■新刊 11/30
村上春樹さんの対談本「小澤征爾さんと、音楽について話をする」が新潮社から11/30に出ます。
うひょー。楽しみ。待てずに思わずブログに紹介してしまいました。春樹ファンのために。
『モンキービジネス 2011 Spring vol.13 ポール・オースター号』の中に、このお二人の対談が載ってたんですよね。
過去のブログでも引用しましたが(→2011/5/17)、とてもいい対談だと感じていたのです。
■ふかさ
人間の魅力にはいろいろありますが、そのひとつに「深さ」というものがあります。
表面は洋服や整形で整えることができても、人間の「深さ」はそう容易く作り上げることはできません。
縦と横という2次元世界をバーチャルな世界だとすると(今はこのバーチャルな世界が幅を利かせています)、この僕らが生きている生の自然はその2次元に「深さ」という次元がひとつ加わった3次元の世界です。
縦と横だけでなく、人間は深さを持つ。
日常使う意識の層は「浅い」層。
ああすればこうなるし、こうすればそうなる。
右から左に動かし、左から右に動かす。
ただ、僕らはそういう日常の「浅い」層だけではなくて「深さ」を感じさせる「深い」層も持ち合わせています。
層が深くなればなるほど、そこでは僕らが尺度とする「時間」や「空間」や「理性」や「常識」や・・そういうモノサシが意味をなさなくなります。とても危険な領域です。
着飾ったものはすべて取り外され、ひとりの人間として丸裸にされてしまいます。
ただ、僕らは丸裸で生まれてきたし、丸裸で死んでいく。それは擬似的に最初に戻ったとも言えるし、擬似的に最後に戻ったとも言える。
■うそ
僕らは、嘘をついたりしながら、表面の「浅い」層を取り繕うことを覚えながら生きています。(そして、それは自分の「深い」場所から冷静に観察すればよく分かります)
正直なところ、この世界に嘘がないのが理想なのでは、と思います。それはまるで子供ような無邪気でイノセントな意見かもしれません。
子供は、最初は嘘のない世界で生きています。
ただ、成長の過程で、生きていく過程で。いろんな葛藤や体験をくぐり抜けながら、嘘をつくことが当たり前のようになります。
嘘のつき方は誰もが自己流で習得しています。誰に教わるでもなく、大人の態度から無意識に盗み取るスキルです。
そして、そんな風に自分が無意識に作りあげた巨大な「うその世界」から抜け出ることができなくなった人もいます。
でも、誰もが生まれながらの嘘つきではないと思います。
嘘とは、この世界を円滑にスマートに滑らかに生きていくために学習した、便宜的な潤滑油にすぎません。
それは、あくまでも便宜的なものです。目的でも行きつく先でも安住の地でもありません。
層の「深さ」が深くなればなるほど嘘は消えていく。むしろ、うそもほんともない、なんでもないあるがままの場所へと連れて行かれます。
そこはまるで宇宙空間のようなところ。
僕らのイメージ世界にある宇宙空間のような領域です。
前が前なのか。後ろは前なのか。下が下なのか上が上なのか。下が上で上が右なのか。
↑→←↓←↑→↓・・・・・
何もかも分からなくなります。
時間は、自分の心臓の鼓動を尺度にするしかありません。
■やみ ひかり
そんな暗闇の「深い」場所を通り抜けるからこそ、僕らは光を認識できる。
闇があるからこその光です。光だけの空間では真っ白で何も見えません。
この世界のほとんどを占める宇宙は、ほぼすべてが闇の世界。
その闇の宇宙の中で、燃える太陽の光線が当たると、惑星の表面だけが光り輝きます。
はるか「深い」光源や熱源から、はるか長い距離を旅して、「浅い」場所が光り輝く。
「浅い場所」だけが目に見える場所です。
パッと見ではあまり区別がつきませんが、丁寧に目を凝らしてみると、そこには明確な違いがある。
そこにこそ、その人の魅力が垣間見える。
「見よう」という意思を持って目を凝らすからこそよく見えるのです。
そんな「深い」魅力を、このお二人からは強く感じます。
補足。
対談からは、神は細部に宿る、というものも感じます。
ひとつひとつのディテールを、ガラス細工のように異性の肌のように丁寧に扱うことこそが、人格と言う大きな建造物をつくる重要な基礎になる。
ひとつひとつのディテールを大切にしながら歩むことが、時間や歴史をその建造物に吹き込む。
そのことで3次元の建造物は4次元を生きる連続時空体の生命へと変わっていくのだろう、と、思います。
補足2。
自分が大好きな武満徹さんとの対談本もありますよね。武満さんも深すぎて深すぎる人。
タイトルが直球で素敵だ。
小澤征爾、武満徹「音楽」新潮文庫(1984/05)
・・・・・
発売の11月30日が楽しみ!
