(トップ写真は、三木成夫先生の「生命形態学序説―根原形象とメタモルフォーゼ」うぶすな書院 (1992/11)より。腸管(植物性臓器)の歴史。)
いろいろな社会の問題をみるとき、「からだ」の問題に戻って考えてみるといい。
ひとのからだは60兆個の多細胞システムで、60兆個の細胞がひとつのからだを実にうまく成立させている。
一と多の絶妙な共存と調和のサンプルが、全員に考える素材として与えられている。
「生きている」ということはそういうことだ。
「からだ」の問題は、ひとつの単細胞から、多細胞という分業化・専門化の歴史であり、調和の歴史でもある。
社会問題の多くは、色んな専門家同士が、そもそもの大元をすっかり忘れてしまい、自分の領分のことだけしか考えなくなってしまったことにある(そして、そのこと自体に気づいていないことにもある)。
原発の問題もそう。新国立競技場の問題もそう。
だからこそ、外に象徴的に起こる問題を、我がこととしてひきつけて考えてみる。「からだ」の問題として。
■
医学や医療の起こりは、「死」の問題だ。哲学も宗教もそうだ。
人類は、「死」と出会い、うろたえ、かなしみ、憤り、心が乱れた。
そこをはじまりとして、医学は生まれ、哲学も生まれた。宗教もそう。心理学もそう。
いのちは「死」を初期設定として内在しているからこそ、その問いに答えるようにして、いま与えられた「生」のことを真剣に考えるのだ。
医学も死への切実な問題から生まれた。その問いの営みは壮大な知の体系をつくった。
ただ、その大元を忘れるほど、専門分化していき、みんなが困っている。
そういうときは、ひとのからだの歴史を見返してみて、専門分化・分業化の歴史と、そこで生まれた問題をいかに調和として解決しているのか、多くを学ぶ必要がある。
■
だからこそ、医学や医療を、閉ざしていくと、おかしなことになる。
それは、他の業界でもそうだ。
昨日、表参道のかぐれにて講演をさせていただいた。
(かぐれFbページ、かぐれブログ)
自分は徹夜で資料をつくり、その熱はきっと聞き手の方に伝わっただろうと思っている。
なぜ自分がそこまでするとか言うと、かぐれは、洋服を売るだけではなく、ライフ(生活)のことを広く大きくとらえ、色々なつながりを作ろうとする試みを積極的に行っていて、素晴らしいと思うから。
たいていのお店は、商品を売買して利益を上げることで終わってしまう。それが残念に思う。
だから、自分はかぐれの試みを応援する。がんばれ!
服飾やファッションが、狭い世界に閉じていくのではなく、なぜそのように専門分化したのか、からだのメタファーを思い出しながら考える。
地域や社会や地球という一つの「からだ」の重要な部分を担うために専門化したはずだから。
個々の持ち場をしっかり確実に行うのは、「からだ」という全体の調和の場を成立させるために、おこなっているはずだから。
医療も医学も閉じては行けないと思うから、自分は対話の場へと、出ていく。
地域や社会や地球というひとつのからだが、危険サインを出していることを感じるから。その全体の調和をはかるために。
そういう仕事は、喜んでさせて頂く。
誰かのエゴのためではなく、未来のための仕事には、自分は協力を惜しまない。
■
そもそも、わたしたちはなぜこの世に裸一貫で生まれてきたのだろう。
羊水という海の中からこの地球に生まれてきた。
わたしたちは何ゆえに、そんな不可思議な経路をたどり、この世界に生まれてきたのだろう。
知らないうちにわたしたち全員が渡されているこの「からだ」=「こころ」という教材。
「からだ」や「こころ」は、私たちに何を託そうとしているのだろうか。
■
色々な社会の問題を見渡す。
からだは、60兆個の多細胞システムを毎日難なく運営しているから。地球や社会をひとつのからだとして考えてみて、からだがなぜうまく働いていないのかを考えてみるといい。
皮肉なことに、からだの見事なシステムを思い出すのは、からだや心を痛めたとき。
それは、ある意味では悲劇だが、別の観点から見ると、そうでもしないと思い出さないほど当り前だ、という幸せなことでもある。
生まれた時から大きな病を抱えている人は、自分のからだの問題をつかず離れず考えさせられる難しく偉大な課題を渡された人たちだ。そういう人たちと、自分は日々接していて、自分も日々考える。
■
