日常

いま考えていること

2011-03-31 22:26:02 | 考え
作家の田口ランディさんから、「(3月11日の東日本大震災、そしてそれに続く福島原発の問題・・を受けて)いまあなたが考えていることをまとめて書いてください。実名、連名でネットで公開したいと思います」というようなお誘いのメールがあり、自分に何が言えるのだろうと思いながらも、なんとか書いた。この時点で、この瞬間に書くことに意義があると思ったからだ。

ランディさんのブログを経由して(⇒「みんなはいま、なにを思っているんだろう?」)、ランディさんのブログサイトだと長くてアップロードできなかったとのことで、ガジェット通信というところに内容が出ています。(⇒ガジェット通信のサイト

せっかくなので、自分の文章だけはこのブログにアップします。

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自分は、東京に住み、32歳で、医療の職についている。
田口ランディさんとは大学生時代からの付き合いで、長い付き合いはランディさんへの個人的な信頼感を深めるのに十分な時間で、彼女がすることはなるべく直接足を運んで見聞きして学び取るようにしていた。
そして、「ダイアローグ研究会」にも誘われた縁で、ここ1年は<原発>と<対話>をふたつの焦点とした楕円体のようなテーマを勉強していた。

そして、今回の震災とそれに続く原発の問題が起きた。


自分は活動家でもなく、思想家でもなく、人格者でもない。
あの日以来、被災地からの情報におびえ、混乱し、戸惑い、うろたえて日々を過ごしているひとりの人間でしかない。

ただ、プロの医療者としての倫理観は保っている。
いつも以上に心を平静に保ち続けることを自分には課して、辛い時こそ患者さんには笑顔で接したいと思っている。
そうは言うものの、仕事の合間合間に被災地のことを思うと、またそのことで頭がいっぱいになる。深い海の底のようなかなしみを感じる。
そして、自分が東京という安全地帯にいることの罪の意識のようなものさえ感じる。
自分は果たして何をしているのだろうか、と。


ただ、自分はこうして生きている。だから、こうして書いている。

自分が生きているからこそ、病いに苦しむ人に寄り添うことができる。
医療では、相手のいたみやかなしみに共感して「同じ」目線で見ながら、それでいて「違う」目線で見ているという節度も持たないといけない。
主観と客観という矛盾する心理状態を、矛盾のまま抱えながら前を向いて歩くことで、医療行為は成り立っている。


今回のことは、ただただ、かなしかった。
個人的にかなしんで、かなしんで、かなしみ抜いた。
かなしみのあとで感じたことは、「人間が生きていることはなんとすごいことだ。」という当たり前のことだ。
これは日々の医療の行為でも感じていたはずなのに、忙しいことを言い訳にして正面から向き合わなかったために、深い場所で眠らせていたことだ。

自分は希望と絶望の間で揺れ動くひとりの臆病な人間でしかないけれど、自分がこうして生きているからこそ、恐怖におびえ、怒り、絶望できる。
そして、怒りの矛先が偏見や決め付けではなかったかと反省し、わかりやすい善悪の物語に自分が改変してなかったかと反省し、また心を落ち着けて元の生活や仕事へと戻ることができる。光と影が同時に見えだすと、絶望が反転して希望さえも感じることができる。


人間が生きているからこそ、お互いを批判し合い、高めあい、低めあい、尊敬しあい、責任をなすりつけあい、協力しあうことができる。
自分は医療の職についていて、お互いが生きていることを確かめあうような仕事をしている。
もちろん、死は敗北なんかではなくて、生と死は表と裏で光の当て方に過ぎないと言えるかもしれないけれど、
そんな文学的な比喩を軽々しく言うことが許されているのも、自分が、いま生きているからだ。そして、これを読めるのも、いま生きているからだ。

いま生きているということを改めてしっかり考えていきたい。いま生きているひとたちと共に、生きている未来を考えたい。

職業柄、特に健康のことが気にかかるけれど、自然のこと、エネルギーのこと、生活のこと、水や食事のこと、環境のこと・・・あらゆる現在やあらゆる未来のこと。
今回の出来事に対して考えるべきことは、言葉と同じ数だけ見出されるかもしれない。それぞれに長い時間がかかる。体力が必要だ。 自
分がいま生きているのだから、サイズやスケールにこだわらず、自分が考えたことに対しても卑屈にならず、生きている限り考えていきたい。何らかの関係性を保ち続けたい。 

お互いが生きていることを確認し合う医療の仕事をしている人間として、より強くより深く、いま考えていることです。

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何を書くべきなのかかなり困ったけれど、数時間考えた結果、「ひとが生きているということは、それ自体でなんとすごいことなのだろう」というところに着地していた。 
そのことを核に、上のような文章になった。


