よしもとばななさんの「スウィート・ヒアアフター」幻冬舎 (2011/11/23) を元旦に読みました。
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<内容紹介>(Amazonより)
命の輝きが、残酷で平等な世界の中で光を増していく――。
今、生きていること。その畏れと歓びを描き切った渾身の書き下ろし長編小説!
「とてもとてもわかりにくいとは思いますが、この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです。」――よしもとばなな
ある日、小夜子を襲った自動車事故。
同乗していた恋人は亡くなり、自身はお腹に鉄の棒が刺さりながらも死の淵から生還するが、それを機に小夜子には、なぜか人には視えないものたちが見えるようになってしまった。
行きつけのバーに行くと、いつもカウンターの端にいる髪の長い女性に気付いたり、取り壊し寸前のアパート「かなやま荘」の前を通ると、二階の角部屋でにこにこと楽しそうにしている小柄な女性がいたり……。
その「かなやま荘」の前で出会った一人の青年・アタルと言葉を交わすうちに、小夜子の中で止まっていた時間がゆっくりと動き始める。
事故で喪ってしまった最愛の人。元通りにならない傷を残した頭と体。そして、戻ってこない自分の魂。
それでも、小夜子は生き続ける。命の輝きが、残酷で平等な世界の中で光を増していく。
今、生きていること。その畏れと歓びを描き切った渾身の書き下ろし。
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この本のあとがきに、震災への鎮魂の書でもある旨が、ばななさん自身によって書かれています。
亡くなった人はこの世にはいない。ただ、亡くなっていない人(=生きている人)はこの世にいる。そこには絶対的なアンバランスがあり、絶対的な不平等があります。
その不均衡は何らかのゆがみとなって現れ、生きている人のバランス感覚を少し失わせます。
そんなとき、生と死とはこの世界で入り混じります。
■
コップの水の中に砂が混ざっている状態をイメージしてみます。
そのコップには水と、分離して沈殿した砂があります。
肉眼で見える砂の粒子は下に沈殿していますが、肉眼で見えないほどの微粒子状の砂粒は水とまじりあっています。あまりに細かい微粒子なのでよく見えないだけです。入り混じっています。
この世界には重力があります。水中では浮力もあります。
水は上に、砂粒の粒子は下に、分離しています。
動きがない間は、水と砂粒とは分離したままです。
そのコップを横から見ると、水と砂粒は分離しているのがわかりますが、普段何気なく水の表面で暮らしている間は、そんなことを考えもしません。なぜなら、水の表面は常に穏やかで、それはまるで永遠のよう。奥底を見る必要はありません。
ただ、水の表面に強い風が吹き、大きく水が揺れると、奥底に沈殿している砂粒は撹拌し、水と砂粒とは濁ります。混沌が生まれます。
・・・・
また長い時間がたつと、細かすぎて目に見えない微粒子の砂粒は水の中に溶け込み、一体化する。見えなくなる。
また長い時間がたつと、目に見える大きい砂粒は水の底へと沈殿する。分離する。分離して目に見えるようになります。
■
生と死は、上に書いたような水と砂粒の現象と似たものではないかと、思います。
小さい死は、肉眼に見えない素粒子のように、生の日常の中に溶け込んでいます。
それは誰に知られることなく孤独死する一人の老いた人であったり、外を歩いた時に思わず踏みつけてしまう一匹の蟻だったり、スーパーでパックにされている一匹の牛であったり、棚に陳列されている一つの卵だったりします。
それは注意すれば目に見える微粒子ですが、普段は目を凝らして生活することもないため見えにくい微粒子のような存在にも似ています。それは物理的な大きさではなく、心理的な大きさであり、心理的な素粒子です。
よしもとばななさんの「スウィート・ヒアアフター」では、魂(まぶい)を落としてから幽霊が見えるようになる一人の女性の主人公がいます。
それは、日常レベルよりもさらに細かい微粒子や素粒子のような世界が見えはじめた人を指しているのかもしれません。
コップの水の中に溶け込んでいるとてもとても細かい砂粒は、肉眼では見えないけれど常にそこにあるものです。
常に水に溶け込んでいるように、死は常に生の中に溶け込んでいる。混じり合っています。
見ようとすれば誰にでも見えるレベルの死であったり、ほとんどの人が見えないほど細かいレベルの死であったり。
