■映画「おとうと」
山田洋次監督の「おとうと」を見てきた。
本当は、「カールじいさんの空飛ぶ家」の前売り券を買っていたので、それを見ようと新宿ピカデリーに行ったら、祝日だからか恐るべき人の洪水。しかも満席で見れず。
それで、空いていて観たかった「おとうと」を観てきたのです。
「アバター」なんかも、どんなもんか、少し人が少なくなってきたら観てみたいー。
ということで、山田洋次監督の「おとうと」という映画ですが、予想以上に深く重い内容を含む映画でした。(人情もののホームドラマを勝手にイメージしてたもんで)
それにもかかわらず、この映画は、笑いあり、涙ありで、すごく満足しました。
こういうのこそエンターテイメントだなぁ。大衆娯楽だなぁ。
以前、市川崑監督が同じ内容で「おとうと」(1960年)として、映画化しているんですね。
■「パピヨン」とのシンクロ
映画の前日、田口ランディさんの「パピヨン」を4回目で読みなおして、三省堂でやっていた本人の朗読会にも行ったのです。
この本は、以前も感想を書いてます。
→『田口ランディ「パピヨン」、よしもとばなな「彼女について」(2009-01-12)』
ちょうど、よしもとばななさんの本と発売日が似ていて、すごくシンクロした内容だなぁなんて思ったものでした。
「パピヨン」は、家族の破壊と再生の物語。
それを、キューブラーロスというターミナル・ケアを作りだした方の話を軸としながら、自分の父親の死に寄り添う物語です。
自分の受け入れがたい父親の死を通して、自分や相手の人生を了解しなおして、受け止め、受け入れていく。
過去のトラウマを抱えた人たちの再生の物語というか。
そんな「パピヨン」を、朗読という形で耳から聞きなおしたところだった。
自分が担当した患者さんが死んだときを考え直したりして、なんだか自分の深い層に入っていたところでした。
→『印象深い患者さんの死を思う(2009-03-14)』
■光と影
映画「おとうと」も、同じようなものがテーマになっていて、その妙なシンクロに驚いた。
光と影は、自分の中でテーマのように感じてしまった。
たとえば、家族という物語の光と影であり、医療の光と影。
家族という物語の光と影に関して。
例えば、親戚の中に縁を切りたいと思っている親族がいるとする。
基本的に、そういう人は親族の関係性から消されていたり、最初からいなかったものとされていることがある。
例えば、精神病院に入院している、自殺している、犯罪歴がある・・・。
でも、そういう人は、安定した平和な家族の光に対して生まれた、影法師のようなもの。
家族とか血縁という全体を見た場合、何か大きなものを得ると、そこで全体のバランスが崩れ、影となる人へとしわ寄せが及んでいる可能性がある。
それは、自分だけが少し差別されたとか、いじめられたとか、冷たくされたとか、ほんの些細なことが始まりかもしれない。
ある人が光を受けるとき、地位や名誉を受けるとき、家族のバランスの中では影が出きていることがある。
光に対する影。部分ではなく全体を、あるがままみつめることは大事だ。
他者を排除するのではなく、どういう形で自分たちの中に受け入れていくか。
ポジティブシンキングではなく、他者を受け止める。
受け止めている自分自体も受け止める。
結局は、全体を丸ごと肯定できるかどうか。
■皮膚
ふと思った。皮膚のこと。
皮膚は皮(かわ)と膚(はだ)。
皮は皮肉、化けの皮など、少し悪いイメージがある。
肌は肌が合うなど、少し良いイメージがある。
皮は自己と他者を区別するもので、肌は自己と他者をつなぐもの。
皮は、果物がそうだけど、むいてしまえば終わりになる。
肌は内面と深く結び付く感じ。
外界を遮断する皮(かわ)感覚と、外界と交通していく肌(はだ)感覚。
二つ合わせて皮膚なのだけど、これは家族や友人関係でも同じな気がする。
自分と他者は皮膚で隔てているけど、他者を遮断する皮(かわ)感覚ではなく、他者と交通していく肌(はだ)感覚をもって付き合いたいと思う。
■ターミナル・ケア
医療の光と影に関して。
大学病院がやっている高価なガン治療、先端治療・・・その影の領域に、まともに治療すら受けるお金もなく、家族の縁もなく、孤独にさびしく死んでいっている人が大勢いる。
それは、華やかな光を受ける医療で生まれる、強烈な影の部分。
そんな現実を、現場で痛いほど感じる。
ターミナル・ケアというものがある。
キューブラーロスの話題で少し出てきた。
癌治療の末期など、死を看取っていくことがメインの患者さんへのケア。
ターミナル・ケアも、なかなか現状はうまくいかない。
全体の医療システムがそれに適ってないので、理想を実現するにはかなりの困難が伴う。
基本的には、現場の一人一人が自己犠牲に献身的に働くことで、なんとか成立しているというのが現状だ。
医療、福祉、介護、看護、生活保護・・・・そういう他の分野との連携や連動が、機能せず、現場で働いていても愕然とすることがある。
ただ、医療畑にいる人が、冷たい医療ではなく優しい医療を目指すことが大事だ。
そこには根気がいる。忍耐がいる。我慢がいる。
どれもほとんど死語に近いかもしれないけれど、大事なことはそういう言葉の中にある。
システムという大きな壁。
そこに阻まれないように注意しないと。
(→村上春樹さんの『村上春樹「エルサレム賞」より感じたこと(2009-02-25)』で出てた、高い壁と弱い卵の比喩を、思い出してしまう。)
■出演スタッフの演技もよかった
とにかく、暗くなりがちなテーマなんだけど、うまくエンターテイメントとして、娯楽として完成させていたのがよかった!
