伊勢に行ってきた。
伊勢神宮は、前から行こうと思っていた場所。
なんとなくそんなことを古くからの知り合いと話していて、その場で一緒に行くことが決まって、実際に行けたのは嬉しい。予定が偶然あったのもうれしい。
「行きたいねー」って言い合っただけで終ることが多いけれど、実際に行くのと空想でモヤモヤとでは大きく違うものだ。
■伊勢神宮
伊勢神宮は、そこを守る神主さんが常に手入れをして清浄な状態を保っている。
スコーンと空に開かれて、宇宙にまでつながっている感じがする、そんな開かれた場を感じた。
内宮で祭ってある天照大神(あまてらすおおみかみ)が太陽神ってこともあるのかもしれない。
太陽は宇宙にある。
太陽をカミとして祭るには、僕らが宇宙や太陽へまで想いを馳せないといけない。
伊勢神宮は、場所自体がとても気持ちよく、空気もきれいで、内宮に入るとなんとなく襟を正してしまう感じになる。
■式年遷宮 20年
伊勢神宮は「式年遷宮」と言って、20年ごとに、内宮・外宮・・全ての社殿を全部壊して、最初から造り替える。
20年ごとに建て替える理由は色々言われている。
・建物の「清浄さ」を保つ限度が20年程度。
・建替えの技術の伝承をするために。
・旧暦の「朔旦冬至」(11月1日が冬至)になるのが、19~20年に一度の周期(メトン周期)。
・一世代がおよそ20年。
・神嘗祭のときの穀物の保存が20年程度
色んな理由があるらしいけれど、「変わること」を象徴化させているのはすごく面白い。
建物や文字や経典は、そこで「不変化」してしまうと、それが絶対化してしまう危険性がある。
でも、流れる水のように常に変化していると、「変わる」からこそ、常に相対化されて、絶対化されない。
そんな自然が持つ原理・原則を垣間見る感じがする。
自然を感じる木造だと、腐るし、変化して、生き物であることを感じる。
コンクリートは、塗りこめられて変わらなくて、生き物やいのちのような、自然のものから少し遠い。
■手入れ
式年遷宮も含めて、伊勢神宮で感じたのは、自然と人間のバランス。
自然を自然のままに任せると、ジャングルのようになってしまう。そして、雑草と言われる。
そこで、少しだけ人間が「手入れ」する必要がある。
そのものの良さを生かしつつ、殺さないように、過剰に手を入れず、かと言って放置せず、支配や管理ではない「手入れ」の感覚。
それこそが、人間のすべき仕事だと思う。
人間は自然を支配したり管理したりするために存在するわけではない。
人間は生命体であり生き物であり、自然の一部である。
人間は自然の一部だからこそ、共に生きる、共生するために存在している。
寄生虫も、寄生した先が死んでしまうと自分も死ぬ。
人間も、自然が死んでしまうと、必ず死ぬ。
人間は栄養を自前で作ることができなくて、自然が持つ水や土や太陽の力を借りないと、生存すらできないもので。
■信仰
日本は特定の宗教に属してない人が多い。
でも、ものすごい数の日本人が伊勢神宮を出入りしている。
莫大なエネルギーが移動しているように見えた。
そして、正しい「祈り方」なんて誰もわからないけれど、思い思いにその場で祈っている。
神道は自然への畏怖と感謝がベースにある。
仏教は悟りと慈悲。キリスト教は愛と赦し。神道は畏怖と祭りと美の宗教だ。
日本では、宗教は神仏習合しつつ、神神習合していく。
原型がわからないほど混ざって、別のものに変容していく。
そんなハイブリッドな感覚を持っている。
女子も男子もカワイイ!の一言でいいものをなんでも取り込めるし、聖地もパワースポットとネーミングを変えれば、オカルトでもスピリチュアルでもなくなる。カワイイ!感覚でお参りできる。
鳥居、カワイイ!しめ縄、カワイイ!
神主さん、巫女さんの服装、カワイイ!