死とは、生きている人がどの程度「生きること」にコミットし、どの程度の解像度でこの日常を生きているか、という問題と裏腹なのかもしれません。
それは、いいとか悪いとかの問題ではなく、単にそういうことです。
・・・・
コップの水の例えは、そこに汚染水がはいってきたらどうなるのか?こぼれた場合は?穴が空いたら?加熱されて沸騰したら?・・・いろんなパターンが夢想できます。
それはそれとして。
幽霊が見える、という人を見かけると、その発言や現象そのものにひきづられがちです。
ただ、それは生や死に対する解像度の差に過ぎなくて、そこにとらわれてはいけません。
解像度とは、その対象を細かく見るか大ざっぱに見るかの問題に過ぎません。見ようとしている対象の本質はまるで変わりません。
そんな表面的な二元論(あるかないか、見えるか見えないか・・)よりも、生の中に常に溶け込んでいる死というものに、生と死とを分離せず一体化したものとして思いを馳せることができるかどうかが大事なのではと思います。
それは、この限りある生に感謝の念を感じることや、この世界を去ったひとたちの分だけ正直に誠実に精一杯生きる、そういうことを引き継ぎ、引き受ける。そういうことにこそ本質はありそうです。
そのことに気づける人は、何も見えなくて構いませんし、見えるか見えないかは、あるかないかと同じで、無限に続く二元論の深海です。そこに吸い込まれてはいけません。そこには無限ループの穴の穴しかありません。
■
ばななさんの作品を読んで、ふとそういうことを思いました。
表面のものや目に見えるものに惑わされてはいけないのでしょう。その奥にあるもの。
テレビやインターネットや・・・、表面的なもので人を誘導して惑わそうとしているものが溢れていますが、ばななさんの本はそういう本ではありません。
そうではなくて、その現象が何を伝えようとしているのか、何を意味しているのか。
自分なりに丁寧に観察して丁寧に考え続けていく必要があるんだと思います。それが死の中の生を、生き続けていくことにつながります。
村上春樹さんの1Q84 book1の冒頭のシーンが頭をよぎりました。
『見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。』
ばななさんが書いているのは人間の魂の世界、沖縄ではそれをまぶいと呼び、英語ではSpirit(スピリット)やSoul(ソウル)と呼ぶものです。霊もスピリチュアルもそうですが、名前は僕らが認識しやすくするためにつける一時的な記号にすぎません。偏見に惑わされてはいけません。
そういう魂(まぶい)の世界は普段は目に見えません。人によっては存在すら否定します。
ただ、手綱の切れた感情的だけの一方的な否定は、単にその人の強いコンプレックスを露出させているだけのようにも思えます。
そうではなく、そのことが象徴している事柄を理性で考えてみると、微粒子のように素粒子のように、この世界に渾然一体として溶け込んでいる細かすぎる小さすぎる世界を意味しているのではないかと、思います。
人間の体は原子や分子で構成されていますが、それを普段の生活で実感することはありません。自分に実感がないからという理由だけで、そんなミクロの世界を否定してもしょうがないと思います。
アリの巣や蜂の巣がひとつのコロニーを形成し、ひとつの社会を形成しているようように、大きいものには大きいものなりの、小さいものには小さいものなりの世界が広がっているはずです。
衝撃的なことが起きると、その微粒子の世界が肌の細胞一つ一つに食い込むように体験することがあるのでしょう。
なぜなら、常にそこにあるものだから。
ただ、それを体験するには、日常を破壊するような強い衝撃であることが必要です。
コップの表面にある穏やかな水面を、深いコップの底まで一気に撹拌するような衝撃的な出来事です。
そのとき、そんな世界がぴったり張り付いていたようにも、同時に存在していたようにも感じるものです。
大事なのは、冷静に現実を観察すること、自分が感じたことを否定せず受け入れること、くらいなのかもしれません。
■■■
東日本大震災で亡くなられた方に心よりお悔やみ申し上げます。
2012年という年になり、この日本もこの世界もいい方向に向かえるように、自分も背伸びせずに、できる範囲でコツコツと日々を過ごしていきたいです。
ふと人類の歴史を、ヒトの歴史を見返します。
原始的な生命体から変化して哺乳類は類人猿を生み出し、ヒトという巨大な脳を持つ存在が生まれます。
ヒトは動物を食べる狩猟時代を経て、農耕や牧畜がはじまります。
そしてヒトは集まり、仲間や集団をつくり、都市をつくり国家をつくる。
ある種の国家は奴隷制をつくり、植民地主義をつくる。
