◆漫画の磁場
昨日は当直で、夜中に電話で起こされて、なんとなく眠れなくなってきたんで少し漫画でも読もうかと思ったのです。
全1巻の漫画が読みやすいなーと思って、なんとなく、今まで4回くらい読んでいる楳図かずお大先生の「イアラ」をもう一度読んでみたのだけど、圧倒的に壮大な話で、寝ずにとりつかれた様に読んでしまった!改めて楳図かずお先生のすごさを思い知ったというわけです。
でも、朝になると、眠くて眠くて仕事が辛い!笑
この前、NHK『マンガのゲンバ』っていうので、美内すずえ先生が、ガラスの仮面復活記念にテレビに出てました。彼女が言うには『いい漫画って、お母さんに御飯ですよーって呼ばれても、はーいって生返事だけして、そのままご飯食べるのを忘れて、熱中して漫画を読み続ける漫画。わたしはそういう漫画を描きたい。小学5年生くらいでも分かるように描いてる』って言ってましたね。
「イアラ」からも同じものを感じた。すごい磁場があって離れられなくなる、その世界観に吸い込まれるように。
◆「何がどうすごくて、何がどういいのか表現できない」こと
読んだ後、ものすごい影響を受けて魂をつかまれるような感覚はあるんだけど、何がどうすごくて、何の影響受けたのか、いまいち言語化できないことは多い。
知りあいに『何がどうすごくて、何がどうよかったの?』って聞かれても、いまいちうまく答えることができない。でも、ものすごく充実した読書体験をしたことは間違いない。その瞬間には忘我の状態で時間の感覚すらないこと多し。いい漫画とか文学ってそういうものですよね。
「何がどうすごくて、何がどういいのか表現できない。でも、かなりスゴイものを感じた」というのは、自分の中で表現できるだけのボキャブラリーがなかったのかもしれないんだけど、実はいまだ言語化されてない、もの凄いことの本質の近くにいるってことなのかもしれない。そうであればかなりすごい!!
「よかったー」「よくなかったー」「感動したー」って言葉だけではおさまらない、あふれ出るものを感じたとき、言葉に詰まるものです。言語化できないものです。
それは、未知なる概念の近くにいるのかもしれない。そんな未知なる感覚の素敵な贈り物を作品から受け取ったってことかもしれないです。
楳図かずおを始めとした素晴らしい漫画表現って、そういう状態に陥ることが多い。だから、漫画は止められない!とまらない!
◆楳図かずお
漫画家の中で、楳図かずおは本当に愛読している。
読んだことがないときは、単にオカルトでホラーでグチャグチャでグロテスクな絵を描く人ってイメージしかなくて、それと同時に『まことちゃん』のグワシ!とか。後はテレビに出てシマシマのTシャツ着てる奇天烈なおじさんというイメージしかなかった。
確かにそれも正しい。グチャグチャに人が殺されたり内臓が飛び散ったりするシーンが出てくることもある。でも、漫画なので不思議とそういうシーンは怖くなくて、寧ろ自分のうちに潜む恐怖心を刺激してくる怖さの方が楳図作品はすごい。
ホラーとか残虐シーンとかは、楳図作品の部分に過ぎなくて全体ではない。
漫画を読むと、あの人が生き神と言われるほどの、漫画世界での孤高の位置を占める漫画家であることは容易に分かる。たぶん、過去の世界文学とかを振り返っても、楳図かずおは独自で孤高の存在であるのは間違いないと思う。類似がなかなか見当たらない。
楳図かずお漫画のお薦めとしては『14歳』、『わたしは真悟』、『漂流教室』、『洗礼』、『おろち』が個人的には特におすすめ。
それぞれの本に関して、一度ちゃんとブログで感想を書きたいと前々から思っている。
ま、ふと改めて読み直して、今回のイアラみたいに感想を書かざるをえないほど熱を帯びたら、必然的に書く衝動に駆られるんだろうと思いますけどね。
引っ越す度に本の多さに辟易していた。どんどん荷物を軽くしようと思ってはいるのだけど、やっぱり漫画とか本とかって、すごい作品であるほど魂がこもっているような気がして手放すことができない。少なくとも、友人にあげたり、職場の本棚に勝手に残して行ったりしている。放流!