ってな感じで。
いつか、いきなり巫女ファッションブームとか、本気で来るかもしれない。
日本人は、美も宗教もなんでもごちゃまぜのごった煮にして、それを受け入れる柔軟さがある。
それは美徳でもあるけれど、時にはあまりに宗教に対して無知過ぎて、世界では総すかんされることもある。
■迦微(カミ)
本居宣長は
『尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(カミ)とは言うなり。』
と言っている。
日本人の考えでは、「わー!すごい!」っていうものは、全てがカミ様になる。
手塚治虫は漫画のカミ様。松下幸之助は経営のカミ様。・・・
中国の「神(シン)」という漢字は、「自然界の不思議な力を持つ物や心を表わす文字」。
キリスト、ユダヤ、イスラムのような一神教の「GOD」は、創造主で絶対的な存在。
そんな色んな概念を、日本では全部「神(カミ)」って言うから誤解が起きる。
ただ、その混在した言い方も含めて、混在した混沌のままに受け入れることができるのも、日本の良さでもある。
そんな日本的宗教感覚の良さも悪さも知っていないといけない。
古代ギリシアの人が言った「汝、自身を知れ!」とはこのことかな。
伊勢神宮は、前から行こうと思っていた場所。
なんとなくそんなことを古くからの知り合いと話していて、その場で一緒に行くことが決まって、実際に行けたのは嬉しい。予定が偶然あったのもうれしい。
「行きたいねー」って言い合っただけで終ることが多いけれど、実際に行くのと空想でモヤモヤとでは大きく違うものだ。
■伊勢神宮
伊勢神宮は、そこを守る神主さんが常に手入れをして清浄な状態を保っている。
スコーンと空に開かれて、宇宙にまでつながっている感じがする、そんな開かれた場を感じた。
内宮で祭ってある天照大神(あまてらすおおみかみ)が太陽神ってこともあるのかもしれない。
太陽は宇宙にある。
太陽をカミとして祭るには、僕らが宇宙や太陽へまで想いを馳せないといけない。
伊勢神宮は、場所自体がとても気持ちよく、空気もきれいで、内宮に入るとなんとなく襟を正してしまう感じになる。
■式年遷宮 20年
伊勢神宮は「式年遷宮」と言って、20年ごとに、内宮・外宮・・全ての社殿を全部壊して、最初から造り替える。
20年ごとに建て替える理由は色々言われている。
・建物の「清浄さ」を保つ限度が20年程度。
・建替えの技術の伝承をするために。
・旧暦の「朔旦冬至」(11月1日が冬至)になるのが、19~20年に一度の周期(メトン周期)。
・一世代がおよそ20年。
・神嘗祭のときの穀物の保存が20年程度
色んな理由があるらしいけれど、「変わること」を象徴化させているのはすごく面白い。
建物や文字や経典は、そこで「不変化」してしまうと、それが絶対化してしまう危険性がある。
でも、流れる水のように常に変化していると、「変わる」からこそ、常に相対化されて、絶対化されない。
そんな自然が持つ原理・原則を垣間見る感じがする。
自然を感じる木造だと、腐るし、変化して、生き物であることを感じる。
コンクリートは、塗りこめられて変わらなくて、生き物やいのちのような、自然のものから少し遠い。
■手入れ
式年遷宮も含めて、伊勢神宮で感じたのは、自然と人間のバランス。
自然を自然のままに任せると、ジャングルのようになってしまう。そして、雑草と言われる。
そこで、少しだけ人間が「手入れ」する必要がある。
そのものの良さを生かしつつ、殺さないように、過剰に手を入れず、かと言って放置せず、支配や管理ではない「手入れ」の感覚。
それこそが、人間のすべき仕事だと思う。
人間は自然を支配したり管理したりするために存在するわけではない。
人間は生命体であり生き物であり、自然の一部である。
人間は自然の一部だからこそ、共に生きる、共生するために存在している。
寄生虫も、寄生した先が死んでしまうと自分も死ぬ。
人間も、自然が死んでしまうと、必ず死ぬ。
人間は栄養を自前で作ることができなくて、自然が持つ水や土や太陽の力を借りないと、生存すらできないもので。
■信仰
日本は特定の宗教に属してない人が多い。
でも、ものすごい数の日本人が伊勢神宮を出入りしている。
莫大なエネルギーが移動しているように見えた。
そして、正しい「祈り方」なんて誰もわからないけれど、思い思いにその場で祈っている。
神道は自然への畏怖と感謝がベースにある。
仏教は悟りと慈悲。キリスト教は愛と赦し。神道は畏怖と祭りと美の宗教だ。
日本では、宗教は神仏習合しつつ、神神習合していく。
原型がわからないほど混ざって、別のものに変容していく。
そんなハイブリッドな感覚を持っている。
女子も男子もカワイイ!の一言でいいものをなんでも取り込めるし、聖地もパワースポットとネーミングを変えれば、オカルトでもスピリチュアルでもなくなる。カワイイ!感覚でお参りできる。
鳥居、カワイイ!しめ縄、カワイイ!
神主さん、巫女さんの服装、カワイイ!
