日常

2012-04-01 22:55:54 | 考え
自分は、なんだかんで性善説なんだと思う。

というのも、やはり赤ん坊や死ぬ直前の人を見ていると、どう見ようとどう念じても、どうにも悪人には見えないものだから。生のはじめとおわり。極端な場所だけど、素の場所だと思う。


もちろん、「善でも悪でもない。それは見ている側の心の反映にすぎない。」と言うのにも一理ある。
それはそれとして。
やはり人間の内側には、inner mostの最奥の場所には、やはり善としか言えないような法則があるんだと思う。


その内奥のinner mostこそが、道徳法則や倫理(モラル)そのものな気がする。そこから生まれたんじゃなかろうか。
その最内部の道徳法則に従えば、きっとこの世界はそれなりにうまくいってしまうようなもので。
それを外部化すると、規則とか法律とかになる。


最も内側というところが大事な点。

というのも、表面には無数の自我がプカプカと浮かんでいて、それは外部の無数の断片的な情報(それはたいてい誰かのエゴによって、ある意図を持って作られたもの)をつなぎあわせたものでできあがっている。
日常の浅い段階では役に立つけど、「善」そのものを見たいというような最も深い場所で見る光景では、ほとんどあてにならないことが多い。
何にしても、得意分野と不得意分野があるもので。


人間の内側には、そういう光輝く存在物がある。
それは立場とか年齢とか職業とか関係なく、人間である以上誰もが持っている。



「にんげん」は脳みそが何層にもコーティングされているから、少しだけ事柄がややこしくなっただけだと思う。

アメリカのポール・マクリーン(Paul MacLean)が「脳の三層構造説」という仮説を出した。
人間の脳は、内側から『ハ虫類脳→旧哺乳類脳→新哺乳類』の順番で進化し、高度化させてきた、と。

内側の1層目がハ虫類脳(reptilian brain)。自律神経系の中枢である脳幹と大脳基底核。心拍、呼吸、血圧、体温みたいな生命維持の機能を担う。種の保存というよりも自己保全の目的で機能する。

真ん中の2層目が旧哺乳類脳(paleomammalian brain)。海馬、帯状回、扁桃体のような「大脳辺縁系」から成る。
個体の生存維持と種の保存に役立つ快・不快の刺激と結びついている。本能的な情動や感情、行動など。原始的な防衛本能がある。

一番外側にある新しい3層目が新哺乳類脳。大脳新皮質の両半球(右脳・左脳)から成り立つ。言語機能と記憶・学習能力、創造的思考能力、空間把握機能などの高次脳機能。ヒトと高等哺乳類で発達した知性や知能。


ミルフィーユのような層構造。
生き物は、大脳新皮質を創り出したことで「にんげん」になった。
そして、自分の自由意思で生きていくために「自我(Ego、エゴ)」という司令塔を持って生きるようなシステムをとった。
でも、自我Egoはそれなりに強力だけど、もろ刃の剣だった。

自我Egoは、自分の特殊性や独自性を訴えるあまりに、「他との分離」という働きを持つ。だから、他者や自然との関係性を切ったり、自分が偉いとかうぬぼれのような錯覚や幻想と自分を同一化させようとする。

自我Egoは、「死にたくない」という機能を持つ。だから、自我を滅して働いたり奉仕したりすると、大脳新皮質の自我というものが、抵抗する。「そんなのしてもしょうがないでしょ、偽善でしょ・・・・」うんぬんという声は、他の誰の声でもなく、自我の声だと思う。


青春期は、大脳新皮質に自我が生まれてくるときだから、すごく不安定になる。
自分が何なのかよくわからないし、反抗期っていうのもそういう営みだと思う。
自我に自分が乗っ取られるんじゃないか、っていう恐怖とか、自我そのもののが感情と同一化しやすいし、それで暴力と言う形で外部化されると反抗期になる。



にんげんにとって、自我は大切な面もある。でも、大切ではない面も多い。時と場合による。いまは欠点が多く出ているから、社会がやや混乱気味になっている。

自我が大切だ、というのは、生命の長い歴史で、にんげんは「自我」というシステムを採用して獲得してきたとも言えるから。
あまりの無意識状態や本能状態は、ずっと夢見ていることになるから、それなりに弊害も多い。だから、自由意思で選択できるよう、生命は自我を作り出した。