そういう漫画漂流の中でも、手塚治虫先生と楳図かずお先生の漫画は、何故か不思議と手放せなくて、強い念を感じすぎて、本棚にいつも入っている気がする。
もし楳図かずお作品を堪能したければ、僕に言って下さい。喜んでお貸ししますヨ!
◆「イアラ」
この漫画のテーマは「愛」。これにつきる。
そして、その愛は時空を超える。念とか思いっていうのは、時間や空間を簡単に無視して持続する。
ちなみに、「愛」がテーマといえば、別の楳図作品だけど『わたしは真悟』も同じテーマ。
わたしは真悟も、タイトルの意味が分かるのは少し読み進めてからしかわからない。でも、楳図かずおが伝えようとしている愛や純愛というもの。その純潔さや思いや念の強さ。物凄い強度で本から伝わってくる。
楳図かずおの「念」ってものすごいから、漫画で紙を通しても恐ろしいほど伝播してくるのです。『わたしは真悟』に関しては、またいつか書きたい。
「イアラ」での愛は、愛した女性が、時代の流れに翻弄され、愛を貫きながら哀しい最後を遂げることからこの物語は始まる。当時の聖武天皇が大仏建立という事業のために、土麻呂(つちまろ)と小菜女(さなめ)の愛を引き裂く。そして、小菜女が非業の死を遂げるときに叫ぶ謎の言葉、それが『イアラ!』
『イアラ』という言葉の謎を追いながら、土麻呂は時空を超えながら小菜女を探し続ける。それは時空を越えた終わりなき旅。 人類の始まりからこの漫画は描かれ、その中には松尾芭蕉、千利休を題材にしながら太古を経て、現代や、人類が滅びた未来へと時間は連続して、読者を旅に連れて行く。
時には惨めな悲劇や人生があり、時には大して何もなく生まれ、死んでいく人も普通に漫画の中で描かれる。
そういう、一人の人生を短編でまとめつつ、不完全なままあえて完結させつつ、その短編を紡いで、一つの『イアラ』という物語へと結んで行く。
一つ一つの無意味に思える短編が、常にある軸を伴って一つの物語を形作る。
このストーリーの流れは、偶然にも手塚治虫の火の鳥を思い出させる。時空を超えるエネルギーや命の象徴として火の鳥は存在していたが、楳図かずおの「イアラ」でも同じような役目を果たす存在が出てくる。
火の鳥では、一巻、一巻が独立しながら全体としてつながっているのと同じで、イアラは、第1章/さなめ→第2章/しるし→第3章/わび→第4章/かげろう→第5章/うつろい→第6章/望郷というのが『愛』を軸として一つの物語へとつながる。
■(1)言葉は媒介に過ぎない
漫画のタイトルでもある『イアラ』という不可解な言葉は、何を意味するのか。最後にそれは判明するが、結局それは本質的ではないような気もしてくる。言葉自体や意味自体は、この漫画にとって本質的ではないような気がする。
言葉とは何か概念を示す道具に過ぎなくて、何かのわけのわからない思いの塊が、ある言葉として単に表現されて産み落とされたたに過ぎないのかもしれない。
意味というものもそう。僕らは何か意味付けしたがるし、そういう言葉と意味に振り回されながら、僕らは日々生きていくけど、その根底に流れる『愛』のような思いや、念のようなもの。それは自分の体にはっきり存在して流れていることが分かる。感じたことも分かる。そういう自分の奥底に流れる源流のような思いや念を考えさせられる作品だったと思う。
思いや念や愛や記憶が、時間や空間を無視して、別の形に変容しながら持続していく。そんなことを感じた。
■(2)言葉には呪詛がある
イアラには、[豪華愛蔵版] というものもある。定価4800円で、文庫化されたイアラと、珠玉の短編集がセットになっている。この短編集も溜息出るほど名作が多くて、数ページに込められた短編の妙を本当に味わってほしい!
