思ひつつ寝ればや人の見えつらむ
夢と知りせば覚めざらましを・・・小野小町
あの人のことを思いながら眠りについたから
夢にでてきたのだろうか。
夢と知っていたなら目を覚まさなかっただろうものを
14歳の時、宮中からお迎えがきて女官となり、
歌人としても才能を発揮した小野小町さん。
晩年、京都から東国へ下り、奥州へと旅する途中、
晩年、京都から東国へ下り、奥州へと旅する途中、
清滝観音に詣で、さらに山越えをして、
石岡市小野越の北向観音にお参りしました。
その帰り、山道に迷ったあげく、病に倒れてしまいました。
病状は、一進一退を繰り返し、
883年7月7日、小野小町は、69歳でここ
土浦市小野町で、人生を伏せました。
石岡市小野越の北向観音にお参りしました。
その帰り、山道に迷ったあげく、病に倒れてしまいました。
病状は、一進一退を繰り返し、
883年7月7日、小野小町は、69歳でここ
土浦市小野町で、人生を伏せました。
引用元:第16回 常陸国・小野小町文芸賞 入選作品集
2021年12月、
故・杉村春子さんの部屋付きだった、
女優で書家家の、二宮さよ子さん👇が、
故・杉村春子さんの部屋付きだった、
女優で書家家の、二宮さよ子さん👇が、
東京下北沢の劇場で、一人芝居、
小野小町さんの終焉を、枯れ木の倒木に伏しながら、
演じ、小町さんの歌を筆にしました。👆
小野小町さんの終焉を、枯れ木の倒木に伏しながら、
演じ、小町さんの歌を筆にしました。👆
小野小町さんの思いが伝わる、緊張の静寂、
もう一度、観て見たいと・・・。
606年、この寺の背後の山龍が峰に、
聖徳太子御作の聖観音像を安置したことが創建と伝えられる
聖徳太子御作の聖観音像を安置したことが創建と伝えられる
坂東札所26番・清瀧寺👇
創建から270年が経ってから、
花山法皇が、松が峰の山頂では、民衆の結縁は、広がらないと、
ここ、中腹に移しました。
花山法皇が、松が峰の山頂では、民衆の結縁は、広がらないと、
ここ、中腹に移しました。
室町時代、常総の野で繰り広げられた、戦乱、
当時のどのような建物か知らないのですが、
すべての堂宇や什宝兵火の中に・・
再建された、1700年代には再び繁栄されたものの、
明治維新を境に、寺運は衰え、無住寺に・・。
当時のどのような建物か知らないのですが、
すべての堂宇や什宝兵火の中に・・
再建された、1700年代には再び繁栄されたものの、
明治維新を境に、寺運は衰え、無住寺に・・。
長い間の無住寺は、小野町の人たちが輪番で支えてきた。
昭和44年、参拝者の蝋燭が賽銭箱に移り、あっという間の延焼、
観音様を救うことができず・・と村人は、
一ヶ寺でも、欠いては坂東巡礼にならないと、
浄財を集め、昭和52年に再建させた。
村人たちの尊い悲願の結晶に、じっと佇む境内です。
一ヶ寺でも、欠いては坂東巡礼にならないと、
浄財を集め、昭和52年に再建させた。
村人たちの尊い悲願の結晶に、じっと佇む境内です。
小野小町が立ち寄った清瀧寺、
石段に誰が歌ったか・・
町は肥沃な土地に、柿、梨、葡萄は実って
収穫の中、異邦人の私への笑顔に
救われる
収穫の中、異邦人の私への笑顔に
救われる
橋の欄干には小町さんの像が
ここから3分で、小町さんのお墓
お墓はあちこちにあるよと、
知ったかぶりの野暮は、言わな~い・・‼
ここは土浦市小野町
火災に見舞われても村人の尊い信心によって再建されたお寺は風格がありますね。
また小野小町ゆかりのある土浦市。
詠み人知らずの歌も残されて、苔むした石段を歩いてみたいと思ったことでした。
貴重なお写真をありがとうございました
小野小町さんの資料は全く無いのですが、
土浦市小野町の人たちは、清瀧寺にお参りに来たと、信じていて、今も信仰深く、清瀧寺を守っていました。
そんな姿を、決して忘れてはいけない事と思いす。
御堂は昭和の近代的な工法を取ってますが、
地元の人たちが、観音様にも思えました‥ウン‼
小生もかって群馬の小町伝説を追いかけた
ことがありますのでご笑覧ください。
https://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/370821f24c30d317960723666b6583d2
勉強になりました。ありがとうございます。
各地に行かれて、伝説を残した小野小町さん、
現代の私たちに残した姿が嬉しいですね・・。