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アニメ版「風の谷のナウシカ」を見たら、マンガ版「風の谷のナウシカ」を見たくなった。
仕事から疲れ果てて帰ったとき、偶然にテレビでアニメ版「風の谷のナウシカ」をやっていた。
アニメ版「風の谷のナウシカ」を観るのは、10年ぶりくらいな気がした。
なんとなく見ていたら、えらく深く感動した。終わった後、呆然。
■名作
10年前アニメを見たときも、元々は漫画版「風の谷のナウシカ」を先に読んでいた。
漫画好きの間では、常に超名作と称される漫画版「風の谷のナウシカ」。
全7巻で3000円弱という衝撃の価格もさることながら、漫画版全7巻のうち、最初の2巻くらいをアニメはテーマにしていて、当時は物足りなさを感じてしまい、アニメ版のインパクトが少し薄かった。
ただ、アニメ版を、ひとつの作品として素直に見ると、とても素晴らしいひとつの作品であることが分かる。
あらゆるテーマを複雑に錯綜させながら作品として完成させること。その技術に感動。
生命、自然、民族、神話、記憶、文明、人間、虫・・・・・
ということで、漫画版ナウシカ全7巻も読み返してみた。
読み始めるととまらなくなり、朝4時まで読み続け、翌日の仕事が辛かった。
手塚治虫の「火の鳥」もそうだけど、衝撃的で、価値観を揺さぶる作品は、やはり何度も読み込んでいかないといけないことを強く感じる。
一回読んで、「あーあれね、読んだ、読んだ、まあまあだねー」
なんて言い切ってしまうのは、結構危ないもんだと感じる。
もちろん、時間は有限だから、あらゆるものを何度も読み返すのは不可能なんだけど、何か自分に残ったもの、自分の心のどこかに何かトゲのような違和感がささったものは、そのとき分からなくても、時が経ち、自分が変化し、自分の世界に応じて、感じられる世界は伸縮自由に伸び縮みする気がする。
■記憶
ナウシカと王蟲(オーム)との対話で、太い一本の大木がそびえている情景がフラッシュバックされていた。
あの大木は、ナウシカ自身は体験していないし、個人の記憶の中にないはずだけれど、記憶として呼び覚まされていた。その記憶はナウシカの細胞が覚えている過去の記憶の痕跡のようなものなのだろう。
生命体は、染色体があり、本体はDNAという核酸の分子でできている。
染色体は、ヒトも動物も虫も、父と母のDNAが織り込まれて、できる。
クローン技術を使おうが、体外受精をしようが、そうして生命はできている。
そうして、先祖、先祖、先祖・・と果てしない過去へ、自分の染色体やDNAのヒモをたどると、どこまでつながっていけるのだろうか。
今の自分は、数千年前の先祖のわずかな痕跡しか残っていないとは思うけれど、ほぼゼロに近似されるかもしれないけれど、先祖の影響がゼロにはなることは絶対にないのだろう。
染色体をたどると、ヒトの最初、哺乳類の最初、脊椎動物の最初、生命体の最初・・そういうはじまりへと、数億年の時間を越えてたどっていけるのかもしれない.
