・九十九里の磯のたひらは天地の四方の寄合に雲たむろせり・
景の大きな歌である。何かのはずみに耳にした歌だったが、情景の印象が鮮明でスケールが大きく、作品そのものは忘れてしまったが、印象だけが強く刻まれた一首だった。
「九十九里」「天地=あめつち」「四方=よも」。これだけ言葉が連なれば、目の前に水平線まで見渡せる海の印象が、強く深く刻まれる。
正岡子規死後の「根岸短歌会」は混乱を極めた。機関誌を持たなかった「根岸短歌会」はまず伊藤左千夫が「馬酔木・あしび」を創刊するも、5年で終刊。三井甲之の「アカネ」が後継誌となる。しかし同人たちがまとまらず、伊藤左千夫が中心となって「阿羅々木・あららぎ」が創刊された。三井甲之と伊藤左千夫の対立は当時、「根岸短歌会の分裂」といわれた。そして島木赤彦の「比牟呂・ひむろ」が合流。なんとも人間の出入りの多いことであった。
この事態を収めるのに、伊藤左千夫の役割は大きかった。懐が深いというか、度量が大きいというか。茂吉と歌論の上で対立しながら、一方では最大の庇護者でもあった。茂吉との論争は、「何かおかしい」と伊藤左千夫が譲るかたちで終わりを告げる。
細かい人間には到底つとまらないことを伊藤左千夫は成し遂げた。そんな左千夫らしい一首である。