すでに前回で触れたように、中国の映画やラジオ・テレビ等のメディア分野を統括する中国政府の
最高機関である国家広播電影電視総局(国家広電総局)は、2006年9月1日から、中国全土の全ての
テレビ局において、夕方の5時から8時までのゴールデンタイムに外国アニメ(実質上は日本アニメ)
の放映を一律に禁じた。
中国語ではこれを「禁播令」と略称している。播は「伝播(でんぱ)」の「播」で、放送とか放映を
意味する。この原稿でも簡単に「禁播令」と略記することにしよう。
■ 中国の国産アニメが招いた衝撃の事態
この禁播令は、国産のテレビアニメを振興させることや、中国の青少年が日本文化の影響を
受けすぎないようにすることが主な目的だ。また、日本アニメの中には暴力に傾いたものもあり、
青少年の情操教育を妨げるのでそれを阻止し、中華民族の伝統的な文化に対する尊敬の念の
養成と健全な精神形成を促進する、ということも重要な目的とされていた。
たしかに『デスノート』は、禁播令が出た後に、大きな騒ぎとなった(『デスノート』は、死神が落とした
ノートを拾い、犯罪者を次々と殺害していく高校生、夜神月=ヤガミ・ライトと、彼を追う探偵「L」との
頭脳戦を描いた物語。週刊少年ジャンプで連載されて大ヒットし、映画化、テレビアニメ化も行われた)。
日本では付いていないようだが、中国では『デスノート』の漫画本に、自分が心の中で憎んでいる
相手を殺すための手段と殺害日時などを書き込む一覧表が付録として付いており、少年少女たちが
先を争ってそれを購入し、実際に殺したいと思う人の名前と殺害時間、殺害方法などを書き込む
「遊び」が流行ってしまったからだ。日本の原作とは全くかけ離れた形で、「売らんかな」精神だけで
暴走したのである。
最も厳格に青少年の健全な精神発達を提唱しているはずの中国において、最も不健全な精神を
鼓舞するような現象が出たのだ。しかも実際に、それまでには存在しなかったいわゆる「愉快犯」
のような猟奇的殺傷事件が起きたりもした。少年が、生きたままの少女の眼だけをくり抜く
というような事件だった。
こういったことから、2007年6月1日の中国の「児童節(子供の日)」を前にして、中国政府は
厳しく『デスノート』の発売禁止を指示し、テレビでは連日のように、このニュースを流していた。
ニュースキャスターも冷静さを失い、叫ぶようにしてニュースを報道していた。10月になって、
ベルギーでも『デスノート』を真似た猟奇的な殺人事件が起きているので、『デスノート』の
本来の目的は別として、このような形で暴力や猟奇的好奇心を青少年に与えるように変形して
いくことは良くない。これを国家が管理し、青少年の心を健全な方向に導いてあげるのは、
青少年たち自身にとっても不可欠なことであろう。
ところが、である。
禁播令が発動された直後の9月5日、「中央電視台(中央テレビ局)少児チャンネル」(少年と児童
向けの専門チャンネル)で放映が始まった中国国産アニメ「虹猫藍兔七侠傳」は、とんでもない
事態を招くに至った。
このアニメの基本的は登場キャラクターがすべて動物の、シンプルな戦闘ものである。
主人公は猫、敵のボスは虎。ストーリーはこんな具合だ。
──50年前に黒心虎と呼ばれる腹黒い悪者である虎を首領とする魔教団が、良民を惨殺し、森を
支配して王者となろうとするが、森の平和を守るために虹猫の父親と藍(色)兔の母親を含めた
7人の任侠者が力を合わせて黒心虎を倒した。ところが50年後、再びその虎がこの世に現れて
悪事を働こうとする。正義の任侠者のうち生き残っているのは虹猫の父親一人。そこで、新たな
6人の剣者を加えて7名の任侠者が復活して、魔教団を倒そうとする──。
中国国産アニメとしては、同番組はかなりの視聴率を稼いだ。外国アニメの人気に近づいた
唯一の国産アニメと言っても過言ではない。アニメ人気に伴い、このアニメの原作本も1500万部
売れ、アニメのキャラクターグッズの売れ行きも良く、商業的には成功しているかに見えた。
しかし、問題はその内容にあった。毎回、あまりに残虐な闘いの場面が多すぎるのだ。
ひたすら殺し合い、血を流し、暴力的に強い者が勝っていく。
子供たちは、興奮して闘いの場面にのめり込み、テレビを見終わると、「おい、ばばあ、早く死ね!」
「お前なんか死んじまえ!」「お前を殺してやる!」等々、口汚く親や祖父母を罵り、アニメに
登場した殺人兵器(剣)のおもちゃを買いたがるのだ。
これは子供の情操教育に不適切ではないか?