だけど、その自我があまりに肥大すると、それに束縛される。
自我中心となり、エゴイズムになり、自分の利益しか考えなくなる。
自我に乗っ取られる。ある意味ウイルスのような面もあるんだと思う。
ほんとうは、生命全体(宇宙全体と言うと言いすぎな気がするので控えめに言ってみる)の方向付けというか、バランスをとるために自我が生まれたはずなのに。
なんでも簡単にはうまくいかないものだ。でも、失敗をするからこそ、人間は学習する。


自我は死にたくない、という働きがから、死という現象をあまり見せないように頑張っている。
だから、死を避ける。死を避ければ、お金や財産を蓄えることに躍起になれる。
でも、にんげんの肉体はいづれ死ぬから、財産とかお金とか、そういう外的なものを集めても実はほとんど意味がない。
それよりも、自我の内側にある本当の自分(それをユングは自己selfと呼ぶ)のためには、内的な栄養を与えてあげればいい。それは形を変えて生き続けるものだから。
そのことを、昔の宗教では霊魂不滅、と言った。表現方法は何をとってもいい、それは言語の問題であり、イメージの問題。メタファーの問題。



自我は、人間が獲得したもの。
でも、自我に支配されると、なんだかわけのわからない人生で終わってしまう。
自我から強制的に見せられた夢の中を生きるようなもので。


ブッダとは、目覚めたもの、という意味。
それは、自我が見せる夢から目覚める、ということでもあると思う。
だから、仏道に励む人は瞑想をする。目覚めるための瞑想。何から目覚めるのかを知るために、瞑想する。


瞑想をして、自我の活動を静かに冷静に観察して、「自我」が勝手に消えてゆくのを静かに観察し続ける。
そうすると、自我の防御がなくなるものだから、いろんなイメージ体験があふれてきて、それが悪魔からの誘惑とか、そんな感じの悪いイメージとして機能する。悪も見える。
イメージというものは、それなりの足場がないと、その世界に飲み込まれてしまうんだと思う。何でも一長一短。イメージの世界そのものと自分を同一化しなければいいと思う。

その中でも静かに観察しながら瞑想していると、いづれ静かで何もないときが訪れる。胎児のような時間。植物のような時間。石のような時間。
そのときに残って観察している主体そのものが、自己Self。そのひとそのもの。自分のinnner mostの場所だと思う。そこまで行けば、それはまがうことなく善なるものだと思う。



内側にある善なるものを知覚するには、外部化して外の世界で善なる行為をしていると分かりやすくなる。それはいづれ接近し同じものになっていく。
人間の認識システムは、内を見るために外に外部化するのが一番納得しやすい。だからそういう手法をとることが多い。

「余計なお世話」「おせっかい」「親切の押し売り・押し付け」は、善行でも善なる行為でも何でもなくて、自我が見せる夢。気をつけないといけない。



だから、ブッダが死ぬときアーナンダに言ったんだと思う。
----------------------------
『そのころもうわたしはこの世にいないが、真理を求める心を見つめれば道は見える。

自分自身を光として歩め。
わたしにすがってはならない。
わたしは特別な存在ではない。
神のようにあがめてはいけない。

わたしは生命あるひとりの人間にすぎない。
生命ある身だからこそ 生命の意味を考えたのだ。
死ぬ身だからこそ、死を受け入れる大切さを知ったのだ。

アーナンダよ、悲しんではいけない。その悲しみは執着だ。
大げさな葬儀は行うな。
そんなことより善行に励みなさい。』
----------------------------
と。



善を外部化することで、内部の善は見える。
内部の善が見えるから、善行として外部化することができる。
そうして、いろんなものが調和していく。


ただ、善は、「中にあるよね」と知っているだけでは何にもならない。
まだ生命を持たない。中にあるものを外に出していくことに、意味がある。
行為として外部化するとき、そのものは初めて光輝くものになる。

善は、自分の内側自体を強くつなげる錨のような働きでもあるし、自分と外とをつなげるものでもある。


内と外がひとつになると、「裏表がない」と言われる。
それが一般的に、善なる状態とされるのは、きっと偶然ではない。

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
質問 (YUTA)
2012-04-03 18:30:57
とても高尚で難しい話だと思います。

