(悩める高1女子との対話)
●高1女子「友だちが悲しがってると自分も悲しくなる。友だちがうつになると自分もうつになっちゃうんだよね。そしてなんとかしたいって思うんだよね。そして散々頑張るんだけど、結局なに行っても相手は変わらないし、なにやっても無駄だし。余計に自分もうつになる。どうすればいいのかなぁ。無視すればいいの? だいたい、学校行っても何しに行ってるか分からないし、もう全部つまらないよね。」
●いなば「うん。まず相手と共鳴しているってこと。それはすごく大事なことだよ。その感覚はとっても大切にしてほしいな。それだけで相手はうれしいはずだよ。それは伝わるからね。そして、距離感を適切に取っている証しでもある。
距離感が地球と金星くらい離れてたら、何も感じないでしょ。共鳴するってことは、ちゃんと距離感があることを示しているんだ。
でも、次に大事なことは、相手の課題と自分の課題とをちゃんと分けること。そこが距離感の大事なとこだし、真髄なんだよね。
相手の課題と自分の課題をちゃんと分けることは、相手を尊重することでもある。相手の聖域に踏み込まないということでもある。
たとえば数学の問題を解くときを考えてみよう。その子が数学の問題を解いているけど解けない。でも、自分は答えを知っている。そのときにどうするのが一番いいんだろうか。
たいてい、そこで得意になって相手の解答用紙を奪って、自分で鮮やかに解いて見せて、ほら、こうやって解くんだよ。ってやってしまうんだよね。
たしかに、それは相手からすごい!って言われるし、誇らしいかもしれない。
でも、それは本当に相手のことを思う行為なんだろうか。その子と自分は24時間365日一緒にいるわけではないよね。今後似たような問題に出会うたび、常に自分が問題を解いてあげることはできないよね。しかも応用問題には太刀打ちできないし。」
●高1女子「たしかにね。なんか思わず自分がやりたくなっちゃうんだよね。」
●いなば「だから、一番いいのは、その子が自分の力で問題を解けるよう、絶妙なヒントや補助線を考えることだよ。そして自分の力で問題を解くことをさりげなくサポートする。それが自分の課題なんだよね。 相手の課題は、その子が自分自身の力で問題を解くこと。そこは違うから、混同しないでね。
自分には自分の課題があり、相手には相手の課題がある。それは優劣ではなく、単にそういうことなんだ。だって、人間全員が違う人生を送っているわけだから、全員、課題は違うわけだよ。だから、まず自分の課題を解決していくこと。その上で、相手の課題は尊重すること。そして、そこに優劣意識を持ちこまないこと。
だから、相手が苦しんでいる時、相手を大切に思いながら、どうすれば自分自身の力でその課題を解決していけるのか、その絶妙なヒントや補助線を考え続けることが大事なんだよ。そのためには、その問題の本質を自分が知ってないといけない。暗記のような表面的な解決法では太刀打ちできない。だからこそ自分自信にとっても勉強になるわけだよね。その本質に分け入る行為になるからね。ものごとにはすべて深みというものがあるわけだよね。」
●高1女子「でも、学校で勉強していることって、なんか意味わかんないんだよね。なんでこんなのしなきゃいけないの、っていうか。そんなのせずに遊びたいよね。」
●いなば「学校で勉強していることは、本質が分からないと退屈かもしれないよね。それは先生の責任もあるかもしれないね。だって、先生も自分の課題をほったらかして、生徒の課題に介入してくる先生が多いからね。これは、自分も小学生の時からずっと困ってた。『先生!あなたはあなたの課題に取り組んだら!』ってね。
学校で学んでいることは、科目そのものにあるんじゃなくて、<それぞれが自分自身で課題を解決していく>ということそのものを学んでいるんだよ。
そして、自分が課題を解決できたとしてもそれで終わりじゃない。
今後は似た課題で悩んでいる人に対して、その人が自分自身の力で問題を解決できるように、上手にサポートすることを学んでいる。押しつけではなくね。 あくまでも自主性を重んじることね。だって、この世の基本原則は、自由、なんだから。
そういうことを、数学、国語、理科・・・色んな科目を教材にしながら、学んでいるわけだよね。」
●高1女子「あ、学校の勉強ってそういうことなのね。科目そのものじゃなくて、自分自身で学ぶこと、を学んでいるってこと?」
●いなば「そうだよ。<自分自身で問題を解決していくこと>そのものを学んでいるんだ。それが解決しても、つぎに相手が自分自身の力で問題を解決していくことをサポートすることを学ぶ、・・・という風に、どんどん入れ子状になっていくのが、学ぶことの本質なんだよ。
だから、教科は何でもいいんだよ。それは手段にすぎなくて目的ではないからね。ヒントであって答えではない。
どんなものでも、自分なりに課題や問題を解決するという学びの本質に気付いたら、この世の全ては面白いったらありゃしないよ。
ちなみに、先生が話していること、教科書に書かれていること・・・・は、この世に無限にある仮説の一つに過ぎないからね。すべては永遠に仮説だよ。
だからこそ、自分なりに自分で問題を解決していく必要がある。
先人の知恵を尊重しながら、他の人の解法を尊重しながら、それはそれとして、自分も自分なりに問題を解決する必要があるんだ。
それは今生の人生、全てに言えることだよ。
病とか老いとか死とかもまさにそうだよね。お釈迦様は一つの模範解答を示してくれたわけだ。ただ、それも仮設。自分自身で問題は必ず解いてね。
ただ、これはそう簡単には解けないよ! 自分が分かっても、相手にヒントをうまく教えるのも難しいから、問題は山積みだ!