60兆個の細胞に等しく分配されている染色体やDNAというもの。
そんな実体があるモノの中に、情報が含まれている。
そんな場所に、過去の破片がおさめられている。
ナウシカの見た、大木が高くそびえる自然の風景は、今まさにこの世界にある自然の風景。
遥かな過去と、遥かな未来は、どうやっても分断できない。
必ずつながっていて、連続している。
そのことの凄さのようなものを、ナウシカを見ていて感じる。
未来と過去をつなぐ現在という場所。
この現在という場所がどちらの方向性へ向くか、そのことで未来と過去がどのようにつながるかが決まっていく。
現在は、過去に縛られながらも、自由度が高い。
■光と闇、希望と虚無
アニメ版ナウシカを観て感動したので、漫画版ナウシカを読み直す。
森の人、蟲使い、菌類・・・・アニメ版では出てこない魅力的なストーリーが広がっていて、到底2時間程度で収められない物語が広がっている。
宮崎駿も、10年近くかけて書いた漫画作品だということで、ストーリー自体が、時代と共に微妙に変化しながら書いているような印象を受ける。
アニメ版も漫画版も、単に「自然が大事」のようなストーリーで収まってはいない。
言霊がないお題目には、満足していない。
「自然が大事」なんて言葉は、この世界で何億回も繰り返されている言葉だけれど、何も変わっていない。人間による自然破壊や自然との乖離は進んでいくばかり。
だから、言葉で伝わる浅い層ではなくて、心の深い層に直接訴えてくるように、あらゆる物事を総動員させながら、読み手に迫ってくる。
人間と自然、虫、菌・・・人間を相対化させていく。
そして、ナウシカ自体が、自分の心の深い部分へと入っていき、その場所に読み手を連れて行く。
ナウシカの心に寄せては返す、希望や絶望。
その波のような感情での、矛盾や葛藤。
・・・・・・・・
言葉は、僕らを戸惑わせる矛盾を作り出してしまう。
例えば、「生命尊重」という言葉を抱えながらも、生命(植物や動物)を食べずにはヒトは生きていけないという矛盾。動物を食べないベジタリアンも、生きている植物を食べる。 ヒトは植物のように自分と無機物だけからエネルギーを作り出すことができない。
「絶対的に正しいものはない」と言った瞬間に、それ自体が絶対的に正しいものを主張することになるという矛盾。絶対化を相対化した瞬間にそれが絶対化する矛盾。
正しくないものに対して正しくないと主張したとき、その自分の正しさがどこにあるのか、よくわからなくなってくる葛藤。
ナウシカの苦悩は、そうした葛藤や矛盾にあって、「もうちっぽけな自分が何をやってもしょうがないんじゃないか」という虚無の世界と何度も対峙していく。
その虚無の世界は、一般的には闇や地獄の世界と考えられやすい。
ただ、ナウシカは、絶対的な善に満ちて、光にあふれ、天国のような場所でさえも、その世界が虚無と同じのようなものだと感じていく。
光だけの世界では、光は存在しない。
そこは眩しくて何も見えないし、光だけの虚無の世界だ。
光は、闇の中に差し込むからこそ、光だ。
そして、光と闇を抱え、イマ・ココにある全ての関係性を受け入れ、肯定し、イマ・ココで生きることを、引き受け、生きる。
言葉が作る矛盾に満ちた観念の世界から、現実の外の世界へと足を踏み出す。
そんな風に、言葉が持つパラドックスを駆使しつつ、読書を矛盾に満ちた世界に引きずり込みながらラストへと向かう。
宮崎駿は、単純なユートピアな結論を強く拒み、読み手を何重もの入れ子構造へと落としていく。
光と闇のテーマは、宮崎駿からのメッセージとして
「もし読者のアナタがこの世界に闇を感じるなら、アナタ自身がその中へ差し込む光になればいい。それは、ナウシカのように、光も闇も、すべてを背負うことを決意することだ。」
という風にも、読めてくる。
漫画版ナウシカは、ラストが何度もひっくり返されるので、ラストに納得がいかないという人もいるみたいだけれど、それは、宮崎駿の言葉のパラドックスの罠にかかっているような気がする。
ナウシカは、言葉が生み出す矛盾の間で、絶対的なものを立てることができない宇宙空間のような不安定な場所で、正義、正しいこと、善いこと、生命・・・その言葉が生み出すいろんな矛盾と葛藤した。
その結果、ナウシカはイマ・ココに改めて気づく。
小さい頃からの長い付き合いを持つ人たちとの関係性の中で、イマ・ココに生きていくことを、改めて決意しなおした。
イマ・ココを強く肯定しなおす。
今やっていることが無駄に思えてしまうこと。