ところで、『言葉には呪詛がある』というのは、この豪華愛蔵版の帯についている楳図先生本人の言葉(写真には出てないけど購入すると帯がある)。
そして、この豪華愛蔵版の最後に解説として書いてある中野晴行さんの文章もすごく面白い。示唆に富む。その文章を引用しながら、読んで感じた事も補足。
イアラには、松尾芭蕉が語った『始めあり終わりあり。始めなし終わりなし』という言葉が何度か出てくる。確かに、このイアラは最後が最初につながっているようにも読める。ラストシーンから始まりのような気もしてくる。妄想にも夢にも読める。
人間は言葉を発明したことで、言葉でしか認知できない様々な概念を作った。
『愛』・・・それは触れることはできない。実態はないが、なんとなく共有できるイメージがある。なんとなくみんなが認知できる。形がないのに、何故かみんなが漠然と同じようなものを認知できるというのは、言葉がもつ魔力のようなものなのだろう。言葉はすごい発明だとも思える。
楳図かずおは、誰もが共有してイメージできない言葉として、あえて『イアラ』という謎の言葉を作った。イアラという謎の言葉の呪詛で、物語をつくり、僕ら読者をその中に封印して閉じ込めた。
イアラの中で、『歴史は人間が作った記録にすぎない。歴史は言葉が作り出したフィクションである。』というような場面が出てくる。歴史家が自分たちに都合がいいように歴史を書き換え、話が面白くなるように英雄を作ったり、ハッピーエンドで終わらせようよしているシーンがさりげなく出てくる。
僕らが知ることのできる歴史に真実そのものはないのだろう。記述して言語にされた段階でかなりの編集作業が行われている。 その時代に生きていた人間の記憶や思い出には真実があるのかもしれないけど、その記憶や思い出は、肉体が死ぬことで脳味噌と共に一緒に滅びてしまう。
イアラで描いたのは、もしこの記憶が永遠に人から人へと正しく受け継がれれば、歴史として記述されたものより確からしい記憶が、時間や空間を越えて無限性を持つという問いのようにも読める。
主人公の土麻呂は、『イアラ』という言葉の呪詛にとらわれ、小菜女が輪廻転生して生まれてくることも信じることができない。抱きしめても実感が湧かない。
ただ、人類が太陽と共に破滅する瞬間、その最後で土麻呂は全てを悟り、『イアラ』という謎の言葉が持つ呪詛から解き放たれる。そこでイアラの物語は終わりのようにも解釈できるけど、松尾芭蕉が語った『始めあり終わりあり。始めなし終わりなし』が繰り返し出てくることを考えると、メビウスの輪のように、また始まりに舞い戻るのかもしれない。ただの夢や妄想だったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
そういうグルグルした漫画なので、考え出すとかなり難解で哲学的な漫画でもあります。すごいなー。奥が深いわー。
◆610円
というような漫画がイアラです。(読んでみないと全然伝わらんと思うけど笑)
「イアラ」文庫版だとたったの610円!一食少し節約するだけでこんな素晴らしい作品が手に入るってスゴイ時代だ!
少しでも読みたくなった人、メールくれれば今度会うときでもお貸しします。
劇薬で取扱注意ですが、楳図作品がどんなもんか、死ぬまでに一度だけでも読んでみることを強くお薦めします!
