 室町中期に建てられた仁王門から、
仁王が、本堂の屋根に登って、
大うちわで火の粉をあおぎ返し、
寺と地域を守ったという。
仁王が、本堂の屋根に登って、
大うちわで火の粉をあおぎ返し、
寺と地域を守ったという。
以来「火伏の仁王」として、
信仰され、毎年1月8日には、地元の人たち、
注連縄飾りを、龍に見立てて奉納していると・・。
信仰され、毎年1月8日には、地元の人たち、
注連縄飾りを、龍に見立てて奉納していると・・。
1952年仁王門解体修理で、
仁王尊を移動したとき、胎内から、
1502年から1503年までに祈願した、
多数の墨書願文が発見されたという・・で、
仁王さんの建立は、多分この時代ではないかと・・。
仁王尊を移動したとき、胎内から、
1502年から1503年までに祈願した、
多数の墨書願文が発見されたという・・で、
仁王さんの建立は、多分この時代ではないかと・・。
👇1298年再建の仁王門をくぐって、
👇1718年鋳造の銅造の宝篋印塔が
👇振り返れば、行き交う人も少なく
茅葺の門が水田地帯に、堂々と・・。
茅葺の門が水田地帯に、堂々と・・。
👇慈覚大師が開基し、高弟の修円が、
領内の男女を集め、昼夜にわたり天台宗の、
行法を唱えたという、838年からの歴史は、
滑川山・龍正院りょうしょういん。
領内の男女を集め、昼夜にわたり天台宗の、
行法を唱えたという、838年からの歴史は、
滑川山・龍正院りょうしょういん。
内陣厨子には、11面観世音菩薩、
3m60cmばかりの堂々とした像は、
千葉県成田市滑川で。
3m60cmばかりの堂々とした像は、
千葉県成田市滑川で。
賽銭を入れて外陣は・・・
ただいま選挙速報中なので、今度に・・。
ただいま選挙速報中なので、今度に・・。
立派なお寺のすべてが感動です。
再建された、仁王門はくぐってみたい。
立派なしめ縄に触ってみたい、大きな木の前に佇んでみたい。
あまりにも美しい写真と歴史。
知らない事が有り過ぎる。とよ様に感謝です。
歴史の中の伝説は、現代感覚からはありえないことと、思えるのですが、
ウン! 素直にそういうことがあったかと思えば、
ただっ広い境内で、腰掛けて眺めてみれば、
おお~オ!と、楽しい物語が浮かんできます。
私は寺社に訪れると、必ず一度はどこかに座ります。
そしてもう一度、境内全部を歩いてみます。
一度見た景色が、違って見えてくるものがあって・・
そんな時、胸がときめいて来ます。
坂東札所28番のこの寺院も中々立派ですね。
仁王像、チョット特徴的で初めて見ました。
(今迄に無いお姿やお顔です)
所で、同じgooでも「応援の良いね」等の項目は
省いているのですか?
もったいない様な気がしますが。
誰が見ているか判るのでしょうか。この項目を
省いている人が可成りいらっしゃるので、
お聞きしたいと思って・・・。
彫の深い仁王像は、見張るものがありますが、
ちょっと、シンプルでした。
gooのいいね、足跡マークは付けてましたが、
省きました。外部のサービスも消してます。
いいね、応援マークは、記事を読まれた方が端的に率直な、胸中がなす行為ですが・・
私の記事がすべての方がその日、いいね、であるわけないと思ってます。
ページを開いてしまったら、唯何か一つでも、
心に留めていただければとは、思います。
それだけで、私はいい・・・だからです。
足跡は、携帯で確認するので、大体わかります。
時間が来れば消えますが、自宅に戻ってからは、
訪問するように心がけてます。
マーク数には一喜一憂します、好奇心の強い私は、その憂いが無いように、眼をランランとさせることが、いいと、この年になって感じてます。