そんな意見が、2007年1月あたりから中国国内のウェブサイトに載るようになり、2月の12日から
15日にかけては、「天涯雑談」というインターネット論壇に、子供たちの親の意見として、放映停止を
強く求める声が連続して書かれるようになった。
■ 庶民の意見で放映禁止に踏み切った中央テレビ局
その中の一人に、「老蛋」というハンドルネームの36歳になる男性がいた。実名は劉書宏。
10歳と5歳の子供の父親で、何冊か本も書いている文士だ。
彼はこんな趣旨の意見をしたためた。
「このアニメは子供たちに、この世の全ては暴力により解決すれば良いという価値観を与える。
暴力と口汚い罵倒、恐喝、威嚇等の悪徳に満ち満ちている。中央電視台は、われわれの子供たちを
どこに導こうというのか。緊急にこのアニメを放映停止にすべきだ」
そしてこの意見を、「天涯雑談」だけでなく、「西祠胡同」というサイトにも掲載し、さらには中
央電視台のホームページにある自由論議のフォーラム・サイトにも載せた。
するとたちまち多くの父母たちの反響を呼び、全国津々浦々から、放映停止に賛同する父母たちの
意見が寄せられ、みるみるうちに世論となって膨らんでいった。
「中国の国産アニメは〈ごみアニメ〉だ」「中央電視台は、お金さえ儲ければ、それでいいのか」、
「お前らの商売は、子供たちの心や教育の犠牲の上に成り立っている」といった激しい意見も
見られるようになった。
青少年の精神を善導する役割を国家から委託されているはずの中央電視台・少児チャンネル
としては、このようなバッシングを子供たちの親から受けるようなことがあってはならない。しかも
この時期は、立ち上がったばかりの国産アニメが成功するか否かという勝負の分かれ目にある。
今まで政府の意向に沿っていれば基本的によかった中央電視台は、視聴者の声を重視しなければ
番組が成り立たない、という厳しいところに初めて追い込まれた。
そして──、2007年2月26日。
中央電視台は突如、この「虹猫藍兔」の放映を停止してしまったのだ。
これを受けて、老蛋こと劉書宏はウェブ上にこんな感想を書き込んだ。
「これはわれわれ父母たちが叫んだ結果だ。インターネットの時代、中央電視台がネット上の
世論を重視しない、ということはもはやできなくなっているはずだ」
ところが話はここで終わらない。
この後、さらに激しい議論がウェブ上で展開された。というのも、このアニメに熱中していた当の
子供たちが、放送中止に対し抗議の声を上げ始めたのだ。中国ではインターネットが普及して
いるから、小学生でもバンバン、ネット上に投書する。
「老蛋! 劉おじさん! あんたが余計なことを言うから、こんなことになってしまったんだよ。
あんたの体をずたずたに切り刻み、骨まで砕いてやる(中国語で〈千刀万●(左側に「過」のつくり、
右にりっとうを書いた文字)〉という字を使っている。これは、肉を切り刻み骨から剥がす刑のこと)。
死体になってもあんたを切り刻んでやる(ここでは〈砕屍万段〉という中国語を使っている。
死体を粉砕し、一万個に分断するという意味である)」
戦慄が走るような、こうした残虐な言葉がいくつもネットに躍った。
皮肉なことに、こういった類の残虐で過激な表現を子供たちが用いること自体が、「虹猫藍兔」の
影響に他ならないのである。かくしてさらに次には別の父母たちからこんな意見が出てきた。
「ほら、こうして子供たちは悪を学んでいく。世論の方向性を導き指導する立場にある中央電視台の
少児チャンネルは、もっと早くからこういう問題が存在することに注目すべきだったのではないのか」
かくして「虹猫藍兔」は放映停止になった後、第二次第三次の議論を中国に巻き起こしたのである。
その中には「そもそもお前が子供を監督してないのがいけないんだ。テレビに子供を預けてしまわず、
