映画「風立ちぬ」を見ました。
どこで泣いたのか、さっぱり思い出せませんが、4度ほど泣きました。
泣いたというか、涙が勝手に落ちてきたというか。
宮崎駿監督だけあって、流石というか。なんとも一言で感想を言いにくい。重厚な作りになっていたと思った。その不定形な深さにまとまりを与えるために確かなアニメーション技術がある。
事実を点として、それを線としてつなげば分かりやすい物語になるが、事実を面として、しかもその面を重ね合わせた形で表現すると、その物語は重層的になる。ミルフィーユのような層状のものをコトバで簡単に記載することは難しい。どうしても色んなものが零れおちる。
「戦争」というものが、一陣の風のように吹き抜けて行く出来ごとのようだった。
「死」というものも、風のようにピュウっと吹き抜けて行くもののような。
風。
風が吹き抜けるたびに、それはそういう知らせなのかもしれない。何かが変化したという知らせ。
山浦玄嗣さんによれば、ヘブライ語では≪ことば≫も≪できごと≫も、ダーヴァールといって区別がないらしく。
≪できごと≫(ダーヴァール)はすべて神さまの≪ことば≫(ダーヴァール)らしく。風も同じようなコトバ。
→山浦玄嗣「イエスの言葉 ケセン語訳」(2013-08-07)
風。
ナウシカしかり、やはり大きなテーマなのだと思う。
自分も、今の住居を選ぶ決め手になったのは風だった。
初めて部屋に入り、窓を開けた時、一陣の風がびゅうっと吹いた。
その風の流れを感じて、部屋を即決したのだった。
今でも、生活の中で自分の部屋を駆け抜けて貫通する風が気に行っている。
■
時代の変化、というのは確かに風の変化のようなもので。
風向きというのは、確かに変わる。
分かる人にはその瞬間分かるもので。
分からない人にも、後から思い返せば思い出せるもので。
2012年は大きな意識変化が起きた、と言われているけれど、それも、おそらく時代の「風向き」が変わったようなものかもしれない。
風を読み、風向きが変わるのを感知するのは大事だと思う。
風という自然のコトバ、カミサマのコトバを読みとれないと、それは自然を敵に回すようなもので。
風に乗る事は、単に流行りに流される事とは違うと、思う。
自然のコトバ(声、音、肌ざわり・・・)に耳を澄ます、ということだと思う。
■
映画を見て、<人間が生きている>という事実は、それだけで色んなものをすでに内蔵しているんだな、と思った。
だから、<生きる>宿命を僕らは背負っている。
宿命を背負っているから<生きる>、という順番なのかな。
命が宿っている。
良くも悪くも、先人たちの形にならない色んな思いが現実化した世界を生きているわけで・・・。
科学技術で作られた世界も、戦争がない世界も(少なくとも現在の日本では)、いろんな人たちが思い、望み、祈ったものであって。
あの映画の主人公のように、熱中するものはなんだろう、とふと思い返した。
時代の変化なんてものは、死なんてものは、それこそ一陣の風のように吹いていくようなものだろう。そこに感情はなくて。ただ動きとエネルギーだけがある。
映画のように、過去の歴史が証明しているように、僕らが願って祈ったものは、いづれ時を越えて現実化していくんだと思う。
何らかの形で、必ず現実化している。
飛行機も、人類の流れの中で、いづれ現実化するのは必然の出来ごとだった。それはゼロ戦しかり。
ただ、戦争という時代の風が吹いている時、それは風に巻き込まれ、戦争に使われるのも必然だった。
科学技術も、戦争に使われてしまう。道具はそういう宿命があるようだ。
でも、「戦争」という大きな風を作り出したのも、人類ひとりひとりの小さい思いの総和なのかもしれない。膨大な足し算と引き算をしたら、結局そういう解答がはじきだされてしまった。その時代を生きている全員に、程度の差こそあれ砂粒から巨石くらいの大きさまで、幅のある責任があるようで。
どういう時代を作りたいかは、人間それぞれに、ミクロからマクロまで程度の差はあれ、責任があり、火種があるんだろうな、と思った。
火種は静かにくすぶっている。
■
ゼロ戦、戦争、愛、死、震災、、、、、
こういうテーマを扱う、ということ自体が本当にすごいと思った。
心の中で何億回もの葛藤があっただろう。
あえて難しく扱いにくいテーマに挑むチャレンジ精神。
自分をパターン化させたくないという未知の自分への飽くなき探求。
ただ、常識やパターンというのは、常に誰かが挑んで打ち壊し続けていけないものだ。
いやはや、なんとも深い映画でした・・・。
終わり方も、個人的に好きでした。
・・・・・・・・・
どこで泣いたのか、さっぱり思い出せませんでしたが、書いていて1つは思いだしました。
最後にユーミンの「ひこうき雲」が流れている間、また自分から涙が落下していたようなのは、うっすら覚えています。