昨日は当直で、夜中に電話で起こされて、なんとなく眠れなくなってきたんで少し漫画でも読もうかと思ったのです。
全1巻の漫画が読みやすいなーと思って、なんとなく、今まで4回くらい読んでいる楳図かずお大先生の「イアラ」をもう一度読んでみたのだけど、圧倒的に壮大な話で、寝ずにとりつかれた様に読んでしまった!改めて楳図かずお先生のすごさを思い知ったというわけです。
でも、朝になると、眠くて眠くて仕事が辛い!笑
この前、NHK『マンガのゲンバ』っていうので、美内すずえ先生が、ガラスの仮面復活記念にテレビに出てました。彼女が言うには『いい漫画って、お母さんに御飯ですよーって呼ばれても、はーいって生返事だけして、そのままご飯食べるのを忘れて、熱中して漫画を読み続ける漫画。わたしはそういう漫画を描きたい。小学5年生くらいでも分かるように描いてる』って言ってましたね。
「イアラ」からも同じものを感じた。すごい磁場があって離れられなくなる、その世界観に吸い込まれるように。
◆「何がどうすごくて、何がどういいのか表現できない」こと
読んだ後、ものすごい影響を受けて魂をつかまれるような感覚はあるんだけど、何がどうすごくて、何の影響受けたのか、いまいち言語化できないことは多い。
知りあいに『何がどうすごくて、何がどうよかったの?』って聞かれても、いまいちうまく答えることができない。でも、ものすごく充実した読書体験をしたことは間違いない。その瞬間には忘我の状態で時間の感覚すらないこと多し。いい漫画とか文学ってそういうものですよね。
「何がどうすごくて、何がどういいのか表現できない。でも、かなりスゴイものを感じた」というのは、自分の中で表現できるだけのボキャブラリーがなかったのかもしれないんだけど、実はいまだ言語化されてない、もの凄いことの本質の近くにいるってことなのかもしれない。そうであればかなりすごい!!
「よかったー」「よくなかったー」「感動したー」って言葉だけではおさまらない、あふれ出るものを感じたとき、言葉に詰まるものです。言語化できないものです。
それは、未知なる概念の近くにいるのかもしれない。そんな未知なる感覚の素敵な贈り物を作品から受け取ったってことかもしれないです。
楳図かずおを始めとした素晴らしい漫画表現って、そういう状態に陥ることが多い。だから、漫画は止められない!とまらない!
◆楳図かずお
漫画家の中で、楳図かずおは本当に愛読している。
読んだことがないときは、単にオカルトでホラーでグチャグチャでグロテスクな絵を描く人ってイメージしかなくて、それと同時に『まことちゃん』のグワシ!とか。後はテレビに出てシマシマのTシャツ着てる奇天烈なおじさんというイメージしかなかった。
確かにそれも正しい。グチャグチャに人が殺されたり内臓が飛び散ったりするシーンが出てくることもある。でも、漫画なので不思議とそういうシーンは怖くなくて、寧ろ自分のうちに潜む恐怖心を刺激してくる怖さの方が楳図作品はすごい。
ホラーとか残虐シーンとかは、楳図作品の部分に過ぎなくて全体ではない。
漫画を読むと、あの人が生き神と言われるほどの、漫画世界での孤高の位置を占める漫画家であることは容易に分かる。たぶん、過去の世界文学とかを振り返っても、楳図かずおは独自で孤高の存在であるのは間違いないと思う。類似がなかなか見当たらない。
楳図かずお漫画のお薦めとしては『14歳』、『わたしは真悟』、『漂流教室』、『洗礼』、『おろち』が個人的には特におすすめ。
それぞれの本に関して、一度ちゃんとブログで感想を書きたいと前々から思っている。
ま、ふと改めて読み直して、今回のイアラみたいに感想を書かざるをえないほど熱を帯びたら、必然的に書く衝動に駆られるんだろうと思いますけどね。
引っ越す度に本の多さに辟易していた。どんどん荷物を軽くしようと思ってはいるのだけど、やっぱり漫画とか本とかって、すごい作品であるほど魂がこもっているような気がして手放すことができない。少なくとも、友人にあげたり、職場の本棚に勝手に残して行ったりしている。放流!
そういう漫画漂流の中でも、手塚治虫先生と楳図かずお先生の漫画は、何故か不思議と手放せなくて、強い念を感じすぎて、本棚にいつも入っている気がする。
もし楳図かずお作品を堪能したければ、僕に言って下さい。喜んでお貸ししますヨ!