免疫システム、自律神経システム、内分泌システム・・・・。血管や神経。ひとのからだには、部分と部分をつなぐための重要な仕組みがある。そういうシステムが作動している。
では、地域や社会や地球において、誰がその役割を担っているのだろうか。
・・・・・・・
それは、そう気づいた人だ。
そういう役割があるからこそ、気付ける。
思い出した、というべきかもしれない。
心臓には心臓の、肝臓には肝臓の、脳には脳の役割があるのと同じで、免疫・自律神経・内分泌システムには、そのシステムなりの役割がある。血管や管は植物世界の情報を運び、神経は動物世界の情報を運ぶ。
部分と全体。部分は全体のために、全体は部分のために。
部分は全体により生かされ、全体は部分により生かされる。
「社会問題」は、それぞれの人が、地域や社会や地球を「ひとつのからだ」とみなした時、どの役割を担っているだろうのだろうか、と考えてみるための教材。社会が出した問題だから「社会問題」。
問題を出してくれるから「問題児」なのだ。
すべては、謎々のようなものだ。模範解答で答えが出ないときは、とんち(頓知)が必要だ。
■
60兆個の細胞は、毎日働いている働き物の細胞もあるし、必要なときにちゃんと働けるよう平常時はゆっくり休んでいる細胞もある。
そして、それぞれに役割がある。そこに上下はなく、善悪もない。
そんなことを思い出すために、自分たちはからだ・こころという未来的な乗り物を使わせてもらっている。
からだやこころという素晴らしき存在は、数百億年の宇宙の祈りや願いがすべて込められた芸術作品なのだ。
そして、いまここに存在している存在物はすべて、その最先端にたっているのだ。
ヒトも、いま生きている人はすべてそう。
すべての生きとし生きている人が、全員その最先端にたっている。
この大舞台は常に本番だ。
亡くなってしまった人全員が応援している。
がんばれ!わたしたちの思いを受け継いで!任せたよ!だいじょうぶ!
自分のからだと日々対話をしていると、耳をすましていると、そんな声が聞こえてくる。
いろいろな社会の問題をみるとき、「からだ」の問題に戻って考えてみるといい。
ひとのからだは60兆個の多細胞システムで、60兆個の細胞がひとつのからだを実にうまく成立させている。
一と多の絶妙な共存と調和のサンプルが、全員に考える素材として与えられている。
「生きている」ということはそういうことだ。
「からだ」の問題は、ひとつの単細胞から、多細胞という分業化・専門化の歴史であり、調和の歴史でもある。
社会問題の多くは、色んな専門家同士が、そもそもの大元をすっかり忘れてしまい、自分の領分のことだけしか考えなくなってしまったことにある(そして、そのこと自体に気づいていないことにもある)。
原発の問題もそう。新国立競技場の問題もそう。
だからこそ、外に象徴的に起こる問題を、我がこととしてひきつけて考えてみる。「からだ」の問題として。
■
医学や医療の起こりは、「死」の問題だ。哲学も宗教もそうだ。
人類は、「死」と出会い、うろたえ、かなしみ、憤り、心が乱れた。
そこをはじまりとして、医学は生まれ、哲学も生まれた。宗教もそう。心理学もそう。
いのちは「死」を初期設定として内在しているからこそ、その問いに答えるようにして、いま与えられた「生」のことを真剣に考えるのだ。
医学も死への切実な問題から生まれた。その問いの営みは壮大な知の体系をつくった。
ただ、その大元を忘れるほど、専門分化していき、みんなが困っている。
そういうときは、ひとのからだの歴史を見返してみて、専門分化・分業化の歴史と、そこで生まれた問題をいかに調和として解決しているのか、多くを学ぶ必要がある。
■
だからこそ、医学や医療を、閉ざしていくと、おかしなことになる。
それは、他の業界でもそうだ。
昨日、表参道のかぐれにて講演をさせていただいた。
(かぐれFbページ、かぐれブログ)
自分は徹夜で資料をつくり、その熱はきっと聞き手の方に伝わっただろうと思っている。
なぜ自分がそこまでするとか言うと、かぐれは、洋服を売るだけではなく、ライフ(生活)のことを広く大きくとらえ、色々なつながりを作ろうとする試みを積極的に行っていて、素晴らしいと思うから。
たいていのお店は、商品を売買して利益を上げることで終わってしまう。それが残念に思う。
だから、自分はかぐれの試みを応援する。がんばれ!