『モンキービジネス 2011 Spring vol.13 ポール・オースター号の村上春樹×小澤征爾対談』より引用
****************************
村上「音楽とは基本的に、人を幸福な気持ちにするべきものなのだと考えている。
そこには人を幸福にするための実に様々な方法や道筋があり、その複雑さが僕の心をごく単純に魅了する。」
****************************
****************************
(1996年の古楽器でのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第三番を評して)
小澤「子音が出てこないですよね。
・・・・・
『あああ』というのは母音だけの音です。
それに子音がつくと、たとえば『たかか』とか『はささ』という音になります。要するに、母音にどういう子音がつけていくかですね。
『た』とか『は』とかを最初につけるのは簡単なんです。でもそれに続く音が難しい。『たたた』というと子音ばかりになって、メロディーが潰れちゃうけれど、それを『たらぁらぁ』といくか、それとも『たわぁわぁ』といくかで音の表情が変わってきます。
音楽的に耳が良いというのは、その子音と母音のコントロールができるということです。」
****************************
***************************
小澤「この2楽章(ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第三番)なんかは、指揮者がみんなの代表者になって、どういう風に入るか、はあっと入るのか、はっと入るのか、それとももっと曖昧に思いを込めて『(は)・・』と入るのか、
きちっと決めなくちゃなりません。そしてそれをみんなに伝える。
まあ最後のやり方はいささか危険ですけどね。
でもみんなに危険を察知させておいて、そうしておいてからそろっと入る・・・そういう入り方もあります。」
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村上春樹さんの対談本「小澤征爾さんと、音楽について話をする」が新潮社から11/30に出ます。
うひょー。楽しみ。待てずに思わずブログに紹介してしまいました。春樹ファンのために。
『モンキービジネス 2011 Spring vol.13 ポール・オースター号』の中に、このお二人の対談が載ってたんですよね。
過去のブログでも引用しましたが(→2011/5/17)、とてもいい対談だと感じていたのです。
■ふかさ
人間の魅力にはいろいろありますが、そのひとつに「深さ」というものがあります。
表面は洋服や整形で整えることができても、人間の「深さ」はそう容易く作り上げることはできません。
縦と横という2次元世界をバーチャルな世界だとすると(今はこのバーチャルな世界が幅を利かせています)、この僕らが生きている生の自然はその2次元に「深さ」という次元がひとつ加わった3次元の世界です。
縦と横だけでなく、人間は深さを持つ。
日常使う意識の層は「浅い」層。
ああすればこうなるし、こうすればそうなる。
右から左に動かし、左から右に動かす。
ただ、僕らはそういう日常の「浅い」層だけではなくて「深さ」を感じさせる「深い」層も持ち合わせています。