欲望と執着心に憑かれた一部の人は戦いと殺し合いに明け暮れます。時には宗教や信仰の力を悪用したりもします。
そこに対抗するかのように科学が生まれ、科学技術が生まれます。
ただ、その使い手であるヒト自体があまりかわることもなく、一部のヒトは我欲のみにとりつかれます。
科学を悪用し、科学技術を悪用し、あらゆる善なるものをも悪用する。
それは戦争という正当化された殺人にも悪用され、ヒトが育んできた宗教や信仰や文化や歴史や芸術や・・・あらゆるものも踏みにじる。「お金」という悪夢の中で夢遊病のように。混乱して荒れた精神状況が続きます。
原子爆弾も、原子核と言うミクロの世界の中に莫大なエネルギーが隠れていることに人類が気づき、その叡智を悪用したものです。
原子力エネルギーも、原子核のエネルギーを利用しようとしたという点で発想の源は似ていました。ただ、それを使う人類の精神や智慧のレベルが追いついていないため、それは自分で自分の首を絞めるような行為となっています。東日本大震災でも、そのことが白日の下にさらされました。
ただ、着実に地道に誠実に生きるヒトたちも同時に存在し続けています。
文化や芸術を愛し、祖先を愛し、他者を思いやり、親切を信条とし、我欲を捨てて生きる。
それは表面的には歴史や伝統や道徳や祖先や死者を大切にするという形で表れます。
その愛や慈悲の心は、ヒトだけではなく、万物へと巡ります。
生きとし生きるもの、存在し存在するすべてのものへと、無償の愛と慈悲とをはせながら、日々の生活を大切にして生きること。
・・・・・・・・
「かなしみ」が、大きく表面に表れ出た2011年でした。
ただ、人間の体が自然治癒力を持つように、生きとし生きるものは生きている限り、元々あったはずの均衡へとと戻ろうとする治癒行為が働くはずです。その巨大な営みに、きっとひとりひとりが組み込まれています。
歪みやかなしみや喪失は、原点を思い返させてくれるいい機会となり、遠い未来から遠い過去として見返したとき、ひとつの転換点となりえます。
今日は元旦。
365日という暦の中で、2012年という新しい年になります。
夜が来れば、どんな日でも必ず朝が来ます。太陽が昇る限り、必ず朝が来る。
そうした宇宙的なリズムが自分と不可分なものであることを感じるとき、毎日必ず光が生まれていて、毎日必ず朝が来ていて、毎日必ず目覚めが訪れていることに気付きます。
・・・・・・・
ばななさんの「スウィート・ヒアアフター」の感想とかなり離れた気もするけれど、元旦にこの本を読んで自分なりにこういうことを思いました。つい長々と書いてしまいました。すごくいい本です。是非買って読んでほしいです。
2012年は新しい年。今日は新しい日。今も新しい今。
知っている人も知らない人も、話したことがある人も話したことがない人も、みなさま、今年もよろしくお願い申し上げます。
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よしもとばなな「スウィート・ヒアアフター」より
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『「俗世でもっと修行してきなさい。お前の彼氏はすっと行っちゃったから、会えなかったことはしかたない、すっぱりしろ。生きてるだけでいいから生きろ。役に立つことなんてしなくていい、お父さんとお母さんを大事にな。」』
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『あの頃の私は、生と死がこんなにすぐとなりに、同じ空間の紙一重のところにあるなんて思ってもいなかった。』
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『みんな悲しいほどいろんなことを背負って生きている。
鈍くてあまり背負っていない人を見ると一目でわかる。彼らは不思議とロボットみたいに見える。
背負ったことのある人だけが色がついていて細かく美しく動く。』
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『やっと心が体に追いついたとき、私は気づいた。
そうか、体ががんばってくれたのか、だから休めたんだ。なんてことだ、体よごめん、悪く言って、雑に扱ってごめん、やはり私は生きているんだ、このすごい仕組みのおかげで。』
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『毎日ちょっとずつ、気付かない程度に思いやり合っているだけでも、しっかりと信頼のお城ができること。若すぎて勢いがありすぎたころには、そんな淡い人間関係には気付かなかった。』