もう何をやってもしょうがないんじゃないかと思うこと。
そんな虚無や絶望の世界がある。
ただ、それは、自分がイマ・ココに生きていないことを意味する。
あるかないかすらアヤフヤな未来に自分を預けて、勝手に絶望しているだけだ。
絶望や虚無の世界は、イマ・ココに自分が生きていないことに気づくための言葉だ。
そのことに気づいた時点で、負の力が正の力へと反転し、希望を生み、自分が他者と生きていく、奥深い力となるのだろう。
仕事から疲れ果てて帰ったとき、偶然にテレビでアニメ版「風の谷のナウシカ」をやっていた。
アニメ版「風の谷のナウシカ」を観るのは、10年ぶりくらいな気がした。
なんとなく見ていたら、えらく深く感動した。終わった後、呆然。
■名作
10年前アニメを見たときも、元々は漫画版「風の谷のナウシカ」を先に読んでいた。
漫画好きの間では、常に超名作と称される漫画版「風の谷のナウシカ」。
全7巻で3000円弱という衝撃の価格もさることながら、漫画版全7巻のうち、最初の2巻くらいをアニメはテーマにしていて、当時は物足りなさを感じてしまい、アニメ版のインパクトが少し薄かった。
ただ、アニメ版を、ひとつの作品として素直に見ると、とても素晴らしいひとつの作品であることが分かる。
あらゆるテーマを複雑に錯綜させながら作品として完成させること。その技術に感動。
生命、自然、民族、神話、記憶、文明、人間、虫・・・・・
ということで、漫画版ナウシカ全7巻も読み返してみた。
読み始めるととまらなくなり、朝4時まで読み続け、翌日の仕事が辛かった。
手塚治虫の「火の鳥」もそうだけど、衝撃的で、価値観を揺さぶる作品は、やはり何度も読み込んでいかないといけないことを強く感じる。
一回読んで、「あーあれね、読んだ、読んだ、まあまあだねー」
なんて言い切ってしまうのは、結構危ないもんだと感じる。
もちろん、時間は有限だから、あらゆるものを何度も読み返すのは不可能なんだけど、何か自分に残ったもの、自分の心のどこかに何かトゲのような違和感がささったものは、そのとき分からなくても、時が経ち、自分が変化し、自分の世界に応じて、感じられる世界は伸縮自由に伸び縮みする気がする。
■記憶
ナウシカと王蟲(オーム)との対話で、太い一本の大木がそびえている情景がフラッシュバックされていた。
あの大木は、ナウシカ自身は体験していないし、個人の記憶の中にないはずだけれど、記憶として呼び覚まされていた。その記憶はナウシカの細胞が覚えている過去の記憶の痕跡のようなものなのだろう。
生命体は、染色体があり、本体はDNAという核酸の分子でできている。
染色体は、ヒトも動物も虫も、父と母のDNAが織り込まれて、できる。
クローン技術を使おうが、体外受精をしようが、そうして生命はできている。
そうして、先祖、先祖、先祖・・と果てしない過去へ、自分の染色体やDNAのヒモをたどると、どこまでつながっていけるのだろうか。
今の自分は、数千年前の先祖のわずかな痕跡しか残っていないとは思うけれど、ほぼゼロに近似されるかもしれないけれど、先祖の影響がゼロにはなることは絶対にないのだろう。
染色体をたどると、ヒトの最初、哺乳類の最初、脊椎動物の最初、生命体の最初・・そういうはじまりへと、数億年の時間を越えてたどっていけるのかもしれない.
60兆個の細胞に等しく分配されている染色体やDNAというもの。
そんな実体があるモノの中に、情報が含まれている。
そんな場所に、過去の破片がおさめられている。
ナウシカの見た、大木が高くそびえる自然の風景は、今まさにこの世界にある自然の風景。
遥かな過去と、遥かな未来は、どうやっても分断できない。
必ずつながっていて、連続している。
そのことの凄さのようなものを、ナウシカを見ていて感じる。
未来と過去をつなぐ現在という場所。
この現在という場所がどちらの方向性へ向くか、そのことで未来と過去がどのようにつながるかが決まっていく。
現在は、過去に縛られながらも、自由度が高い。
■光と闇、希望と虚無
アニメ版ナウシカを観て感動したので、漫画版ナウシカを読み直す。
森の人、蟲使い、菌類・・・・アニメ版では出てこない魅力的なストーリーが広がっていて、到底2時間程度で収められない物語が広がっている。
宮崎駿も、10年近くかけて書いた漫画作品だということで、ストーリー自体が、時代と共に微妙に変化しながら書いているような印象を受ける。
アニメ版も漫画版も、単に「自然が大事」のようなストーリーで収まってはいない。