層が深くなればなるほど、そこでは僕らが尺度とする「時間」や「空間」や「理性」や「常識」や・・そういうモノサシが意味をなさなくなります。とても危険な領域です。
着飾ったものはすべて取り外され、ひとりの人間として丸裸にされてしまいます。
ただ、僕らは丸裸で生まれてきたし、丸裸で死んでいく。それは擬似的に最初に戻ったとも言えるし、擬似的に最後に戻ったとも言える。
■うそ
僕らは、嘘をついたりしながら、表面の「浅い」層を取り繕うことを覚えながら生きています。(そして、それは自分の「深い」場所から冷静に観察すればよく分かります)
正直なところ、この世界に嘘がないのが理想なのでは、と思います。それはまるで子供ような無邪気でイノセントな意見かもしれません。
子供は、最初は嘘のない世界で生きています。
ただ、成長の過程で、生きていく過程で。いろんな葛藤や体験をくぐり抜けながら、嘘をつくことが当たり前のようになります。
嘘のつき方は誰もが自己流で習得しています。誰に教わるでもなく、大人の態度から無意識に盗み取るスキルです。
そして、そんな風に自分が無意識に作りあげた巨大な「うその世界」から抜け出ることができなくなった人もいます。
でも、誰もが生まれながらの嘘つきではないと思います。
嘘とは、この世界を円滑にスマートに滑らかに生きていくために学習した、便宜的な潤滑油にすぎません。
それは、あくまでも便宜的なものです。目的でも行きつく先でも安住の地でもありません。
層の「深さ」が深くなればなるほど嘘は消えていく。むしろ、うそもほんともない、なんでもないあるがままの場所へと連れて行かれます。
そこはまるで宇宙空間のようなところ。
僕らのイメージ世界にある宇宙空間のような領域です。
前が前なのか。後ろは前なのか。下が下なのか上が上なのか。下が上で上が右なのか。
↑→←↓←↑→↓・・・・・
何もかも分からなくなります。
時間は、自分の心臓の鼓動を尺度にするしかありません。
■やみ ひかり
そんな暗闇の「深い」場所を通り抜けるからこそ、僕らは光を認識できる。
闇があるからこその光です。光だけの空間では真っ白で何も見えません。
この世界のほとんどを占める宇宙は、ほぼすべてが闇の世界。
その闇の宇宙の中で、燃える太陽の光線が当たると、惑星の表面だけが光り輝きます。
はるか「深い」光源や熱源から、はるか長い距離を旅して、「浅い」場所が光り輝く。
「浅い場所」だけが目に見える場所です。
パッと見ではあまり区別がつきませんが、丁寧に目を凝らしてみると、そこには明確な違いがある。
そこにこそ、その人の魅力が垣間見える。
「見よう」という意思を持って目を凝らすからこそよく見えるのです。
そんな「深い」魅力を、このお二人からは強く感じます。
補足。
対談からは、神は細部に宿る、というものも感じます。
ひとつひとつのディテールを、ガラス細工のように異性の肌のように丁寧に扱うことこそが、人格と言う大きな建造物をつくる重要な基礎になる。
ひとつひとつのディテールを大切にしながら歩むことが、時間や歴史をその建造物に吹き込む。
そのことで3次元の建造物は4次元を生きる連続時空体の生命へと変わっていくのだろう、と、思います。
補足2。
自分が大好きな武満徹さんとの対談本もありますよね。武満さんも深すぎて深すぎる人。
タイトルが直球で素敵だ。
小澤征爾、武満徹「音楽」新潮文庫(1984/05)
・・・・・
発売の11月30日が楽しみ!