こうして、映画を見た人が色んな過去や死を鎮魂しているんだろうな。映画を見る行為も、鎮魂の共同作業なのだろうと思いながら観た。
生きている人は、生きていく使命を与えられているからこそ、生きているんだろう。
○ひこうき雲 松任谷由実 1996年8月 at 中野サンプラザ
○荒井由実 - ひこうき雲 MUSIC CLIP
○ひこうき雲 (荒井由実) 「セブンスターショー」1976年3月14日
○ひこうき雲 荒井由実+aiko
ひこうき雲
作詞:荒井由実 作曲:荒井由実
白い坂道が空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は昇ってゆく
何もおそれない、そして舞い上がる
空に憧れて
空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲
高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人には わからない
あまりにも若すぎたと ただ思うだけ
けれど しあわせ
空に憧れて
空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲
空に憧れて
空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲
どこで泣いたのか、さっぱり思い出せませんが、4度ほど泣きました。
泣いたというか、涙が勝手に落ちてきたというか。
宮崎駿監督だけあって、流石というか。なんとも一言で感想を言いにくい。重厚な作りになっていたと思った。その不定形な深さにまとまりを与えるために確かなアニメーション技術がある。
事実を点として、それを線としてつなげば分かりやすい物語になるが、事実を面として、しかもその面を重ね合わせた形で表現すると、その物語は重層的になる。ミルフィーユのような層状のものをコトバで簡単に記載することは難しい。どうしても色んなものが零れおちる。
「戦争」というものが、一陣の風のように吹き抜けて行く出来ごとのようだった。
「死」というものも、風のようにピュウっと吹き抜けて行くもののような。
風。
風が吹き抜けるたびに、それはそういう知らせなのかもしれない。何かが変化したという知らせ。
山浦玄嗣さんによれば、ヘブライ語では≪ことば≫も≪できごと≫も、ダーヴァールといって区別がないらしく。
≪できごと≫(ダーヴァール)はすべて神さまの≪ことば≫(ダーヴァール)らしく。風も同じようなコトバ。
→山浦玄嗣「イエスの言葉 ケセン語訳」(2013-08-07)
風。
ナウシカしかり、やはり大きなテーマなのだと思う。
自分も、今の住居を選ぶ決め手になったのは風だった。
初めて部屋に入り、窓を開けた時、一陣の風がびゅうっと吹いた。
その風の流れを感じて、部屋を即決したのだった。
今でも、生活の中で自分の部屋を駆け抜けて貫通する風が気に行っている。
■
時代の変化、というのは確かに風の変化のようなもので。
風向きというのは、確かに変わる。
分かる人にはその瞬間分かるもので。
分からない人にも、後から思い返せば思い出せるもので。
2012年は大きな意識変化が起きた、と言われているけれど、それも、おそらく時代の「風向き」が変わったようなものかもしれない。
風を読み、風向きが変わるのを感知するのは大事だと思う。
風という自然のコトバ、カミサマのコトバを読みとれないと、それは自然を敵に回すようなもので。
風に乗る事は、単に流行りに流される事とは違うと、思う。
自然のコトバ(声、音、肌ざわり・・・)に耳を澄ます、ということだと思う。
■
映画を見て、<人間が生きている>という事実は、それだけで色んなものをすでに内蔵しているんだな、と思った。
だから、<生きる>宿命を僕らは背負っている。
宿命を背負っているから<生きる>、という順番なのかな。
命が宿っている。
良くも悪くも、先人たちの形にならない色んな思いが現実化した世界を生きているわけで・・・。
科学技術で作られた世界も、戦争がない世界も(少なくとも現在の日本では)、いろんな人たちが思い、望み、祈ったものであって。
あの映画の主人公のように、熱中するものはなんだろう、とふと思い返した。
時代の変化なんてものは、死なんてものは、それこそ一陣の風のように吹いていくようなものだろう。そこに感情はなくて。ただ動きとエネルギーだけがある。
映画のように、過去の歴史が証明しているように、僕らが願って祈ったものは、いづれ時を越えて現実化していくんだと思う。
何らかの形で、必ず現実化している。
飛行機も、人類の流れの中で、いづれ現実化するのは必然の出来ごとだった。それはゼロ戦しかり。
