「人間をトル」 マタイによる福音書 4章18~25節
自然から富を得ている職業の人を「百姓」と呼んだりします。百姓とは、自然と格闘しながら、たくさんの専門的技能を駆使して働きます。漁師であれば、魚を捕るばかりではなく、舟や網を修理したり、小屋を建てたり、天気を予測したりもします。また、資源保護のために生態系を守り育てたりもします。
イエスさんは、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」と言って、漁師を招きました。なぜ、漁師を弟子にしたのでしょう。他にふわさしい人はいなかったのでしょうか。もしかすると、百姓であり、自然の生態系を熟知している漁師だからこそ、弟子にふさわしかったのかも知れません。
食物連鎖のことを考えると、最初に食べられる一番弱い魚がいなければ、頂点に立つ大型の魚もいなくなります。市場という小さな視点で見れば、とかく大型魚が価値が高いとされがちですが、生態系という大きな視点で見ると価値の優劣などなく、むしろ一番弱い存在が最も必要なのです。
イエスさんは、ガリラヤ中を回って福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気を癒やされ、人々を患いから解放されました。イエスさんの福音宣教は、特に貧しく弱くさせられた人たちの救いに向けられました。それは、彼らが小さく弱く価値がないとされていたからです。神さまの創られた世界は、一番弱い存在が最も必要なのです。