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『そうだ、交換しているんだ、お互いに。
私はこの世界にこんなに影響を与えている。そのことを知らなかった。
世界は私が輝くと輝きをきっちり同じ分量で返してくれる。ときにはすばやく、ときにはゆっくりと、波みたいに、こだまみたいに。』
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『誰かの心が自由だということは、他の人をも自由にするんだ、でもそれにはとてつもない無頓着さと強さが必要なのだ。』
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『幽霊がいるかいないか、見えるか見えないか、生きているか死んでいるか、それはどうでもいいことだった。錯覚のようなものだった。ここにはどうせ全部があるのだ。人間が勝手に切り取っているのだ。
一回はずしてしまえば、みんなあるのだ。ぷちぷちと水を含んだ苔も。そこにうごめく微生物も、太陽の光のめぐみを同じように受けているのと全然変わらない。
こうあってほしいなという期待さえなかったら、みんな等しく愛おしい同胞なのだった。』
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<内容紹介>(Amazonより)
命の輝きが、残酷で平等な世界の中で光を増していく――。
今、生きていること。その畏れと歓びを描き切った渾身の書き下ろし長編小説!
「とてもとてもわかりにくいとは思いますが、この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです。」――よしもとばなな
ある日、小夜子を襲った自動車事故。
同乗していた恋人は亡くなり、自身はお腹に鉄の棒が刺さりながらも死の淵から生還するが、それを機に小夜子には、なぜか人には視えないものたちが見えるようになってしまった。
行きつけのバーに行くと、いつもカウンターの端にいる髪の長い女性に気付いたり、取り壊し寸前のアパート「かなやま荘」の前を通ると、二階の角部屋でにこにこと楽しそうにしている小柄な女性がいたり……。
その「かなやま荘」の前で出会った一人の青年・アタルと言葉を交わすうちに、小夜子の中で止まっていた時間がゆっくりと動き始める。
事故で喪ってしまった最愛の人。元通りにならない傷を残した頭と体。そして、戻ってこない自分の魂。
それでも、小夜子は生き続ける。命の輝きが、残酷で平等な世界の中で光を増していく。
今、生きていること。その畏れと歓びを描き切った渾身の書き下ろし。
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この本のあとがきに、震災への鎮魂の書でもある旨が、ばななさん自身によって書かれています。
亡くなった人はこの世にはいない。ただ、亡くなっていない人(=生きている人)はこの世にいる。そこには絶対的なアンバランスがあり、絶対的な不平等があります。
その不均衡は何らかのゆがみとなって現れ、生きている人のバランス感覚を少し失わせます。
そんなとき、生と死とはこの世界で入り混じります。
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コップの水の中に砂が混ざっている状態をイメージしてみます。
そのコップには水と、分離して沈殿した砂があります。
肉眼で見える砂の粒子は下に沈殿していますが、肉眼で見えないほどの微粒子状の砂粒は水とまじりあっています。あまりに細かい微粒子なのでよく見えないだけです。入り混じっています。
この世界には重力があります。水中では浮力もあります。
水は上に、砂粒の粒子は下に、分離しています。
動きがない間は、水と砂粒とは分離したままです。
そのコップを横から見ると、水と砂粒は分離しているのがわかりますが、普段何気なく水の表面で暮らしている間は、そんなことを考えもしません。なぜなら、水の表面は常に穏やかで、それはまるで永遠のよう。奥底を見る必要はありません。
ただ、水の表面に強い風が吹き、大きく水が揺れると、奥底に沈殿している砂粒は撹拌し、水と砂粒とは濁ります。混沌が生まれます。
・・・・
また長い時間がたつと、細かすぎて目に見えない微粒子の砂粒は水の中に溶け込み、一体化する。見えなくなる。
また長い時間がたつと、目に見える大きい砂粒は水の底へと沈殿する。分離する。分離して目に見えるようになります。
