「個人が書いているブログは信用ならない」と言われたことがあります。その人は、以下にご紹介するようなブログなど見ていないのだろうと思います。一方で「MHKは見ている」とのことでした。個人よりも大きな組織の方が信用できるということでしょうか。しかし、組織も内部で適当に解説委員とかの役職を作り、権威を持たせているだけのようにも思えます。内容も「・・・の狙いか?」と、論点をずらしてみたり、責任逃れの「?」を入れてみたりして、組織の要求に沿った御用記事を書いているだけのように受け取れます。結局のところ、大切なのは他人の考えはどうかではなくて、自分はどう考えるのか、そして自分の考えによってどう生きるのか、ということに尽きると思います。
最近、組織の信仰というものの胡散臭さを感じるようになってきました。組織ほど、「信仰」というセリフを多用します。一方で、「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」というパウロの言葉が聖書に記されています。「信仰」よりも「愛」が大いなるものなら、どうして「愛」が前面に出て多用されないのでしょうか。それは、「愛」が前面に出て多用されると、組織が成り立たなくなってしまうからだと思います。教会という組織は、ヒエラルキーが柱になっています。イエスさんの弟子が偉い、そのまた弟子が偉いというように、権威を継承して神父や牧師が偉いという組織になっているのです。ところが「愛」は、ヒエラルキーを否定し、破壊します。互いに愛し合うのに、ヒエラルキーは必要ないからです。
*櫻井さんのブログをご紹介します。個人のブログです。櫻井さんも、「このブログが存在する価値があると感じられたなら、存続できるようにご支援をよろしくお願いいたします。」と言われていますので、お考えください。