テレビのそばにいて指導すべきだ」というように、テレビの質の問題ではなく親の家庭教育の
問題を指摘する意見もあったが、それに対し、「そばにいて指導し続けなければならないような
アニメを放映すること自体、問題じゃないのか」という反論も目立った。もっともだ。ウェブ上に
掲載された議論はプリントアウトすると何百ページにも及ぶ膨大なものなので、全部に目を
通すわけにはいかないが、中国社会を深く分析する意味で示唆的なものを2、3ご紹介しよう。
全文は長いので要点だけを記す。
◆ 動物が主人公で、少児チャンネルで放映しているので、このアニメは7、8歳以下の子供を対象と
していると思われる。が、内容的には大人向けの武侠もので、登場人物に動物の縫いぐるみを
着せただけに過ぎない。子供の心の成長を考えているとは少しも思えない。このアニメの価値は
視聴率の高さと関連キャラクターグッズの販売力だけにあり、ということは大人の論理での
価値しかない、ということになる。社会道徳を犠牲にしてまで、アニメ会社が儲かるために制作
されたアニメに過ぎない。全て大人の論理だ。金儲けのためなら恥も捨てる。こんなアニメを
子供に見せて金稼ぎをする。そこまで良心を捨てるのか。
◆(中国)国産児童アニメなんて、科学もの以外、暴力に満ちている。だから見なければいい。
そもそも、そのチャンネルを選ばなければいいのよ。
その他、ウェブ上で目立った“名書き込み”として、「海外アニメは(国が)見せてはくれない。
国産アニメは見てはならない」などもあり、ともかく国産アニメを「ごみアニメ」と言い放つ
書き込みが非常に目立った。
■ ネット世論が政府を動かす──中国の新しい道
「番組内容が悪いのならば、そのチャンネルを見なければいい」という発想は、すでに多くの中国
国民に浸透している。そのために、テレビ局や広告費を払う企業側からは、「アフター・エイト」
という、新たなゴールデンタイムを設定しようという動きが出始めている。例の禁播令は、夕方の
5時から8時までだからだ。午後8時以降に、日本動漫のような視聴率の稼げる番組を流せば
問題ない、というわけである。
さて以上の現象で、かつての中国では絶対になかった動きがある。
それは「インターネット上で実に自由に中国の人々が議論を戦わせている」ということだ。そこでは
さまざまな意見が飛び交う。まさに賛否両論。そしてこうしたインターネット上の人々の議論が
中央電視台を屈服させてしまうほどの世論形成をする手段となり得る、という事実。
インターネット世論が政府を動かす──これは中国のいまを象徴する動きだ。
2005年春のあの反日暴動もまた、インターネット上での呼びかけが起因となっている。
サンフランシスコにいる在米華僑・華人を中心として始まった日本の国連安保理常任理事国入りに
反対するネット署名の呼びかけが中国大陸に飛び、あのような形で吹き出したものである。
ただし、2005年春の反日暴動のときは、インターネット上の呼びかけが若者を焚きつけ、
それを政府が抑えに入った。
ここで取り上げたアニメの放映に関するやりとりは、性格が異なる。
国民しかも子供たちの父母が、政府機関である国家広電総局の審査を受けたアニメを糾弾し、
政府直属の最強メディア発信機関である中央電視台を放映中止というかたちで屈服させるまで、
ウェブ上で世論を形成し得た。
この事実に私たちは注目しなければならない。
人民日報のウェブ版であるあの人民網が、雑誌「環球」の記事を転載する形で、ウェブ上で
次の事実を報道した。
「インターネット時代の言論は、新しい道を切り拓いた。観衆が初めて、番組を決めるという
ことが起きてしまったのだ」
■ 「視聴者」に選択権がある国産アニメ放映は民主化への第一歩?