質問なんですが、「人間の内側」や「最内部の道徳法則」や「自我の内側にある本当の自分」というのは、「ハ虫類脳」と「旧哺乳類脳」が生み出している部分ということですか?
返信する
意識のゼロ・ポイント (いなば)
2012-04-03 21:50:39
意識のゼロ・ポイント (いなば)
2012-04-03 19:09:13
>>YUTAさん
善悪に関しては、いろいろ考えること多いです。深いです。
ただ、それでいて子供の方がよっぽどよくわかってる単純なことのような気もしてます。

そもそも2元論で考えるのがよくない、とか・・。
2元論の問題になると、それは言語の問題(言語自体が常に二元論的な世界を作りやすい)という問題に帰着するようにも思えますし。


上のブログでは分かりにくかったですが、「人間の最も内側」(ちなみに、inner mostは、ヒンズー教で言うところのアートマンです。アートマンは、Soulのようなものです)の場所が、「ハ虫類脳」とか「旧哺乳類脳」のような脳の構造的な三層構造の内側・・という意味ではないです。
あくまでも、内界として感じられる深さ、の問題で。

三層構造の話を出したのは、人間は大脳新皮質を獲得したこで、自我Egoを得た。ただ、その得られた自我Egoこそが、人間の良心のような再内奥のものを見せにくくしている、という意味合いです。 そういう意味で、子供とかは生々しい善悪概念の近傍につねにさらされているような気がします。一歩間違えば人を殺してしまうような危うさも持つ。。というか。(ただ、その時に内なる声として聞こえるのが「良心」のようなものでしょうか。)


井筒俊彦先生の説明で言うならば(「意識と本質」より)

========
表層意識
→(さらに深い場所)
「想像的」イマージュの場所。
元型はこの領域で様々なイマージュとして生起する。象徴的意義を与えたりする。
→(さらに深い場所)
言語アラヤ識領域。
意味的「種子」(ビージャ)が「種子」特有の潜勢性において隠在する場所。
ユングの言う集団的無意識の領域。元型成立の場所。
→(さらに深い場所)
意識化への動きを見せている「無意識領域」。
西洋だと、表層意識のすぐ下を無意識にするが、それは単なる「無」意識であって、「無意識」とは違う、と井筒先生はおっしゃる。
東洋では言語アラヤ識領域(ユングの集団的無意識の領域でさえ、ここですから)よりもさらに深い場所(言語が脱落した場所)が「無意識領域」と呼んでます。
→(さらにさらに深い場所へ・・)
いちばん深いところ(再内奥)に、井筒先生は「意識のゼロ・ポイント」という場所を設定しています。老子の言うTAO道に近いでしょうか。
========


自分としてはこの「意識のゼロ・ポイント」の上の「無意識領域」辺りを、inner mostであり、良心がうごめく場所のように考えてます。ほとんど言語化できない声のようなものですから。

井筒先生の『意識と本質』(岩波文庫)が、かなり詳細に追及してます。良心の話はあまり出てきませんが。。
この本はとんでもなくすごいです。井筒先生は激しく尊敬。


人間の本性は、善なるものであったり道徳法則に近いものでできていると思うんですよね。殺し合いをしたりするのは、自我Egoの病だと思ってます。なぜなら、Egoは他者と自分を分離する働きがありますから、そのEgoに飲み込まれると、殺人の論理に傾くからです。
とにかく注意すべきなのは、偽装したEgo自我に惑わされないよう、Egoの活動には不断から動きを観察して注意しなければいけない、っていうのがポイントだと思いますね。そのための系統的な訓練方法が、ヨーガや瞑想・・のようなものになるんだろうと、思ってます・・。ま、自分はどちらもやってないので偉そうなこと言える身分じゃないですが。。(^_^;
返信する
善行 (YUTA)
2012-04-05 16:47:19
そうですよね。善も悪も人間に特有の概念なので、むしろ大脳新皮質に属するものではないでしょうか。

「善行」と「親切の押し売り・押し付け」の区別は本当に難しくて、その行為をしている本人にも分かっていないと思います。誰にも善行をしたいという欲求がある。だからエゴを満足させるための善行になってしまう可能性が高いのではないでしょうか。