『モンキービジネス 2011 Spring vol.13 ポール・オースター号の村上春樹×小澤征爾対談』より引用
****************************
村上「音楽とは基本的に、人を幸福な気持ちにするべきものなのだと考えている。
そこには人を幸福にするための実に様々な方法や道筋があり、その複雑さが僕の心をごく単純に魅了する。」
****************************
****************************
(1996年の古楽器でのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第三番を評して)
小澤「子音が出てこないですよね。
・・・・・
『あああ』というのは母音だけの音です。
それに子音がつくと、たとえば『たかか』とか『はささ』という音になります。要するに、母音にどういう子音がつけていくかですね。
『た』とか『は』とかを最初につけるのは簡単なんです。でもそれに続く音が難しい。『たたた』というと子音ばかりになって、メロディーが潰れちゃうけれど、それを『たらぁらぁ』といくか、それとも『たわぁわぁ』といくかで音の表情が変わってきます。
音楽的に耳が良いというのは、その子音と母音のコントロールができるということです。」
****************************
***************************
小澤「この2楽章(ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第三番)なんかは、指揮者がみんなの代表者になって、どういう風に入るか、はあっと入るのか、はっと入るのか、それとももっと曖昧に思いを込めて『(は)・・』と入るのか、
きちっと決めなくちゃなりません。そしてそれをみんなに伝える。
まあ最後のやり方はいささか危険ですけどね。
でもみんなに危険を察知させておいて、そうしておいてからそろっと入る・・・そういう入り方もあります。」
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うそについて、考える。
たとえ、うそで人は騙せても、絶対に自分だけは騙せなくて、自分だけはそのほんとうを知っている。自分にだけはうそをつけない、ということは、自分が自分であるということの恐ろしさでもあるし、痛快さでもあると感じます。
自分のことがどうしても嫌いだった頃、自分という人間が、実は着ぐるみを着ていて、それを脱げば他の何かになれるのだったら面白いのに、とも思っていたけど、死ぬときって、つまり、そういう感じなのかもしれないな。それと同時に、そういうことを考えていたときに、「ああ、自分という人間からは抜け出れないのだ!」と、強烈な実感が、自分を掴んで、恐ろしくなったことがあります。わたしがわたしであること、をまざまざと感じた瞬間だったなあ。巡り巡って、今は、自分が自分のよき先生になり、味方であることって大切だなあと感じます。自分とのうまい付き合い方が、今更やっと分かってきたというか。。遅い。。。
うそに、話を戻すと、私は、「やさしいうそ」ってあるような気がしているのです。
例えば、「サンタっているの?」という、子どもに対して、多分「いないよ!」とは言わないし、
例えば、余命が長くないと告知されている人の息子さんが、事故に遭っても、多分、そのことは伝えないだろう。大切な人のほんとうを守るために、やさしいうそで包むこともある、ような気がするのです。それは真心やちょっと覚悟が要ることなのだろうけれど。
「最後まで押し通せなかったら やさしさではない。
途中でくじけるなら悪人になればいい。 やさしさは根性です。」
という、北野武のことばを思い出します。
大切な人だからこそ、うそをつかないし、つけないけれど、
大切な人だからこそ、うそをつくこともある。
人間って複雑な織物ー
いしいいんじさんの「プラネタリウムのふたご」という作品が
個人的にとても好きなのですが、あそこで、いしいさんは、
手品師になったふたごのひとりを通じて、うそについて、
闇のあたたかさについて、だまされることについて、
描いています。すごい作品なんだよなー!と興奮するのだけれど、
あまり、ピンときてくれる人がいなくて、さびしいものです・・・
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8D%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%81%94-%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%84-%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%98/dp/4062118262/ref=cm_cr_pr_product_top