ってな感じで。
いつか、いきなり巫女ファッションブームとか、本気で来るかもしれない。
日本人は、美も宗教もなんでもごちゃまぜのごった煮にして、それを受け入れる柔軟さがある。
それは美徳でもあるけれど、時にはあまりに宗教に対して無知過ぎて、世界では総すかんされることもある。
■迦微(カミ)
本居宣長は
『尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(カミ)とは言うなり。』
と言っている。
日本人の考えでは、「わー!すごい!」っていうものは、全てがカミ様になる。
手塚治虫は漫画のカミ様。松下幸之助は経営のカミ様。・・・
中国の「神(シン)」という漢字は、「自然界の不思議な力を持つ物や心を表わす文字」。
キリスト、ユダヤ、イスラムのような一神教の「GOD」は、創造主で絶対的な存在。
そんな色んな概念を、日本では全部「神(カミ)」って言うから誤解が起きる。
ただ、その混在した言い方も含めて、混在した混沌のままに受け入れることができるのも、日本の良さでもある。
そんな日本的宗教感覚の良さも悪さも知っていないといけない。
古代ギリシアの人が言った「汝、自身を知れ!」とはこのことかな。
「建て替え」の文化って、ホント見習う点が大きい。
加えて、「仕事をつくる」ためってのもあるらしい。今風に言うワークシェアの発想。
あと、建て替え=スクラップ&ビルドでもないようで、今の建物は、素材がごちゃ混ぜだから、壊したらタダの産業廃棄物になっちゃうけど、近代化する前のは、 木・紙・土みたいな自然に還る、あるいは木なんかは転用できる。
また、転用する際も、サイズの標準化(今風に言うとモジュール化。いわゆる、江戸間・京間のように)がされている。近代化してからの方が、産業化し、会社毎に独自仕様だから全然転用できない。(今、無印が一生懸命、サイズの標準化してますね)。
「木」は建材としては本当に面白くて、確かに土に寝かして雨ざらしにしとけば、数ヶ月で腐るけど、石の上に立てて、頭に瓦で傘をさせば(=つまり土の湿気を吸わず雨に濡れず、また塗れても風で乾くようにすれば)、それこそ千年級に保つ。
逆に、「コンクリート」…、厳密には近代工法の「鉄筋コンクリート(=RC)」は、中性化による寿命が避けられないので、やはり100年レベル。
…というか、オーギュスト・ペレ(=コルビュジェの先生)あたりがRCの始まりだから未だ100数十年しか歴史もない。
日本はつくづく、明治での分断が激しい!村松貞次郎『日本近代建築の歴史』(岩波現代文庫)なんか読むと、工部大学校(東大工学部の前身)で、いかに前近代を否定(タブー視)するような教育がされたかが分かって面白い。棟梁とかに、お抱え外国人の先生がダメだししまくってる(笑)。
(…ちなみに、近代建築から逆に、そうした設計と実施の再融合を勧めるクリストファー・アレグサンダーみたいな人もいる。彼の理論を応用した集合住宅の
目黒の「泰山館」…東急田園都市線駒沢大学駅より徒歩12分
http://www.taisankan.jp/
は、近くの人はぜひ、賃貸希望のフリをしてのぞいてみることをオススメします。身が震えます!)
最後に、「手入れ」についてだけ。
この言葉は、ぼくはすごく注目です。
近代を乗り越えるキー概念だと思う。
(手)技術と機械の違いとして、誰かが、作用に対して反作用があるかないかと言ってましたが(機械はボタンを押すだけ、反作用が感じられない)、結局それにより、自然や他者からの悲鳴が届かなくなっているわけで…。
糸井さんも、里山の風景を評して「手自然」という秀逸な比喩をしているけど、人間を否定しない、自然との共生の在り方を探りたいです。
そうなんです。伊勢神宮、なんとなく土日で行ってきました。
乗り換えとかいれると5時間くらいかな。
新幹線で名古屋まで行って乗り換えて。結構遠いよねー。
今の建て替えみたいに、破壊、ゴミ。って感じがしてこないのよね。
土から生まれた木を元に戻して、その間に生えてきた木に代替わりをさせるって感じで。
壊してゴミが出るとか否定的な発想は出てこない。
むしろ、大きい輪の中をグルグル回転させてるって感じ。
ヒトの代謝経路みたいな感じで。
「木」はすごいよね。
家の中でも、お風呂でも、木で出来ているのを見ると、なんとなくほっとするもの。
映画アバターも観てきて、今度ブログに感想書こうかと思ってるけど、あお映画でも木はかなり重要な意味があるよね。
カミは自然で、木だったし。生命の樹。
目黒の「泰山館」はいいねー。
集合住宅って、昔みたいな地域がなくなった今、見直されるべきスタイルだよね。
Privateに閉じていくのではなくてね。
「手入れ」。僕も重要な概念だと思う。
(手)技術と機械の違で、作用と反作用って言うのは面白いねー。
確かに、機械はボタンを押すだけで反作用が感じられない。
そんな支配の関係性ではなくて、相互作用の関係性だよね。
右手と左手をにぎると、右手が左手を握っているのか、左手が右手を握っているのか。
という感覚と同じかな。
糸井さんの、里山を「手自然」っていうのは確かにねー。美意識感じるものね。
人間を否定しない、自然との共生の在り方ってのは、アバターのテーマでもあるし、ナウシカのテーマでもある。
昔はよかったーではなくて、ネットとか都市化したこの時代で、どういう風に捉えなおしていくかってことだよね。
見てはいないけど、「里山」って映画もあったよね。
http://satoyama.gaga.ne.jp/
今度DVDとかあれば見てみようかな。