キャストの演技がうまかったしなぁ。
吉永小百合、笑福亭鶴瓶、蒼井優、加瀬亮・・みんな上手!
演技しながらも、いかに演技ではなく自然に演じるか。
そういう自己矛盾に近い、スレスレの演技がウマい人が多かった。さすがプロ。
いかにも感動させます!っていう意図的な演技は興ざめしちゃうことがある。
そういうのがなかったのがイイ。
医療の扱い方が、良くも悪くも少し過剰で誤解を与える気もしましたけど、現状の医療界に大きな問いを投げかけているとも感じました。
問題だとは分かっていても、頭の中でモヤモヤしたままだと、問いという土俵にすら立っていない。
そんな頭のモヤモヤを、問いの状態へと立ち上げる。何か反応ができる形にすることは、簡単なようですごく大事だ。初めの一歩。
映画「おとうと」は、涙あり、笑いありで、バランスのとれたイイ映画だと思う。
最近の邦画はイイよね~。面白い!
山田洋次監督の「おとうと」を見てきた。
本当は、「カールじいさんの空飛ぶ家」の前売り券を買っていたので、それを見ようと新宿ピカデリーに行ったら、祝日だからか恐るべき人の洪水。しかも満席で見れず。
それで、空いていて観たかった「おとうと」を観てきたのです。
「アバター」なんかも、どんなもんか、少し人が少なくなってきたら観てみたいー。
ということで、山田洋次監督の「おとうと」という映画ですが、予想以上に深く重い内容を含む映画でした。(人情もののホームドラマを勝手にイメージしてたもんで)
それにもかかわらず、この映画は、笑いあり、涙ありで、すごく満足しました。
こういうのこそエンターテイメントだなぁ。大衆娯楽だなぁ。
以前、市川崑監督が同じ内容で「おとうと」(1960年)として、映画化しているんですね。
■「パピヨン」とのシンクロ
映画の前日、田口ランディさんの「パピヨン」を4回目で読みなおして、三省堂でやっていた本人の朗読会にも行ったのです。
この本は、以前も感想を書いてます。
→『田口ランディ「パピヨン」、よしもとばなな「彼女について」(2009-01-12)』
ちょうど、よしもとばななさんの本と発売日が似ていて、すごくシンクロした内容だなぁなんて思ったものでした。
「パピヨン」は、家族の破壊と再生の物語。
それを、キューブラーロスというターミナル・ケアを作りだした方の話を軸としながら、自分の父親の死に寄り添う物語です。
自分の受け入れがたい父親の死を通して、自分や相手の人生を了解しなおして、受け止め、受け入れていく。
過去のトラウマを抱えた人たちの再生の物語というか。
そんな「パピヨン」を、朗読という形で耳から聞きなおしたところだった。
自分が担当した患者さんが死んだときを考え直したりして、なんだか自分の深い層に入っていたところでした。
→『印象深い患者さんの死を思う(2009-03-14)』
■光と影
映画「おとうと」も、同じようなものがテーマになっていて、その妙なシンクロに驚いた。
光と影は、自分の中でテーマのように感じてしまった。
たとえば、家族という物語の光と影であり、医療の光と影。
家族という物語の光と影に関して。
例えば、親戚の中に縁を切りたいと思っている親族がいるとする。
基本的に、そういう人は親族の関係性から消されていたり、最初からいなかったものとされていることがある。
例えば、精神病院に入院している、自殺している、犯罪歴がある・・・。
でも、そういう人は、安定した平和な家族の光に対して生まれた、影法師のようなもの。
家族とか血縁という全体を見た場合、何か大きなものを得ると、そこで全体のバランスが崩れ、影となる人へとしわ寄せが及んでいる可能性がある。