「手品師の舞台は、演芸小屋や劇場にかぎらない。私たち手品師は、この世のどんな場所でも、指先からコインをひねりだし、カードを宙に浮かせ、生首のまま冗談をとなえつづけなければならないのだ。いうなれば私たちはみな、そろいもそろって、目に見えない六本目の指をもっている。手品師たちのその見えない指は、この世の裏側で、たがいに離れないよう、密かに結ばれあっているものなのだよ」
「だまされる才覚がひとにないと、この世はかさっかさの世界になってしまう。」
小さいときに、デパートの手品コーナーが大好きで、
ずっとそのテーブルに貼りついていました。
だまされることの面白さをあの時初めて知ったのだろうな。
芸術というのは、ある意味、だまされることのような気もします。
小説、フィクションというのは、考えてみれば、全部うそなわけで、
それを読んで、心を動かされたり、日常が潤ったりする。
だまされる才覚がなくなったら、確かに、この世はかっさかさ。。
うそって、深いなー
長くなったけど、もうひとつ。
この谷川俊太郎さんの詩。ステキです↓
「闇は光の母」
闇がなければ光はなかった
闇は光の母
光がなければ眼はなかった
眼は光の子ども
眼に見えるものが隠している
眼に見えぬもの
人間は母の胎内の闇から生まれ
ふるさとの闇へと帰ってゆく
つかの間の光によって
世界の限りない美しさを知り
こころとからだにひそむ宇宙を
眼が休む夜に夢見る
いつ始まったのか私たちは
誰が始めたのかすべてを
その謎に迫ろうとして眼は
見えぬものを見るすべてを探る
ダークマター
眼に見えず耳に聞こえず
しかもずっしりと伝わってくる
重々しい気配のようなもの
そこから今もなお
生まれ続けているものがある
闇は無ではない
闇は私たちを愛している
光を孕み光を育む闇の
その愛を恐れてはならない
(谷川俊太郎)
個の本、ほんと楽しみです。
今回の本になる前のMonkeyBusinessの雑誌に載ってた限りを見ても、いかに春樹さんが音を正確に聞き分けているかがよくわかりました。いろんな音が複合的に聞こえていても、それを層状に同時並行的に聞いているというか。ほんとうに指揮者のような感性で驚きましたね。。
>『たとえ、うそで人は騙せても、絶対に自分だけは騙せなくて、自分だけはそのほんとうを知っている。自分にだけはうそをつけない』
そうなんですよね。
認知小の話をしたときにも、ユングやフロイトを引用しながら「自我egoと自己self」としての「わたし」の話をしたんですが、egoというのは意識上の表面を滑らかにしようとするので、騙そうと思うし騙せると思い込んでいるものです(ただ、ここもあくまでもegoが「そう思い込んでいる」というのがポイントで、他の人がどう受け取っているかは永久にわかりません)。ただ、egoではなくself(自己)としての自分は絶対隠せないと思うんですよね。なぜなら、それこそが「わたし」の全体なのですから。嘘を言うとか騙すとか、そういうことをたくらんだりたくらまなかったり、後悔したり後悔しなかったり・・・そういうすべての経験や記憶の総体が、全体としての自己Selfですからね。
この辺を話し出すと、どんどん深い話になっていきますが、そういう意味でも「ほんとうのことを知っているのは「わたし」だ」というときに、より正確にいえば「どんなに自我egoが表面的に包み隠そうとも、嘘をつこうとも、意識も無意識も全部含めた全体的な「わたし」としての自己Selfはなんでも知っている。」ということになるでしょうか。
ユングは、そんな自己Selfは、さらに深めていくと集合的な無意識として、わたしとあなたを超えてひろがっていく、と述べていますが、この辺りを深めていくとすごく面白いものですよねぇ。
そうなると、自我egoというのが着ぐるみのようなものですよね。他者に対して見せている「わたし」。でも、その中には自我という気ぐるみを着ている「わたし」がいて、それを「わたし」の核とすると、SoulとかSpiritとか魂とか呼んでいいと思うんですよね。そして、その全体を表すのが自己Selfというか。だから、いづれ自我Ego=自己Selfに近付いて行くわけですが、それをありのままの自分と言ったり、仏教で目指す「無我」というのも、自我という気ぐるみをぬいで自己としての「わたし」へと至るというか。 夏目漱石の「則天去私」と言うところの「私」も「自我EGO」という意味での「わたし」だと思いますね。自我Egoとしての気ぐるみを脱いで、天(=自然の法則)にのっとって生きるというか。