言霊がないお題目には、満足していない。
「自然が大事」なんて言葉は、この世界で何億回も繰り返されている言葉だけれど、何も変わっていない。人間による自然破壊や自然との乖離は進んでいくばかり。
だから、言葉で伝わる浅い層ではなくて、心の深い層に直接訴えてくるように、あらゆる物事を総動員させながら、読み手に迫ってくる。
人間と自然、虫、菌・・・人間を相対化させていく。
そして、ナウシカ自体が、自分の心の深い部分へと入っていき、その場所に読み手を連れて行く。
ナウシカの心に寄せては返す、希望や絶望。
その波のような感情での、矛盾や葛藤。
・・・・・・・・
言葉は、僕らを戸惑わせる矛盾を作り出してしまう。
例えば、「生命尊重」という言葉を抱えながらも、生命(植物や動物)を食べずにはヒトは生きていけないという矛盾。動物を食べないベジタリアンも、生きている植物を食べる。 ヒトは植物のように自分と無機物だけからエネルギーを作り出すことができない。
「絶対的に正しいものはない」と言った瞬間に、それ自体が絶対的に正しいものを主張することになるという矛盾。絶対化を相対化した瞬間にそれが絶対化する矛盾。
正しくないものに対して正しくないと主張したとき、その自分の正しさがどこにあるのか、よくわからなくなってくる葛藤。
ナウシカの苦悩は、そうした葛藤や矛盾にあって、「もうちっぽけな自分が何をやってもしょうがないんじゃないか」という虚無の世界と何度も対峙していく。
その虚無の世界は、一般的には闇や地獄の世界と考えられやすい。
ただ、ナウシカは、絶対的な善に満ちて、光にあふれ、天国のような場所でさえも、その世界が虚無と同じのようなものだと感じていく。
光だけの世界では、光は存在しない。
そこは眩しくて何も見えないし、光だけの虚無の世界だ。
光は、闇の中に差し込むからこそ、光だ。
そして、光と闇を抱え、イマ・ココにある全ての関係性を受け入れ、肯定し、イマ・ココで生きることを、引き受け、生きる。
言葉が作る矛盾に満ちた観念の世界から、現実の外の世界へと足を踏み出す。
そんな風に、言葉が持つパラドックスを駆使しつつ、読書を矛盾に満ちた世界に引きずり込みながらラストへと向かう。
宮崎駿は、単純なユートピアな結論を強く拒み、読み手を何重もの入れ子構造へと落としていく。
光と闇のテーマは、宮崎駿からのメッセージとして
「もし読者のアナタがこの世界に闇を感じるなら、アナタ自身がその中へ差し込む光になればいい。それは、ナウシカのように、光も闇も、すべてを背負うことを決意することだ。」
という風にも、読めてくる。
漫画版ナウシカは、ラストが何度もひっくり返されるので、ラストに納得がいかないという人もいるみたいだけれど、それは、宮崎駿の言葉のパラドックスの罠にかかっているような気がする。
ナウシカは、言葉が生み出す矛盾の間で、絶対的なものを立てることができない宇宙空間のような不安定な場所で、正義、正しいこと、善いこと、生命・・・その言葉が生み出すいろんな矛盾と葛藤した。
その結果、ナウシカはイマ・ココに改めて気づく。
小さい頃からの長い付き合いを持つ人たちとの関係性の中で、イマ・ココに生きていくことを、改めて決意しなおした。
イマ・ココを強く肯定しなおす。
今やっていることが無駄に思えてしまうこと。
もう何をやってもしょうがないんじゃないかと思うこと。
そんな虚無や絶望の世界がある。
ただ、それは、自分がイマ・ココに生きていないことを意味する。
あるかないかすらアヤフヤな未来に自分を預けて、勝手に絶望しているだけだ。
絶望や虚無の世界は、イマ・ココに自分が生きていないことに気づくための言葉だ。
そのことに気づいた時点で、負の力が正の力へと反転し、希望を生み、自分が他者と生きていく、奥深い力となるのだろう。
私も多感な年頃(15歳)に映画を見て、漫画を全巻買って読んだので、かなり影響を受けました。漫画版は映画よりもかなりストーリーが長くて悲惨で、しかしナウシカの活躍も多くて、どんどん惹きこまれますよね。
一番の魅力はナウシカの美しさでしょうが、余りにも強くて美しいので、「フィクションの中にしかいないだろ」という批判もできるでしょう。いや、この作品は批判しようと思えばたくさんできます。長所がそのまま短所となる作品です。まさに光と影が一体というか。
それにしても、キャラクターやストーリーは置いといても、「腐海」「王蟲」「蟲つかい」などの設定を思いつくというのが才能なのかな、と改めて感じました。