服飾やファッションが、狭い世界に閉じていくのではなく、なぜそのように専門分化したのか、からだのメタファーを思い出しながら考える。
地域や社会や地球という一つの「からだ」の重要な部分を担うために専門化したはずだから。
個々の持ち場をしっかり確実に行うのは、「からだ」という全体の調和の場を成立させるために、おこなっているはずだから。
医療も医学も閉じては行けないと思うから、自分は対話の場へと、出ていく。
地域や社会や地球というひとつのからだが、危険サインを出していることを感じるから。その全体の調和をはかるために。
そういう仕事は、喜んでさせて頂く。
誰かのエゴのためではなく、未来のための仕事には、自分は協力を惜しまない。
■
そもそも、わたしたちはなぜこの世に裸一貫で生まれてきたのだろう。
羊水という海の中からこの地球に生まれてきた。
わたしたちは何ゆえに、そんな不可思議な経路をたどり、この世界に生まれてきたのだろう。
知らないうちにわたしたち全員が渡されているこの「からだ」=「こころ」という教材。
「からだ」や「こころ」は、私たちに何を託そうとしているのだろうか。
■
色々な社会の問題を見渡す。
からだは、60兆個の多細胞システムを毎日難なく運営しているから。地球や社会をひとつのからだとして考えてみて、からだがなぜうまく働いていないのかを考えてみるといい。
皮肉なことに、からだの見事なシステムを思い出すのは、からだや心を痛めたとき。
それは、ある意味では悲劇だが、別の観点から見ると、そうでもしないと思い出さないほど当り前だ、という幸せなことでもある。
生まれた時から大きな病を抱えている人は、自分のからだの問題をつかず離れず考えさせられる難しく偉大な課題を渡された人たちだ。そういう人たちと、自分は日々接していて、自分も日々考える。
■
免疫システム、自律神経システム、内分泌システム・・・・。血管や神経。ひとのからだには、部分と部分をつなぐための重要な仕組みがある。そういうシステムが作動している。
では、地域や社会や地球において、誰がその役割を担っているのだろうか。
・・・・・・・
それは、そう気づいた人だ。
そういう役割があるからこそ、気付ける。
思い出した、というべきかもしれない。
心臓には心臓の、肝臓には肝臓の、脳には脳の役割があるのと同じで、免疫・自律神経・内分泌システムには、そのシステムなりの役割がある。血管や管は植物世界の情報を運び、神経は動物世界の情報を運ぶ。
部分と全体。部分は全体のために、全体は部分のために。
部分は全体により生かされ、全体は部分により生かされる。
「社会問題」は、それぞれの人が、地域や社会や地球を「ひとつのからだ」とみなした時、どの役割を担っているだろうのだろうか、と考えてみるための教材。社会が出した問題だから「社会問題」。
問題を出してくれるから「問題児」なのだ。
すべては、謎々のようなものだ。模範解答で答えが出ないときは、とんち(頓知)が必要だ。
■
60兆個の細胞は、毎日働いている働き物の細胞もあるし、必要なときにちゃんと働けるよう平常時はゆっくり休んでいる細胞もある。
そして、それぞれに役割がある。そこに上下はなく、善悪もない。
そんなことを思い出すために、自分たちはからだ・こころという未来的な乗り物を使わせてもらっている。
からだやこころという素晴らしき存在は、数百億年の宇宙の祈りや願いがすべて込められた芸術作品なのだ。
そして、いまここに存在している存在物はすべて、その最先端にたっているのだ。
ヒトも、いま生きている人はすべてそう。
すべての生きとし生きている人が、全員その最先端にたっている。
この大舞台は常に本番だ。
亡くなってしまった人全員が応援している。
がんばれ!わたしたちの思いを受け継いで!任せたよ!だいじょうぶ!
自分のからだと日々対話をしていると、耳をすましていると、そんな声が聞こえてくる。
わかりやすく、ちゃんと伝わる。
とても良い経験をされたんですね。
おめでとう!
以前、記事にコメントさせていただいた新人理学療法士です。
記事の内容と少しずれるんですが、
また一人の灯火が消えようとしています。
リハチームの中では、こうなる前から何かおかしいと数ヶ月にわたし、上にあげていたのに、主治医が動き出したのはSpO2が86になってからでした。
Drによって救える命、失われる命があるんでしょうか。
PTなので、Dr、Nsに比べ、全身状態の把握は得意ではありませんが、明らかにおかしかったんです。
いくらリハから主治医に伝えても、主治医が動いてくれなければ何も起こらない。
こんな世界なんでしょうか。
私は人を助けたくて、医療の道を目指したのに、素直に受け入れられないことが多いです。
プロの作家の方におほめ頂けるのは光栄です。(^^;
>新人理学療法士さん
そうですね。現場で感じる矛盾や葛藤と言うのは、自分の糧になるものだと思いますよ。
自分も、最初は人を治すことに夢中になっていましたが、それもある程度の限界があることに気付きました。
次に、相手が治っていく、という自然治癒・自己治癒の追求の方に夢中になりましたが、それもある程度の限界があることに気付きました。
今は、治す、とか、治るとか、ではなく、その人がどのように生きていくのか、人生を送るのか、そういうことに寄りそうように関心が向いています。
その人がよりよい生を生きること、そこを黒子に徹しながら寄りそうこと、そこが大切なことだと思います。相手の人生の主役は相手ですし、同様に自分の人生の主役は自分です。そういうことを、日々感じながら、医療の矛盾をどう統合させていくのか、前向きに考えている日々です。