・戦争を拒まんとする学生ら黒く喪の列の如く過ぎ行く・
昭和26年「歴史」所収。
年代からみて朝鮮戦争のころだろうか。「拒まんとする学生ら」「黒く喪の列」とあるから、学生服を着た学生たちのデモ行進だろう。今は学生服を着る大学生は皆無に近いのだが、この時代は学生の通学服であり、冠婚葬祭の礼服だった。
そのデモの列を「喪の列」と捉えたところに近藤芳美の感じたポエジーがある。これを篠弘は「思想詠」と呼ぶ。
佐太郎が、
「戦いはそこにあるかと思ふまで悲し曇りのはての夕焼け」
と詠んだのとほぼ同じ時期である。当時としては「思想」というのは、近藤芳美のように詠まれるべきだと考えられていたと、岡井隆は言う。60年安保の頃まではそうだったのだろう。総合誌で「60年安保はどう詠まれたか」という特集が時々組まれるほどだから。
あきらかに佐太郎が「純粋短歌論」の初版本でのべていた「思想」とは意味がちがう。「純粋短歌論」の再版本から「思想」の文字が消えた理由はこの辺りにあるのだと僕は思っている。近藤芳美のこの姿勢を「政治的プロパガンダ」と呼んだのは永田和宏だった。
「現実の最深部まで潜りこみ、対立と矛盾でいりくんだヒダの中から未来への証明としてのイメージをつかみだしてくること、これこそ正に現代の詩人のやらねばならぬことであり、・・・(中略)・・・(現在の)境遇から脱出するためには、プロパガンダというか、通信の必要は感じている・・・。」と書いているのは詩人の吉野弘である。(「詩とプロパガンダ」)
一方、岡井隆は先ほどの佐藤佐太郎の作品の批評のなかで、
「われわれが当時 <思想> を強調しているときに、何と美しく詠んだものだろうか。」と書いている。(「現代名歌鑑賞事典」)
様々な受け取り方と表現方法があると、つくづく思う。如何なる表現方法であれ「詩」として成立しているかが、最も問題だが、それは後日記事にしたいと思う。