・幾山河超えさり行かば寂しさのはてなむくにぞ今日も旅ゆく・
「海の声」所収。
「はてなむ」の表記には「果てなむ」「終てなむ」とさまざまある。雑誌に発表したとき、歌集収録時など。ここでは読みやすいように平仮名にした。
「幾つかの山を越え、河を越えて行くならば、そのかなたには、きっと寂しさの尽き果ててしまうだろう国があるかも知れない。そうしたあこがれをいだいて、今日も旅を続けて行くのである。」というのがおおよその意味。
ある雑誌で、「牧水はそういう国があると思っていたのか、思っていなかったのか」という議論があったが、ここでは少し違う視点で考えてみたい。
上田敏が訳したカール・ブッセの詩を牧水は非常に愛していたそうだが、「幾山河」の歌が、直接この詩の影響のもとに生まれたかどうかは断言できない。しかし、「山道をのぼる」というモチーフ(困難を乗り越えるということとオーバーラップされることが多いと思うが)は散文にも詩にもある。これをここで比べてみようと思う。それぞれの特性を考えるきっかけになるのではないかと思うからだ。
・散文
山路をのぼりながらこう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
住みにくさが嵩じると、安い所に引っ越したくなる。どこに越しても同じだと悟った時、詩が生まれて、画がかける。 (夏目漱石「草枕」)
・韻文(詩)
山のあなた (カール・ブッセ/上田敏 訳)
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
・韻文(短歌)
幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく (若山牧水)
・韻文(俳句)
山路きてなにやらゆかしすみれ草 (芭蕉)
山道をのぼっているモチーフのものを選んでみた。山が「人生の困難」を暗示しているが、これだけ違いがある。個人的には、散文と韻文(詩)、韻文(短歌)と韻文(俳句)のあいだに距離感があるように思う。
以前、「山のあなた」を授業にかけたことがある。音読して意味をとり、再び音読したあとの生徒との会話である。
「主人公は山のこちら側に住んでいる。では、その主人公は幸せに暮らしているか。」
「幸せじゃあない。」
「どうしてわかるんだ?」
「山のむこうに幸せがあるというんだから、こちらがわは幸せじゃあない。」
「幸せじゃあないと書いてないね。」
「(みな頷く)」
「直接書いてないのに伝わって来る。そして言葉にリズム感がある。これが詩だよ。」
全員で再度音読して授業は終わる。この会話の中に散文と韻文の違いが表れていると思う。大きな差である。
俳句になるともっと差が広がる。
「俳句は鞭のように、短歌は小鳥を包むように言葉を遣う。」
「俳句は和歌の調べを捨て、意味を採った。それゆえ切り込みが鋭い。この俳句の方法を短歌の方に回収できないだろうか。」
という文言(もんごん)を、短歌を詠み始めた頃に読んだ記憶がある。後者のほうは岡井隆の言葉だったように記憶している。