うろたえたり、おびえたり、不安におもったり、心配だったり・・・

それはすべて、生きているということが前提で、それはすべて、自分がいま生きているということの証明だ。 
生きているという思いがあるからこそ、矛盾を抱えながら前へ歩ける。


生きていること、それはすでに前向きなことだ。 
いくら絶望と希望がまだら模様に混在していようとも、ぜんぶすべて合わせると、生きていること自体はきっと希望の方向へと向いている。
それは、ポジティブシンキングのような処世術ではなく、心から感じていることです。

2 コメント

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美しい瞬間 (YUTA)
2011-04-15 01:58:35
まず、今日の東京は雲ひとつ無い快晴で、湿度も低く桜やタンポポやスミレが咲き子供たちは遊び回り、まるで大震災など無かったかのようでした。生きていればそういう美しい瞬間もある。突然命を奪われることのあるこの世界で、《いま生きているということ》の奇跡を実感しなければ、人生が無意味になってしまうと思います。いま、ここで美しさを発見することの大切さを知らされた一日でした。

ところで、ガジェット通信のサイト読みました。何だか違うな、と感じたのは、原発のことばかり書いている人がいる点。私にとっては津波で2万人以上亡くなったということが大きな衝撃でしたが。

原発に関する論争が必ず激しくなるのは、どちらも正論を言っているからではないでしょうか。「こんな重大な被害を与える原発は廃止すべき」というのも、「そういうあなたも電力を使って生きているでしょう」というのも、どちらも正論です。もっとも、ネットでは激しい対立があるように見えても、それは少数の人が戦っているだけかもしれません。都知事選でも原発問題はそれほど争点になりませんでした。

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関係性 (いなば)
2011-04-18 11:14:51
>>>YUTAさん
そうですね。ちょうどYutaさんにブログでコメントを書いていた時に、ランディさんから何か文章を書いてくださいと頼まれて、どうしようか葛藤していたところでした。
ぼくに何も言う資格もありません。と言ってしまえば、もちろんそれで終わりなんですけど、それはそれでずるいかなぁと思い直しまして、ちょうど書いたんですよね。



>ところで、ガジェット通信のサイト読みました。何だか違うな、と感じたのは、原発のことばかり書いている人がいる点。私にとっては津波で2万人以上亡くなったということが大きな衝撃でしたが。

そうですね。東京の人から見ると、やはり切実なのは放射能のことなんだろうと思いました。
それぞれ、そのひとの切実さの問題って違いますよね。親戚がひとり被災地にいるだけで全然違いますし、住む場所が違うだけで違う。
チリ地震でも、そのものでは、チリに知人がいたり旅行したことでもない限り、日本人の多くの人は関心を持たなかったでしょうが、その津波が東北にまで押し寄せると、はじめてチリ地震のことを思う。

ひとそれぞれ関心も興味も違い、許容範囲もちがう。
それぞれ別の方向を向いている。でも、共通点は、関係性をもっている。ということだとも思うのです。
マザーテレサが、愛の対義語は無関心だと言っていたような気がしますが、これは卓見だと思いました。
関係性がなければ、何の感情もわかないものです。地球の裏側や月の裏側で地震が起きているような感覚になってしまいますしね。

関係性を結ぶという意味で、自分も文章を書くのを引き受けたのです。書いた以上、その発言(それは過去の自分そのものですし)に嘘をつかないように正直に生きていかないといけないわけですし。

それは、こうしてコメントを書いていただけることも同じように感じていまして、とても感謝しています。
ネットでは、ただ無言で眺めることもできるし、共感したコトバもかけるし、建設的なことばも書けるし、ちょっとイラつけば罵詈雑言を書き並べてさっさといなくなることできる。
でも、いづれせよ、そうして何らかの形で書き記してもらえるということは、そこで何らかの関係性は生まれているわけで、その小さい波紋の果てに、人間は生きていくのだと思うのです。

そういうわけで、こうして何らか書き込んでいただけることに感謝します。ありがとうございます。


>原発に関する論争が必ず激しくなるのは、どちらも正論を言っているからではないでしょうか。
そうですね。戦争と同じですね。互いが互いの正義を主張するわけですからね。
そのためには、互いが時間をかけて対話を繰り返し、問いそのものが別の形へと変容していくことが解決の糸口なのだと考えています。
『エネルギーを人類はどう使っていくのか』『循環型エネルギーへ向けて』『安全とはどういうことか』『政治、経済、科学技術の関係性』・・・問いの立て方次第で、議論はどうとでも変わりますからね。
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