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生と死は、上に書いたような水と砂粒の現象と似たものではないかと、思います。
小さい死は、肉眼に見えない素粒子のように、生の日常の中に溶け込んでいます。
それは誰に知られることなく孤独死する一人の老いた人であったり、外を歩いた時に思わず踏みつけてしまう一匹の蟻だったり、スーパーでパックにされている一匹の牛であったり、棚に陳列されている一つの卵だったりします。
それは注意すれば目に見える微粒子ですが、普段は目を凝らして生活することもないため見えにくい微粒子のような存在にも似ています。それは物理的な大きさではなく、心理的な大きさであり、心理的な素粒子です。
よしもとばななさんの「スウィート・ヒアアフター」では、魂(まぶい)を落としてから幽霊が見えるようになる一人の女性の主人公がいます。
それは、日常レベルよりもさらに細かい微粒子や素粒子のような世界が見えはじめた人を指しているのかもしれません。
コップの水の中に溶け込んでいるとてもとても細かい砂粒は、肉眼では見えないけれど常にそこにあるものです。
常に水に溶け込んでいるように、死は常に生の中に溶け込んでいる。混じり合っています。
見ようとすれば誰にでも見えるレベルの死であったり、ほとんどの人が見えないほど細かいレベルの死であったり。
死とは、生きている人がどの程度「生きること」にコミットし、どの程度の解像度でこの日常を生きているか、という問題と裏腹なのかもしれません。
それは、いいとか悪いとかの問題ではなく、単にそういうことです。
・・・・
コップの水の例えは、そこに汚染水がはいってきたらどうなるのか?こぼれた場合は?穴が空いたら?加熱されて沸騰したら?・・・いろんなパターンが夢想できます。
それはそれとして。
幽霊が見える、という人を見かけると、その発言や現象そのものにひきづられがちです。
ただ、それは生や死に対する解像度の差に過ぎなくて、そこにとらわれてはいけません。
解像度とは、その対象を細かく見るか大ざっぱに見るかの問題に過ぎません。見ようとしている対象の本質はまるで変わりません。
そんな表面的な二元論(あるかないか、見えるか見えないか・・)よりも、生の中に常に溶け込んでいる死というものに、生と死とを分離せず一体化したものとして思いを馳せることができるかどうかが大事なのではと思います。
それは、この限りある生に感謝の念を感じることや、この世界を去ったひとたちの分だけ正直に誠実に精一杯生きる、そういうことを引き継ぎ、引き受ける。そういうことにこそ本質はありそうです。
そのことに気づける人は、何も見えなくて構いませんし、見えるか見えないかは、あるかないかと同じで、無限に続く二元論の深海です。そこに吸い込まれてはいけません。そこには無限ループの穴の穴しかありません。
■
ばななさんの作品を読んで、ふとそういうことを思いました。
表面のものや目に見えるものに惑わされてはいけないのでしょう。その奥にあるもの。
テレビやインターネットや・・・、表面的なもので人を誘導して惑わそうとしているものが溢れていますが、ばななさんの本はそういう本ではありません。
そうではなくて、その現象が何を伝えようとしているのか、何を意味しているのか。
自分なりに丁寧に観察して丁寧に考え続けていく必要があるんだと思います。それが死の中の生を、生き続けていくことにつながります。
村上春樹さんの1Q84 book1の冒頭のシーンが頭をよぎりました。
『見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。』
ばななさんが書いているのは人間の魂の世界、沖縄ではそれをまぶいと呼び、英語ではSpirit(スピリット)やSoul(ソウル)と呼ぶものです。霊もスピリチュアルもそうですが、名前は僕らが認識しやすくするためにつける一時的な記号にすぎません。偏見に惑わされてはいけません。
そういう魂(まぶい)の世界は普段は目に見えません。人によっては存在すら否定します。
ただ、手綱の切れた感情的だけの一方的な否定は、単にその人の強いコンプレックスを露出させているだけのようにも思えます。
そうではなく、そのことが象徴している事柄を理性で考えてみると、微粒子のように素粒子のように、この世界に渾然一体として溶け込んでいる細かすぎる小さすぎる世界を意味しているのではないかと、思います。
人間の体は原子や分子で構成されていますが、それを普段の生活で実感することはありません。自分に実感がないからという理由だけで、そんなミクロの世界を否定してもしょうがないと思います。