◆「イアラ」
この漫画のテーマは「愛」。これにつきる。
そして、その愛は時空を超える。念とか思いっていうのは、時間や空間を簡単に無視して持続する。
ちなみに、「愛」がテーマといえば、別の楳図作品だけど『わたしは真悟』も同じテーマ。
わたしは真悟も、タイトルの意味が分かるのは少し読み進めてからしかわからない。でも、楳図かずおが伝えようとしている愛や純愛というもの。その純潔さや思いや念の強さ。物凄い強度で本から伝わってくる。
楳図かずおの「念」ってものすごいから、漫画で紙を通しても恐ろしいほど伝播してくるのです。『わたしは真悟』に関しては、またいつか書きたい。
「イアラ」での愛は、愛した女性が、時代の流れに翻弄され、愛を貫きながら哀しい最後を遂げることからこの物語は始まる。当時の聖武天皇が大仏建立という事業のために、土麻呂(つちまろ)と小菜女(さなめ)の愛を引き裂く。そして、小菜女が非業の死を遂げるときに叫ぶ謎の言葉、それが『イアラ!』
『イアラ』という言葉の謎を追いながら、土麻呂は時空を超えながら小菜女を探し続ける。それは時空を越えた終わりなき旅。 人類の始まりからこの漫画は描かれ、その中には松尾芭蕉、千利休を題材にしながら太古を経て、現代や、人類が滅びた未来へと時間は連続して、読者を旅に連れて行く。
時には惨めな悲劇や人生があり、時には大して何もなく生まれ、死んでいく人も普通に漫画の中で描かれる。
そういう、一人の人生を短編でまとめつつ、不完全なままあえて完結させつつ、その短編を紡いで、一つの『イアラ』という物語へと結んで行く。
一つ一つの無意味に思える短編が、常にある軸を伴って一つの物語を形作る。
このストーリーの流れは、偶然にも手塚治虫の火の鳥を思い出させる。時空を超えるエネルギーや命の象徴として火の鳥は存在していたが、楳図かずおの「イアラ」でも同じような役目を果たす存在が出てくる。
火の鳥では、一巻、一巻が独立しながら全体としてつながっているのと同じで、イアラは、第1章/さなめ→第2章/しるし→第3章/わび→第4章/かげろう→第5章/うつろい→第6章/望郷というのが『愛』を軸として一つの物語へとつながる。
■(1)言葉は媒介に過ぎない
漫画のタイトルでもある『イアラ』という不可解な言葉は、何を意味するのか。最後にそれは判明するが、結局それは本質的ではないような気もしてくる。言葉自体や意味自体は、この漫画にとって本質的ではないような気がする。
言葉とは何か概念を示す道具に過ぎなくて、何かのわけのわからない思いの塊が、ある言葉として単に表現されて産み落とされたたに過ぎないのかもしれない。
意味というものもそう。僕らは何か意味付けしたがるし、そういう言葉と意味に振り回されながら、僕らは日々生きていくけど、その根底に流れる『愛』のような思いや、念のようなもの。それは自分の体にはっきり存在して流れていることが分かる。感じたことも分かる。そういう自分の奥底に流れる源流のような思いや念を考えさせられる作品だったと思う。
思いや念や愛や記憶が、時間や空間を無視して、別の形に変容しながら持続していく。そんなことを感じた。
■(2)言葉には呪詛がある
イアラには、[豪華愛蔵版] というものもある。定価4800円で、文庫化されたイアラと、珠玉の短編集がセットになっている。この短編集も溜息出るほど名作が多くて、数ページに込められた短編の妙を本当に味わってほしい!