ただ、戦争という時代の風が吹いている時、それは風に巻き込まれ、戦争に使われるのも必然だった。
科学技術も、戦争に使われてしまう。道具はそういう宿命があるようだ。
でも、「戦争」という大きな風を作り出したのも、人類ひとりひとりの小さい思いの総和なのかもしれない。膨大な足し算と引き算をしたら、結局そういう解答がはじきだされてしまった。その時代を生きている全員に、程度の差こそあれ砂粒から巨石くらいの大きさまで、幅のある責任があるようで。
どういう時代を作りたいかは、人間それぞれに、ミクロからマクロまで程度の差はあれ、責任があり、火種があるんだろうな、と思った。
火種は静かにくすぶっている。
■
ゼロ戦、戦争、愛、死、震災、、、、、
こういうテーマを扱う、ということ自体が本当にすごいと思った。
心の中で何億回もの葛藤があっただろう。
あえて難しく扱いにくいテーマに挑むチャレンジ精神。
自分をパターン化させたくないという未知の自分への飽くなき探求。
ただ、常識やパターンというのは、常に誰かが挑んで打ち壊し続けていけないものだ。
いやはや、なんとも深い映画でした・・・。
終わり方も、個人的に好きでした。
・・・・・・・・・
どこで泣いたのか、さっぱり思い出せませんでしたが、書いていて1つは思いだしました。
最後にユーミンの「ひこうき雲」が流れている間、また自分から涙が落下していたようなのは、うっすら覚えています。
こうして、映画を見た人が色んな過去や死を鎮魂しているんだろうな。映画を見る行為も、鎮魂の共同作業なのだろうと思いながら観た。
生きている人は、生きていく使命を与えられているからこそ、生きているんだろう。
○ひこうき雲 松任谷由実 1996年8月 at 中野サンプラザ
○荒井由実 - ひこうき雲 MUSIC CLIP
○ひこうき雲 (荒井由実) 「セブンスターショー」1976年3月14日
○ひこうき雲 荒井由実+aiko
ひこうき雲
作詞:荒井由実 作曲:荒井由実
白い坂道が空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は昇ってゆく
何もおそれない、そして舞い上がる
空に憧れて
空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲
高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人には わからない
あまりにも若すぎたと ただ思うだけ
けれど しあわせ
空に憧れて
空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲
空に憧れて
空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲
あの映画は、本当に何度も何度もあじわう映画ですよね。関東大震災の映像を見ると、いつ東京にきてもおかしくないな、と、日々の生活を振り返り、気合が入ります。
よかったです。
なんかあとでボディブローのように効いてきそうで・・・
早速 「風立ちぬ」堀 辰雄 仕入れました。
それは偶然ですねー。
見なければ!とふと思ったんですよね。
宮崎駿と言う人が現在どういう表現をしているのか、やはり気になってしょうがないですし。
あらためて映画はいいなーと思いました。DVDで見よう、と思ってると、たいてい見ないものですし。笑
値段は高いですけどねぇ。
2時間あっという間でしたね。なんとなく先が読めない感じが、さすがだなぁと思いました。
大抵の物語は、そろそろクライマックスかなぁとか無意識に感じながら見てしまいますし。その辺もさすが。
いろいろ精神分析的な解釈を施すこともできるのかもしれませんが、重厚な作りにおもわずうなりました。
>>スーさん
ユーミンの「ひこうき雲」誕生秘話に関しては、自分もそういう話を聞いた気がします。
ああいう表現方法に抑制しているのが、若きユーミンらしいですよね。歌手であり表現者であり芸術家。宮崎駿監督が呼応してしまうのもよく分かります。魔女の宅急便も、ユーミンの曲が使われてなかったら、また別の世界観になってたかもな、とよく思いますし。
風立ちぬ、すごくよかったです。
あらためて、宮崎駿というトップランナーのすごさを感じました。どんな世代のどんな人にも、どんな色メガネつけてる人にも受けいれれるような作りかと。是非ご覧くださいませ。
ユーミンが中学か高校のときに同級生が自殺をしたのです。たぶん中学です。
そういうのをテーマにしてはいけないと思いつつも書いてしまった曲です。
「風立ちぬ」 行きます。
たまたま風の強い日で帽子を何度もとばされそうになりながら映画館にたどり着きました(笑)
2時間がすごく短く感じました。
きっとひきこまれていたんだと想います