こういう話を、実際認知症の講演のときにも織り交ぜた気がします。
人間は、やはりある機能を失わないと、それがどのような機能をしていたのか、なかなか気づけないものなんですよね。病気になってはじめて健康のありがたみがわかるもので。
だから、認知症というものは記憶障害のひとつでもありますが、そういう状態を深く考察すると、それは人間そのものの考察にいたるんだと思います。
>>『私は、「やさしいうそ」ってあるような気がしているのです。』
そうですね。自分も、「うそ」というのは本来潤滑油だと思っているんですよね。
この世界を正直に素直に生きていくのはしんどい。
<真実は劇薬で、うそは常備薬>というのも同じようなもので。
ある種の時に現実というのは激しい副作用やアレルギー反応を示すことがある。
適切な時期が来ていないと、そのことで死んでしまうかもしれない。
だから、適切な時期が来るまで、うそでやさしくくるみ、その時期を待つんだと思いますね。
「やさしいうそ」でくるまれた人は、うそではないありのままの現実と向き合わないといけない。それは、たったひとりの戦いです。でも、それはいづれ誰もが乗り越えれると、自分は思っているんですよね。それだけ、人間は可能性に開かれている。自我Egoという狭い視野だけで満足しているのが人間ではなく、自我だけではなく他者にも思いをはせることができるのが人間で、それだけ可能性に開かれている存在が「わたし」という存在だし、それは自我Egoだけではなく自己Selfとしての「わたし」なのだと思います。
>『いしいいんじさんの「プラネタリウムのふたご」』
「手品師の舞台は、演芸小屋や劇場にかぎらない。私たち手品師は、この世のどんな場所でも、指先からコインをひねりだし、カードを宙に浮かせ、生首のまま冗談をとなえつづけなければならないのだ。いうなれば私たちはみな、そろいもそろって、目に見えない六本目の指をもっている。手品師たちのその見えない指は、この世の裏側で、たがいに離れないよう、密かに結ばれあっているものなのだよ」
「だまされる才覚がひとにないと、この世はかさっかさの世界になってしまう。」
いしいいんじさんの本は読もうとおもって買っていたけど、本の中にうずもれてしまい・・・汗
でも、ほんと興味湧きますー!
小説というのもある意味ではうその世界ですね。
でも、これは現実ではないんですよ、うその虚構の世界なんですよ。
と互いが認識しているから安心して身を委ねれるわけですよね。
互いが互いに約束を交わしているから。
村上春樹さんもエルサレム賞のスピーチでおっしゃっていましたよね。
『わたしは今日、小説家として、つまり嘘を紡ぐプロという立場でエルサレムに来ました。
もちろん、小説家だけが嘘をつくわけではありません。よく知られているように政治家も嘘をつきます。車のセールスマン、肉屋、大工のように、外交官や軍幹部らもそれぞれがそれぞれの嘘をつきます。
しかし、小説家の嘘は他の人たちの嘘とは違います。小説家が嘘を言っても非道徳的と批判されることはありません。それどころか、その嘘が大きければ大きいほど、うまい嘘であればいっそう、一般市民や批評家からの称賛が大きくなります。なぜ、そうなのでしょうか?
それに対する私の答えはこうです。すなわち、上手な嘘をつく、いってみれば、作り話を現実にすることによって、小説家は真実を暴き、新たな光でそれを照らすことができるのです。
多くの場合、真実の本来の姿を把握し、正確に表現することは事実上不可能です。だからこそ、私たちは真実を隠れた場所からおびき出し、架空の場所へと運び、小説の形に置き換えるのです。しかしながら、これを成功させるには、私たちの中のどこに真実が存在するのかを明確にしなければなりません。このことは、よい嘘をでっち上げるのに必要な資質なのです。』
谷川俊太郎さんの『闇は無ではない 闇は私たちを愛している 光を孕み光を育む闇の その愛を恐れてはならない』というのはいいよね。
闇のとらえ方がゲーテ的だし、東洋的。日本人の感性にしっくりきます。
ニュートンの「光学」では、光は屈折率の違いで七つの色光に分解され、この分解されたものが人間の脳で「色彩」として感覚されるとしている。
ただ、ゲーテは色彩が屈折率という数の概念に還元されていくることに満足できなかった。
ゲーテの「色彩論」では、色の生成に光と闇を持ち出している。
ニュートンにとって、「闇」は単なる「光の欠如」にすぎないもので、研究の対象にならないものだった。
ただ、ゲーテは「闇」を積極的に取り入れていく。「光」と「闇」が存在し、その間で両極が作用し合う「くもり」の中でこそ、はじめて色彩は成立するとゲーテは考えていました。
そんなゲーテの考え方が好きです。