アリの巣や蜂の巣がひとつのコロニーを形成し、ひとつの社会を形成しているようように、大きいものには大きいものなりの、小さいものには小さいものなりの世界が広がっているはずです。
衝撃的なことが起きると、その微粒子の世界が肌の細胞一つ一つに食い込むように体験することがあるのでしょう。
なぜなら、常にそこにあるものだから。
ただ、それを体験するには、日常を破壊するような強い衝撃であることが必要です。
コップの表面にある穏やかな水面を、深いコップの底まで一気に撹拌するような衝撃的な出来事です。
そのとき、そんな世界がぴったり張り付いていたようにも、同時に存在していたようにも感じるものです。
大事なのは、冷静に現実を観察すること、自分が感じたことを否定せず受け入れること、くらいなのかもしれません。
■■■
東日本大震災で亡くなられた方に心よりお悔やみ申し上げます。
2012年という年になり、この日本もこの世界もいい方向に向かえるように、自分も背伸びせずに、できる範囲でコツコツと日々を過ごしていきたいです。
ふと人類の歴史を、ヒトの歴史を見返します。
原始的な生命体から変化して哺乳類は類人猿を生み出し、ヒトという巨大な脳を持つ存在が生まれます。
ヒトは動物を食べる狩猟時代を経て、農耕や牧畜がはじまります。
そしてヒトは集まり、仲間や集団をつくり、都市をつくり国家をつくる。
ある種の国家は奴隷制をつくり、植民地主義をつくる。
欲望と執着心に憑かれた一部の人は戦いと殺し合いに明け暮れます。時には宗教や信仰の力を悪用したりもします。
そこに対抗するかのように科学が生まれ、科学技術が生まれます。
ただ、その使い手であるヒト自体があまりかわることもなく、一部のヒトは我欲のみにとりつかれます。
科学を悪用し、科学技術を悪用し、あらゆる善なるものをも悪用する。
それは戦争という正当化された殺人にも悪用され、ヒトが育んできた宗教や信仰や文化や歴史や芸術や・・・あらゆるものも踏みにじる。「お金」という悪夢の中で夢遊病のように。混乱して荒れた精神状況が続きます。
原子爆弾も、原子核と言うミクロの世界の中に莫大なエネルギーが隠れていることに人類が気づき、その叡智を悪用したものです。
原子力エネルギーも、原子核のエネルギーを利用しようとしたという点で発想の源は似ていました。ただ、それを使う人類の精神や智慧のレベルが追いついていないため、それは自分で自分の首を絞めるような行為となっています。東日本大震災でも、そのことが白日の下にさらされました。
ただ、着実に地道に誠実に生きるヒトたちも同時に存在し続けています。
文化や芸術を愛し、祖先を愛し、他者を思いやり、親切を信条とし、我欲を捨てて生きる。
それは表面的には歴史や伝統や道徳や祖先や死者を大切にするという形で表れます。
その愛や慈悲の心は、ヒトだけではなく、万物へと巡ります。
生きとし生きるもの、存在し存在するすべてのものへと、無償の愛と慈悲とをはせながら、日々の生活を大切にして生きること。
・・・・・・・・
「かなしみ」が、大きく表面に表れ出た2011年でした。
ただ、人間の体が自然治癒力を持つように、生きとし生きるものは生きている限り、元々あったはずの均衡へとと戻ろうとする治癒行為が働くはずです。その巨大な営みに、きっとひとりひとりが組み込まれています。
歪みやかなしみや喪失は、原点を思い返させてくれるいい機会となり、遠い未来から遠い過去として見返したとき、ひとつの転換点となりえます。
今日は元旦。
365日という暦の中で、2012年という新しい年になります。
夜が来れば、どんな日でも必ず朝が来ます。太陽が昇る限り、必ず朝が来る。
そうした宇宙的なリズムが自分と不可分なものであることを感じるとき、毎日必ず光が生まれていて、毎日必ず朝が来ていて、毎日必ず目覚めが訪れていることに気付きます。
・・・・・・・
ばななさんの「スウィート・ヒアアフター」の感想とかなり離れた気もするけれど、元旦にこの本を読んで自分なりにこういうことを思いました。つい長々と書いてしまいました。すごくいい本です。是非買って読んでほしいです。
2012年は新しい年。今日は新しい日。今も新しい今。
知っている人も知らない人も、話したことがある人も話したことがない人も、みなさま、今年もよろしくお願い申し上げます。
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よしもとばなな「スウィート・ヒアアフター」より
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『「俗世でもっと修行してきなさい。お前の彼氏はすっと行っちゃったから、会えなかったことはしかたない、すっぱりしろ。生きてるだけでいいから生きろ。役に立つことなんてしなくていい、お父さんとお母さんを大事にな。」』