ところで、『言葉には呪詛がある』というのは、この豪華愛蔵版の帯についている楳図先生本人の言葉(写真には出てないけど購入すると帯がある)。
そして、この豪華愛蔵版の最後に解説として書いてある中野晴行さんの文章もすごく面白い。示唆に富む。その文章を引用しながら、読んで感じた事も補足。
イアラには、松尾芭蕉が語った『始めあり終わりあり。始めなし終わりなし』という言葉が何度か出てくる。確かに、このイアラは最後が最初につながっているようにも読める。ラストシーンから始まりのような気もしてくる。妄想にも夢にも読める。
人間は言葉を発明したことで、言葉でしか認知できない様々な概念を作った。
『愛』・・・それは触れることはできない。実態はないが、なんとなく共有できるイメージがある。なんとなくみんなが認知できる。形がないのに、何故かみんなが漠然と同じようなものを認知できるというのは、言葉がもつ魔力のようなものなのだろう。言葉はすごい発明だとも思える。
楳図かずおは、誰もが共有してイメージできない言葉として、あえて『イアラ』という謎の言葉を作った。イアラという謎の言葉の呪詛で、物語をつくり、僕ら読者をその中に封印して閉じ込めた。
イアラの中で、『歴史は人間が作った記録にすぎない。歴史は言葉が作り出したフィクションである。』というような場面が出てくる。歴史家が自分たちに都合がいいように歴史を書き換え、話が面白くなるように英雄を作ったり、ハッピーエンドで終わらせようよしているシーンがさりげなく出てくる。
僕らが知ることのできる歴史に真実そのものはないのだろう。記述して言語にされた段階でかなりの編集作業が行われている。 その時代に生きていた人間の記憶や思い出には真実があるのかもしれないけど、その記憶や思い出は、肉体が死ぬことで脳味噌と共に一緒に滅びてしまう。
イアラで描いたのは、もしこの記憶が永遠に人から人へと正しく受け継がれれば、歴史として記述されたものより確からしい記憶が、時間や空間を越えて無限性を持つという問いのようにも読める。
主人公の土麻呂は、『イアラ』という言葉の呪詛にとらわれ、小菜女が輪廻転生して生まれてくることも信じることができない。抱きしめても実感が湧かない。
ただ、人類が太陽と共に破滅する瞬間、その最後で土麻呂は全てを悟り、『イアラ』という謎の言葉が持つ呪詛から解き放たれる。そこでイアラの物語は終わりのようにも解釈できるけど、松尾芭蕉が語った『始めあり終わりあり。始めなし終わりなし』が繰り返し出てくることを考えると、メビウスの輪のように、また始まりに舞い戻るのかもしれない。ただの夢や妄想だったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
そういうグルグルした漫画なので、考え出すとかなり難解で哲学的な漫画でもあります。すごいなー。奥が深いわー。
◆610円
というような漫画がイアラです。(読んでみないと全然伝わらんと思うけど笑)
「イアラ」文庫版だとたったの610円!一食少し節約するだけでこんな素晴らしい作品が手に入るってスゴイ時代だ!
少しでも読みたくなった人、メールくれれば今度会うときでもお貸しします。
劇薬で取扱注意ですが、楳図作品がどんなもんか、死ぬまでに一度だけでも読んでみることを強くお薦めします!
悲しみや哀れみではない。ただとてつも無く大きく、そして儚い時の流れに漂うつかみどころの無い意味と言う言葉の意味。
意味知らず言葉、イアラと言う言葉の意味が身体中へ流れ込み、僕を覚醒させた。
僕は明確な意識の中で涙した。
時空を超えた旅、松尾芭蕉まで出てくるのがウメズ先生のすごいところです。
このように、人間の魂は輪廻しているのかもしれませんね。不思議なものです。この世界のことは分からないことばかりで、追いかけては逃げていき、追いかけて近づいたと思えば遠ざかり、蜃気楼の影のような存在です。
ウメズ先生の作品はどれも素晴らしいです。
「愛」をテーマにした作品として、自分は「わたしは真吾」という作品が最高傑作だと思っています。もし未読でしたら是非お読みください。Takahashiさんのような感性をお持ちの方なら、必ずや深い感動を覚えると思います。
コメントありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。