中国には、ある意味で言論の自由がなかった。選挙によって政治を変え、国家を変えていく
という手段も(小さな村以外では)存在しない。その意味での民主制は存在していない。
ゆえに、中国政府は、アニメの視聴においても自らの政策を国民に押しつけようとした。まず、
放映禁止令を出して外国アニメをゴールデンタイムから締め出して、中国の青少年を外国アニメの
影響から切り離そうと試みた。同時に、中国の青少年の心を中華民族の文化へ向かわせるべく、
そしてアニメを自国産業とすべく、国産アニメの振興を図ろうとした。
ところが皮肉にも、こうした保護政策をとったせいで、逆に国民が政府に牙を向け、インターネットを
介して世論を形成するまでその不満が膨張し、ついに国家直属機関である放送局を屈服させる、
という事態を招いたのだ。
以上の流れはまさに民主主義的なプロセスにほかならない。
この事実は何よりも大きい。
なぜこんな事態になったのか。その根本的な原因は、日本アニメを締め出した「禁播令」の真の
目的が、青少年の心の育成を重視したのではなく、実はそこから営利を得ようとする経済効果
ばかりに重点が置かれていたことにある、と私は見る。
だから日本アニメを締め出しておきながら、その悪しき模倣である「大嘴巴ドゥドゥ」(「クレヨン
しんちゃん」のコピーではないかと騒がれたアニメ)を放映し(「クレヨンしんちゃん」にハマる中国の
母娘を参照)、日本アニメが暴力的傾向にある、として禁止しながら、安直に人気にすがり、
暴力に傾く「虹猫藍兔七侠傳」などを放映するのである。そして、視聴者である中国国民から
ブーイングを受けるというしっぺ返しにあったわけだ。
しかも、これらのアニメを放映したのは中央電視台だけではない。全国800ほどのテレビ局で
放映されていた。中国のテレビ局の総数は2200局だから、3分の1以上のテレビ局で放映された
ことになる。それだけにこの事件が中国全土に投げかけた波紋と課題がいかに大きかったか、
おわかりいただけるだろう。
動漫のようなサブカルチャーの力を侮ってはならない。それは民衆が自らの好みで選ぶ文化だ。
そこに国家権力が介入しようとすると、とてつもなく大きなしっぺ返しにあう。中国政府はそれを
まだ十分に自覚していなかったのだろう。
■ 日本も中国も、文化に対し官は無力
もう一度くり返そう。
日本動漫が全世界を席巻したのは、その発祥にも発達にも「官」がまったく関係していなかったからだ。
民がつくり、民が売り、民が選び、民が育てた文化なのである。
だからこそ国境を越えて全世界へと広がり、外に目を向ける機会のなかった中国の青少年の
心をも虜にしてしまったのではないのか。
ところが、「官」だの「政府」だのは、常に誤る。中国政府だけではない、日本も、だ。動漫の
人気ぶりだけを見て、中国は国策として国産アニメ保護策に乗り出し、出だしからつまずいた。
日本政府も今さらのように突如日本動漫を日本の産業の柱の一つとして外交の顔にしよう、
などと「おいしいとこ取り」を始めようとしている。
自由市場経済と大衆の選択。
これ以上に強い力はない。
サブカルチャーにおいては、「官」は大衆に屈服する以外にないことを思い知るべきだろう。
サブカルチャーの普及から生まれてくるのは民主主義だ。その事実に中国政府は気がついて
いるだろうか。
単純にサブカルチャーである動漫の経済効果だけを重視しているような場合ではないと
私は思うが、いかがだろう。
追記:このあと、今度は放映を禁止された子供たちが騒ぎ出し、テレビ局はその子供たちの
意見にしたがうために、再び「虹猫藍兔七侠傳」の放映を始めた。まさに動漫産業は、「民衆の
意見に従うしかない」ことを、如実に思い知らせた事件であった。(終わり)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20071214/143090/
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/moeplus/1199855159/
保守記事.103-5 サブカルチャーかカルチャーか?
保守記事.103-5-2 別に、文化侵略をしているつもりはないし。。。。