それは、自分だけが少し差別されたとか、いじめられたとか、冷たくされたとか、ほんの些細なことが始まりかもしれない。
ある人が光を受けるとき、地位や名誉を受けるとき、家族のバランスの中では影が出きていることがある。
光に対する影。部分ではなく全体を、あるがままみつめることは大事だ。
他者を排除するのではなく、どういう形で自分たちの中に受け入れていくか。
ポジティブシンキングではなく、他者を受け止める。
受け止めている自分自体も受け止める。
結局は、全体を丸ごと肯定できるかどうか。
■皮膚
ふと思った。皮膚のこと。
皮膚は皮(かわ)と膚(はだ)。
皮は皮肉、化けの皮など、少し悪いイメージがある。
肌は肌が合うなど、少し良いイメージがある。
皮は自己と他者を区別するもので、肌は自己と他者をつなぐもの。
皮は、果物がそうだけど、むいてしまえば終わりになる。
肌は内面と深く結び付く感じ。
外界を遮断する皮(かわ)感覚と、外界と交通していく肌(はだ)感覚。
二つ合わせて皮膚なのだけど、これは家族や友人関係でも同じな気がする。
自分と他者は皮膚で隔てているけど、他者を遮断する皮(かわ)感覚ではなく、他者と交通していく肌(はだ)感覚をもって付き合いたいと思う。
■ターミナル・ケア
医療の光と影に関して。
大学病院がやっている高価なガン治療、先端治療・・・その影の領域に、まともに治療すら受けるお金もなく、家族の縁もなく、孤独にさびしく死んでいっている人が大勢いる。
それは、華やかな光を受ける医療で生まれる、強烈な影の部分。
そんな現実を、現場で痛いほど感じる。
ターミナル・ケアというものがある。
キューブラーロスの話題で少し出てきた。
癌治療の末期など、死を看取っていくことがメインの患者さんへのケア。
ターミナル・ケアも、なかなか現状はうまくいかない。
全体の医療システムがそれに適ってないので、理想を実現するにはかなりの困難が伴う。
基本的には、現場の一人一人が自己犠牲に献身的に働くことで、なんとか成立しているというのが現状だ。
医療、福祉、介護、看護、生活保護・・・・そういう他の分野との連携や連動が、機能せず、現場で働いていても愕然とすることがある。
ただ、医療畑にいる人が、冷たい医療ではなく優しい医療を目指すことが大事だ。
そこには根気がいる。忍耐がいる。我慢がいる。
どれもほとんど死語に近いかもしれないけれど、大事なことはそういう言葉の中にある。
システムという大きな壁。
そこに阻まれないように注意しないと。
(→村上春樹さんの『村上春樹「エルサレム賞」より感じたこと(2009-02-25)』で出てた、高い壁と弱い卵の比喩を、思い出してしまう。)
■出演スタッフの演技もよかった
とにかく、暗くなりがちなテーマなんだけど、うまくエンターテイメントとして、娯楽として完成させていたのがよかった!
キャストの演技がうまかったしなぁ。
吉永小百合、笑福亭鶴瓶、蒼井優、加瀬亮・・みんな上手!
演技しながらも、いかに演技ではなく自然に演じるか。
そういう自己矛盾に近い、スレスレの演技がウマい人が多かった。さすがプロ。
いかにも感動させます!っていう意図的な演技は興ざめしちゃうことがある。
そういうのがなかったのがイイ。
医療の扱い方が、良くも悪くも少し過剰で誤解を与える気もしましたけど、現状の医療界に大きな問いを投げかけているとも感じました。
問題だとは分かっていても、頭の中でモヤモヤしたままだと、問いという土俵にすら立っていない。
そんな頭のモヤモヤを、問いの状態へと立ち上げる。何か反応ができる形にすることは、簡単なようですごく大事だ。初めの一歩。
映画「おとうと」は、涙あり、笑いありで、バランスのとれたイイ映画だと思う。
最近の邦画はイイよね~。面白い!