明日12月17日(日)は、第3アドヴェント礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「魂と霊の叫び」、賛美歌は「主を待ち望むアドヴェント」の3番、「久しく待ちにし」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。
今年のクリスマスは、抗議の意味で中止したいくらいの気持ちです。宗教なのか政治なのか、統一協会の例で色々と表面化していますが、イスラエルも宗教なのか政治なのか、色々と胡散臭さ満載で考えさせられます。いずれにしても、ハマスを口実にして住民を殺してガザの土地を強奪するというスタイルは、人道的に許されることではないし、領土拡大の私欲に基づく大量殺戮以外の何ものでもありません。時代が時代なら、イエスさんも瓦礫の下で殺されていただろうと考えると、抗議の意味で中止したいくらいの気持ちと言っているのです。
アメリカは、イスラエルを支持してパレスチナ住民の虐殺に加担しています。日本も絶賛賛同中です。アメリカでは、大手のキリスト教団体がイスラエルを支持しているとのことです。先に「宗教なのか政治なのか」と言いましたが、屁理屈をこねて人を殺しても構わないと言う宗教は、カルトです。私は、キリスト教の教えとは非常にシンプルにすると愛であると思います。愛を掲げるなら人を殺すことを肯定してはならないし、戦争することも肯定してはなりません。愛とは、互いに愛し合うことだからです。
しかし、歴史を振り返ると、宗教と政治は表裏一体でしたし、民衆に対する飴と鞭の関係のようなものとも言えます。問題なのは、自分の頭で考えることを捨て、長いものには巻かれろ的に従う根性にあるのではないかと思います。大切なのは、宗教であっても良いこと悪いことを自分で考えて取捨選択するということ、そういった主体性をもって生きる力がありさえすれば、カルトに騙され、洗脳されたりもしないでしょう。
人と違って生きることになったとしても、自分の選んだ生き方が愛であれば、胸を張って生きられるような世の中であって欲しいと願います。そうでない世の中であれば、そういう世の中になるようにと願って愛によって生き、愛を広めなさい、そうれがイエスさんが教えてくれたことであり、福音宣教という言葉の意味であると理解しています。
「共に生きるために」 マタイによる福音書 1章18~23節
ヨセフは、婚約者のマリアと一緒になる前に、マリアが妊娠していることを知りました。それは、自分にとって身に覚えのないことでした。ヨセフは、マリアのことが表沙汰になることを望みませんでした。それは、この出来事が公になれば、マリアが姦淫の罪に問われて死刑になってしまうからです。そのため、ヨセフは密かにマリアと縁を切る決心をしました。
ヨセフにとって、マリアが姦淫の罪に問われた方が自分の面目を保つことになったでしょう。しかし、そうしなかったのは、マリアを愛していたからでした。マリアと縁を切るということは、別々に生きることを意味しているのですが、逆説的に共に生きることであるようにも思えます。イエスさんの誕生は、ヨセフの深い愛に支えられていました。
イエスさんは、私たちが互いに愛し合って生きることができるように、その命を賭して十字架で愛を示されました。イエスさんが十字架で死んだことによって、私たちは逆説的にイエスさんと共に生きていることになるのです。クリスマスは、イエスさんの誕生を記念するのと同時に、私たちがイエスさんの伝えた愛によって生きているのかを自問自答する日でもあるのです。
明日12月10日(日)は、第2アドヴェント礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「共に生きるために」、賛美歌は「主を待ち望むアドヴェント」の2番、「久しく待ちにし」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。
「天使の知らせ」 ルカによる福音書 1章26~38節
二千年前、天使は、マリアがダビデの王座に就く運命にある子を産むことになるだろうと告げました。世界では、国々の王と王は戦争をして勝てば領地が拡大し、負ければ王は死刑になり、民は奴隷にされていました。王とは、そのようなことを繰り返すばかりの存在でした。もはや、戦争に勝利することまでも神頼みの有様なので、天使のお告げを聞いたマリアは、不安を覚えるしかありませんでした。
現代の世界を見渡してみても、大国が更に力を得ようとして、小国から資源を奪い取ろうと略奪が繰り広げられています。弱い立場の人たちが痛めつけられ、殺されてしまうのは、二千年前の世界も現代も、同じ有様なのです。もはや自浄作用もなく、平和を求めるためには神頼みしか方法がないと考えられても仕方がないような状況です。
しかし、イエスさんは、人間が考える王のような権力者になったり、人間が想像するやり方で影響を行使したりはしませんでした。人間の幸せや世界の平和は、神頼みで実現されるものではないからです。イエスさんは、人と人とが互いに愛し合うことによってそれらが実現できることを示すために、自らを「神の子」ではなく「人の子」として十字架の上から私たちに愛を伝えられたのです。