そういうことの雛型を、ほんとうは学校で学んでいるんだよね。まあ、この世自体が、大きな学校だから、同時代に生きてるってことは、みんな同級生ななわけなんだけど・・・。」
●高1女子「仮説なのか~!」
●いなば「もちろんだよ。答えはかみさま(とされる何か?)しか知らないから。それは、今生で死んだ時にぜーーんぶ分かる仕掛けになってるから、答え合わせはそこで行われるよ!お楽しみに!(^^」
●高1女子「ひょえ~! でも、なんかよくわかった! 自分は自分の勉強頑張るね。そして、自分も教え上手になれるように、そっちも頑張るね~!(^^」
●高1女子「友だちが悲しがってると自分も悲しくなる。友だちがうつになると自分もうつになっちゃうんだよね。そしてなんとかしたいって思うんだよね。そして散々頑張るんだけど、結局なに行っても相手は変わらないし、なにやっても無駄だし。余計に自分もうつになる。どうすればいいのかなぁ。無視すればいいの? だいたい、学校行っても何しに行ってるか分からないし、もう全部つまらないよね。」
●いなば「うん。まず相手と共鳴しているってこと。それはすごく大事なことだよ。その感覚はとっても大切にしてほしいな。それだけで相手はうれしいはずだよ。それは伝わるからね。そして、距離感を適切に取っている証しでもある。
距離感が地球と金星くらい離れてたら、何も感じないでしょ。共鳴するってことは、ちゃんと距離感があることを示しているんだ。
でも、次に大事なことは、相手の課題と自分の課題とをちゃんと分けること。そこが距離感の大事なとこだし、真髄なんだよね。
相手の課題と自分の課題をちゃんと分けることは、相手を尊重することでもある。相手の聖域に踏み込まないということでもある。
たとえば数学の問題を解くときを考えてみよう。その子が数学の問題を解いているけど解けない。でも、自分は答えを知っている。そのときにどうするのが一番いいんだろうか。
たいてい、そこで得意になって相手の解答用紙を奪って、自分で鮮やかに解いて見せて、ほら、こうやって解くんだよ。ってやってしまうんだよね。
たしかに、それは相手からすごい!って言われるし、誇らしいかもしれない。
でも、それは本当に相手のことを思う行為なんだろうか。その子と自分は24時間365日一緒にいるわけではないよね。今後似たような問題に出会うたび、常に自分が問題を解いてあげることはできないよね。しかも応用問題には太刀打ちできないし。」
●高1女子「たしかにね。なんか思わず自分がやりたくなっちゃうんだよね。」
●いなば「だから、一番いいのは、その子が自分の力で問題を解けるよう、絶妙なヒントや補助線を考えることだよ。そして自分の力で問題を解くことをさりげなくサポートする。それが自分の課題なんだよね。 相手の課題は、その子が自分自身の力で問題を解くこと。そこは違うから、混同しないでね。
自分には自分の課題があり、相手には相手の課題がある。それは優劣ではなく、単にそういうことなんだ。だって、人間全員が違う人生を送っているわけだから、全員、課題は違うわけだよ。だから、まず自分の課題を解決していくこと。その上で、相手の課題は尊重すること。そして、そこに優劣意識を持ちこまないこと。
だから、相手が苦しんでいる時、相手を大切に思いながら、どうすれば自分自身の力でその課題を解決していけるのか、その絶妙なヒントや補助線を考え続けることが大事なんだよ。そのためには、その問題の本質を自分が知ってないといけない。暗記のような表面的な解決法では太刀打ちできない。だからこそ自分自信にとっても勉強になるわけだよね。その本質に分け入る行為になるからね。ものごとにはすべて深みというものがあるわけだよね。」
●高1女子「でも、学校で勉強していることって、なんか意味わかんないんだよね。なんでこんなのしなきゃいけないの、っていうか。そんなのせずに遊びたいよね。」
●いなば「学校で勉強していることは、本質が分からないと退屈かもしれないよね。それは先生の責任もあるかもしれないね。だって、先生も自分の課題をほったらかして、生徒の課題に介入してくる先生が多いからね。これは、自分も小学生の時からずっと困ってた。『先生!あなたはあなたの課題に取り組んだら!』ってね。
学校で学んでいることは、科目そのものにあるんじゃなくて、<それぞれが自分自身で課題を解決していく>ということそのものを学んでいるんだよ。