っていう、全く同じ動きをしていたので、ビックリしました。
この年で読むとまた、感激が大きいですね。
なんか、若い時に勢いで読んでいたのとまた違う発見があったり、感じ方も微妙に違ったりして。
今度また、ナウシカ話で盛り上がりましょ。
ナウシカ、読まれてましたかー。
菌とか蟲とか腐海とか、自然のとらえるスケールが大きくて、僕も子供心に衝撃を受けました。
森の人ってのが、蟲使いも尊敬してて、なんかかっこいいなーってのはよく覚えてて。
あの着ぐるみみたいなのもカワイイし。笑
確かにナウシカは美しいですね。気高いし。
女神とかの一つの形というか。母性の象徴でもあって。
器が大きいだけに、善でも悪でも虚無でもなんでもひきつけちゃうんですよね。
そして、虚無すらも飲み込んで自分の一つにしてしまう。
宮崎駿は、漫画書いてもあんなにすごいのかけるのに、自分の才能の無さを感じたとか言って、漫画書くのやめちゃうんですよね。それだけ、日本の漫画の層が厚いってことなのかもしれんけど。
宮崎駿の「シュナの旅」って漫画も、チベット民話「犬になった王子」をベースにしているらしくて、短い話ですごくいい本ですよね。
セリフはほとんどなくて、マンガというより、絵物語に近いかもしれない。
>>>>>makiさん
同じ経路たどってましたかー。笑
いやはや、でも、あの漫画はそう何度も読み返すものでもないし、アニメを久しぶり見て、そういえばもう一回読んでみるかって流れは、ある意味自然なのかもしれない。
手塚漫画もそうだけど、一度読んだのをもう一度読むと、以前は通りすごしていたディテールの方にもピントがあうようになるんですよね。
自分の視野が狭いと、それに応じて狭い視野でしか漫画も読まないんだけど、そのことに気付かされる。
ナウシカ漫画は、手塚漫画と同様、数百年しても絶対残る漫画だろうなぁ。
オリジナルを追求していくと、普遍性を帯びてくるってのは、不思議だけど、本当だよねぇ。
また今度会うときでも、ナウシカ話しを~。
アニメだけじゃなくて漫画版も読んでる人、結構いるからねぇ。
ビレッジバンガードの本屋に行くと、必ず平積みになってるし!
そして漫画も好きです。友だちに借りて読んで少し難しいな,と思ったけれど,だからこそまた読み返したいなという気持ちがずっと残っています。
実は先日Avatarという映画を見に行って,途中からストーリーに飽きてぼーっと見ていたんですが(笑),その映画の中のいくつかのモチーフ(防毒マスク,大きな木,虫のような飛行機等)がナウシカを連想させたのか,映画館の中で急に「あーナウシカ見たいな~!」と思ってしまって。タイムリーにナウシカ愛を共有できてすごく嬉しいです。日本に帰ったら絶対すぐに映画も漫画も見返します!
ナウシカファン多いですねー。
僕らの世代は漫画アニメに全く抵抗ない世代だし、漫画やアニメから多くの哲学的なことや倫理や道徳なども自然に学んでる気がします。
漫画、もう一度読むと、すごく深いとこまで達すると思いますよ。
あれは小中学生には衝撃波としてしか届かない気が。
だからこそ読み返す必要があるわけで。
Avatarの感想も、ブログで読みましたよ。
わしはまだ見に行ってないから、そう言われると俄然どんなものか興味あり。
でも、ナウシカには影響受けてると思いますよー。
日本は、神社神道をはじめとして、自然と一体化して生きることそのものにあまり抵抗感ないいし、それはまさしくナウシカの世界で。
漫画とか映画とか読み返したら、是非感想聞かせてください。
日本帰国もそろそろなんですかね?
私もナウシカを読み返し中です。
TVで放送していたからですかね^^面白い。
最初に観たときは怖い印象だったり、メーヴェに乗りたいとか、虫笛作りたいとか、小学生目線でしたけど、これは大人になって観るとものすごい奥深さを感じる作品ですよねー
何度も読み返さないと、スピード感に追いつけなくて(けれどスピード感に引っ張られてゆっくりは読めない^^;)、何度も読んでしまいます。疲れるけど。
世代も近いし、みんな読んでるねー。
アニメ版だけって人も多いけど、やっぱり漫画版と合わせて味わってほしいものです。
空想ファンタジー的な要素もあるから、小さい時は小さいなりの見方をすると思うけれど、今になると、今の年齢特有の読み方をする。年齢に応じて感じるところが違うってのはすごいよね。名作たるところ。
確かに、疲れるよね。もうめまぐるしく色んなものが変化するから!