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『あの頃の私は、生と死がこんなにすぐとなりに、同じ空間の紙一重のところにあるなんて思ってもいなかった。』
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『みんな悲しいほどいろんなことを背負って生きている。
鈍くてあまり背負っていない人を見ると一目でわかる。彼らは不思議とロボットみたいに見える。
背負ったことのある人だけが色がついていて細かく美しく動く。』
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『やっと心が体に追いついたとき、私は気づいた。
そうか、体ががんばってくれたのか、だから休めたんだ。なんてことだ、体よごめん、悪く言って、雑に扱ってごめん、やはり私は生きているんだ、このすごい仕組みのおかげで。』
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『毎日ちょっとずつ、気付かない程度に思いやり合っているだけでも、しっかりと信頼のお城ができること。若すぎて勢いがありすぎたころには、そんな淡い人間関係には気付かなかった。』
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『そうだ、交換しているんだ、お互いに。
私はこの世界にこんなに影響を与えている。そのことを知らなかった。
世界は私が輝くと輝きをきっちり同じ分量で返してくれる。ときにはすばやく、ときにはゆっくりと、波みたいに、こだまみたいに。』
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『誰かの心が自由だということは、他の人をも自由にするんだ、でもそれにはとてつもない無頓着さと強さが必要なのだ。』
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『幽霊がいるかいないか、見えるか見えないか、生きているか死んでいるか、それはどうでもいいことだった。錯覚のようなものだった。ここにはどうせ全部があるのだ。人間が勝手に切り取っているのだ。
一回はずしてしまえば、みんなあるのだ。ぷちぷちと水を含んだ苔も。そこにうごめく微生物も、太陽の光のめぐみを同じように受けているのと全然変わらない。
こうあってほしいなという期待さえなかったら、みんな等しく愛おしい同胞なのだった。』
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お体に気をつけて、素晴らしい一年になりますように。
どさんこより
おひさしぶりです。コメント書いていただいたこと、もちろん覚えておりますよ。
このブログ自体、たぶんいろんなこと書いているからいろんなとこが検索でひっかかるんだと思うんですが、知り合いにはあまり教えてないんですよね。親しい人にしか教えてません。だから、コメントをいただけるのはうれしいものです。思いのままに書きまくっていますが、(どんなに長くても)ひとりくらいは読んでいるだろう、と思いつつ書いてますし。笑
読んでいただけるだけで光栄ですが(なにせ、貴重な時間をとらせてしまうわけですし!)、そういう風に好意的に読んでいただけるととてもうれしいです。
紹介した本も、それなりに厳選して推薦しているつもりです(それこそ河合先生や春樹さんの本なんて、すべて感想を書かなければいかなくなりますし)。というよりも、いい本を読んだ後には何か熱を帯びますよね?向こうの情熱がこちらの熱へと移動してくるというか。その熱を大気中に発散させてしまうのがもったいないので、その受けた熱の作用反作用のような勢いで、いつも一気に本の感想を書いているんですよね。今回のばななさんの本もそうですし、河合先生のも、全く書く必然性もないのに、あまりに河合先生を尊敬しすぎて、その尊敬の思いが熱エネルギーに変換されて、それが運動エネルギーになって、PCをたたきまくっている気がします。ほんとうは、来週の発表の準備とか、いろいろせっつかれているのが山盛りで、そのためにも職場に来ているはずなんですが。。笑 自分は広い意味でのエネルギー保存の法則と呼んでいますが、そうした熱が読んだ方にも伝わるかと思うと、うれしく思います。いつもありがとうございます。
今年もよろしくお願いします!