パウロは律法に従っているユダヤ人を批判し、ただ「信仰によって義とされる」のだと説いています。
返信する
自然 (いなば)
2012-04-07 07:30:56
>>>YUTAさん
<善も悪も人間に特有の概念なので>その通りだと思います。
たとえば、自然界の「弱肉強食」という概念がありますが、これは単に強い人(暴力的な人)が弱い人をいじめるときに自己正当化するための言葉として使われていると思いますね。そのルールとして、資本主義というスタイルも、お金儲けという形で自己正当化しているだけな気がしますね。
というのも、自然界はもともと<殺して食べるから悪い>とか、そういう概念はないと思いますね。動物的な無意識の領域(本能?)の中で、互いの種の均衡を考えながら、生き物全体の中でいのちが循環している。そういう自然界の法則の中で、表面的にみれば<強いものが弱いものを食べてる>ように見えて、そこだけを切り出して、人間界では自己正当化の論理としていいようにへ理屈でつかわれているだけ、な気がしますし。善悪というのも、そこと似たところがあるのかもしれません。

互いと互いの間でのこころのバランスや均衡の中で、善とか悪が相対的に感じられるだけで、短期的に(狭い視野で)みると「悪」のように見えるし、長期的に(広い視野で)みると「善」のように見えることもある。それはまた逆も然りです。


「善行」・「親切の押し売り・押し付け」の区別も、そういう自分の中でのバランス、そして自分と他者とのバランス、その閉鎖系の中でしか通用しないし、逆にいえばその閉鎖系の関係性の中でひとつずつ考えていくべき事柄なのだと感じます。

この人にとっては善行となっても、あの人にとっては善行にはならない・・・・ということはよくあるもので。その人間やいろんなものの
多様性を忘れて、自己正当化のために普遍性を持ちだすと、そのときに善も悪もほとんど言葉の響きだけで何の意味も持たないのかもしれませんねぇ。
返信する
補足 (YUTA)
2012-04-10 02:23:39
パウロについて補足すると、具体的には

《なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。》(ローマへの手紙3-20)
《なぜなら、私たちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。》(ローマへの手紙3-28)

この辺りのことです。善行というのは、何をしたかではなく、その時の心理によって決まるのではないでしょうか。同じ行いをしても動機が異なれば、人によって、また場合によって善行とそうでないものがあるのだと思います。

返信する
内的な交響圏 (いなば)
2012-04-10 08:23:18
>>Yutaさん
そうですね。自分もそう思います。
その時の心理(内的な世界)が、軽蔑であったり、裁いたり、批判であったり、優越であったり、支配であったり・・というようなものであったら、いかに表面的には善行のように見えても、やはり「余計なお世話」「おせっかい」として相手にも伝わると思います。それは、内的な交響圏のような場の中で響きあうというか。

それより、敬意、畏怖、感謝、・・のようなものを、僕らは無意識に感じるんだと思います。見返りのない無償の行為というか。そのひな型は、人によって異なると思いますが、親からの無償の愛だとか、動物への無償の愛だとか、い自分が敬愛する無償の愛であるとか、恋したときの無償の愛だとか、・・・そういう自分の実体験を寄る辺として、形成して感じていくものだと思いますね。 

表面的に現れる「行為」。これを僕らは外的な世界の現実として認知するわけですが、人間というのは、そんな外的な世界だけではなく、その動機やきっかけとなった内的な心理も、いくら微細であっても、内的な世界で届けあっているんだと思いますね・・・。それを明確に伝えあうのが芸術であると思います。もちろん、文学にも哲学にも、表面上の字面ではなく互いに共鳴しあい届け合うものがあると思いますし。

そういう意味でも、言葉や行為という形で、外的な世界でやりとるするのはひとつの手段や道具に過ぎないと思います。内的なものと外的なものが正確に一致したとき、ぼくらはそのもの以上のものを感知し、届け合うわけですから。



ふとときどき思うのが、村上春樹さんの1Q84は、そういう物語であるとも感じましたね。天吾と青豆は人生に翻弄され、いろいろ道を踏み外し、それぞれの魂は損なわれ始めている。ただ、小学生の時に互いに通じ合った愛のようなものを(それが単に手を握ったという感覚であったとしても)、それぞれの人生を作り出していく明確な寄る辺として、互いが人生をもう一度織りあげていくいく物語世界というか・・・。 まあ、これは一面にしかすぎません。春樹さんの物語世界は、あまりに多層に世界が重なり合って響き合っているので、感想を語るのが難しい。感想書くと何百枚も書けそうだしそれは結局、あの全3巻で言った内容と量そのままになってしまいます。

あ、、脱線しました・・

返信する