そして、自分が課題を解決できたとしてもそれで終わりじゃない。
今後は似た課題で悩んでいる人に対して、その人が自分自身の力で問題を解決できるように、上手にサポートすることを学んでいる。押しつけではなくね。 あくまでも自主性を重んじることね。だって、この世の基本原則は、自由、なんだから。
そういうことを、数学、国語、理科・・・色んな科目を教材にしながら、学んでいるわけだよね。」
●高1女子「あ、学校の勉強ってそういうことなのね。科目そのものじゃなくて、自分自身で学ぶこと、を学んでいるってこと?」
●いなば「そうだよ。<自分自身で問題を解決していくこと>そのものを学んでいるんだ。それが解決しても、つぎに相手が自分自身の力で問題を解決していくことをサポートすることを学ぶ、・・・という風に、どんどん入れ子状になっていくのが、学ぶことの本質なんだよ。
だから、教科は何でもいいんだよ。それは手段にすぎなくて目的ではないからね。ヒントであって答えではない。
どんなものでも、自分なりに課題や問題を解決するという学びの本質に気付いたら、この世の全ては面白いったらありゃしないよ。
ちなみに、先生が話していること、教科書に書かれていること・・・・は、この世に無限にある仮説の一つに過ぎないからね。すべては永遠に仮説だよ。
だからこそ、自分なりに自分で問題を解決していく必要がある。
先人の知恵を尊重しながら、他の人の解法を尊重しながら、それはそれとして、自分も自分なりに問題を解決する必要があるんだ。
それは今生の人生、全てに言えることだよ。
病とか老いとか死とかもまさにそうだよね。お釈迦様は一つの模範解答を示してくれたわけだ。ただ、それも仮設。自分自身で問題は必ず解いてね。
ただ、これはそう簡単には解けないよ! 自分が分かっても、相手にヒントをうまく教えるのも難しいから、問題は山積みだ!
そういうことの雛型を、ほんとうは学校で学んでいるんだよね。まあ、この世自体が、大きな学校だから、同時代に生きてるってことは、みんな同級生ななわけなんだけど・・・。」
●高1女子「仮説なのか~!」
●いなば「もちろんだよ。答えはかみさま(とされる何か?)しか知らないから。それは、今生で死んだ時にぜーーんぶ分かる仕掛けになってるから、答え合わせはそこで行われるよ!お楽しみに!(^^」
●高1女子「ひょえ~! でも、なんかよくわかった! 自分は自分の勉強頑張るね。そして、自分も教え上手になれるように、そっちも頑張るね~!(^^」
吉野源三郎氏の「きみたちはどう生きるか」・・・名著ですよね!コペルニクス的転回のコペルくん!(^^
自分が学生の時、学校で「なぜわれわれは学ぶのか」を1年くらいかけてみんなで納得してから、そこから受験勉強初めて遅くないと思うと、いつも主張してました。(^^;
だって、そこが間違うと、ノーベル賞をとってもその原理が武器に使われてみたり、やはりその知識や知恵の使い道、というのがほんとに大事だと思いますので。先生も、その辺りの哲学的で根本的な問を、日々問い直してほしいなぁと思いますね。
そこが納得できれば、人間だれでも勝手に勉強します。臨死体験の経験者がそういう傾向にありますよね。
まーこさんのような方が現場で働いているのは心強いです!
>安藤さん
ありがとうございます。
最近では「嫌われる勇気」も、古典ではプラトンの対話編でも・・・・やはり対話は哲学の基本ですよね!(^^
中学生の時に読んで感動した、吉野源三郎氏の「きみたちはどう生きるか」を思い出しました。コペルくん!
こういう会話が、もっと学校で行われるべきだと思います。生徒からの「なんで勉強するの?」という問いにちゃんと答えられる先生って少ないと思います。「つべこべ言う前にこれを覚えろ!」とかって言われそう。
私は今まで、「人生における様々な問題を解くための、脳の基礎体力づくり。」と答えていましたが、これからは稲葉さんの名回答を拝借!もっと豊かに伝えようと思います。
『人間全員が違う人生を送っているわけだから、全員、課題は違うわけだよ。だから、まず自分の課題を解決していくこと。その上で、相手の課題は尊重すること。そして、そこに優劣意識を持ちこまないこと』
本当に!これは、親・教師など、子供にかかわるすべての大人が肝に銘じるべきだと思います。学校の先生、特に小・中学校の先生、威張り過ぎ。