
■
山から下りて下界の仕事に復帰しています。
山では5時起き、21時就寝。たっぷり8時間睡眠。
夜中に電話で起こされることもなく、日が昇って起きて日が沈んで寝る。シンプルな生活でした。
自然と調和した生活。自然との調和と言えば植物。
植物の生き方には憧れます。
植物の食事は水と太陽。与えられたものだけを文句言わずに吸収する。誰も攻撃せず、食べず。
受粉は風や昆虫に運んでもらう。
天地や風光などと一体化した生き方。
動物のように反自然的で攻撃的な生き方とは大違いです。植物世界から学ぶこと多いです。
■
人体の「動物」と「植物」。
三木成夫先生からの学び。三木成夫「ヒトのからだ -生物史的考察」(うぶすな書院:1997)
ひとのからだは、動物性器官と植物性器官に大きく分かれる。
そして、「入れる」「配る」「出す」のサイクルを繰り返す。
動物性器官は、
1:「受容系(感覚系)」で入れて、
2:「伝達系(神経系)」で配り、
3:「実施系(運動系)」で出す。
植物性器官は、
1:「吸収系(消化~呼吸系)」で入れて、
2:「循環系(血液~脈管系)」で配り、
3:「排出系(生殖~泌尿系)」で出す。
体の中心には植物性器官があり、表面を動物性器官が覆う。
発生学でも、受精卵は植物性器官の「腸管」から始まり、そこに動物性器官が介入する。
植物世界と動物世界のせめぎあいで人体はできる。
1人の人間は「食」で維持し、ヒトという種は「性」で維持する。
食と性の営みが個体と種で繰り返される。
動物性器官の代表は脳。植物性器官の代表は心臓。
「精神」と「心情」。「あたま」と「こころ」。
動物性器官は「動くもの」
植物性器官は「植わったもの」
動物性器官は「意識」の産物で、植物性器官は「無意識」の産物。
意識と無意識のせめぎあい。
動物は「従属栄養」。自分で生命を維持することできない。
植物を食べることで、動物は生きる。その動物をほかの動物が食べることで動物は生きる。
植物は「独立栄養」。無機物、水、二酸化炭素から自分で栄養をつくる。自然のものを受け取るだけで生命を維持できる。
植物は自然の中にある「地・水・火・風」を最大限利用して生命を形作る。
山の中にいると人間が動物であることを意識する。食べないと死んじゃうから。
でも、植物ような自然と一体化した生き方への憧れもある。隣の花は赤く見える。
■
下界に降りると、いろんなものが便利なので驚きます。
同時に、人類の営みのすごさをも感じます。
水。
人間が生きる上で水は必須。雨などの天水に依存する生活は不安定です。
雨水を浄化するシステムを作り、蓄える装置をつくり、それをほかの人に配る配管のシステムを作り、それを蛇口をひねるワンタッチで新鮮な水が出るシステムをつくる。
下水もそう。人間はどんな人でもトイレに行く。トイレでの下水の配備、配管。システム化。そうして何気なくトイレに行く。
火。
料理するときにも必要。暗い時にも必要。
雷や摩擦熱で火は偶然発見されたかもしれない。その火を継続的に起こすためにマッチやライターを発明。天然ガスや石油や石炭の燃えるものの発見。究極は原子力発電。ひとつの原子から莫大なエネルギーを、火や光を生み出す。E=MC2と書いてある通り、質量はエネルギーの効率的な収納方式。
そんなこんなで。ガスの配管システムの普及。ワンタッチで安全に火を作れるシステムを開発する人類。
道。
けもの道を歩くところから始まる。山の中では水の流れでも自然に道はできる。
天地自然が生み出した道を歩きやすいように整備する。
泥などで汚れないように石などで整備。後にコンクリートで整備。
自転車やバイクや車が開発され、そういうものも通りやすいように道を整備。山や川以外は、日本全国すべてに道をネットワーク化する人類。
■
いろんな物事が、安全に簡便に使えるようになり、システム化されネットワーク化される。すごいものです。やはり、人間は何かしらの形でつながりたいのです。
誰かいるとジャマだと言うが、誰もいないとさびしいという。そういう矛盾した存在が人間。
山のような自然むき出しの世界から、ここまで作り上げてきた人類の果てしない営みはすごいもんだと感心します。
もちろん、物事は程度問題で、現代文明は行き過ぎの場所もあるわけです。
自然と共生して、ほどよいバランスを保っている間はいいですが、自然に反する生活をしだすと、ある意味では自然や宇宙を敵に回すようなもので、それは行き過ぎでしょう。というか、思い上がりというか。
自然は、純粋に無報酬に僕らに贈与している。
太陽の熱もそう。光もそう。水もそうだし。石油や石炭もそう。
土には宇宙的な数の細菌世界があって、その細菌たちの生態系のおかげで、ひとつの種を撒いてうまくいけば、何万倍もの収穫となって返ってくる。
自然には、ひとつのものが無限に増殖するような力がある。これは果てしない謎だ。こんなに不思議なことはない。
■
山では物々交換や贈与経済が存在しています。
7時間かけて遠くの山小屋にあいさつに。その時に500mlの白ワインも持っていきました。
そうすると、いつもお世話になってるのにこんなものまでもらって!ということで、さらにでかいお酒をもらい、カレーやココアをご馳走になり、いろんなものをふるまってもらう。
帰る時も、自分が見えなくなるまでずっと5分くらい手を振ってくれる。
・・・・
もともとはこういう人間関係がベースにあって、その上で色んな文明が乗っかかってきたはずだと思います。
今は土台がなくなって、1階がないのに2階も3階も・・・数十階立てまで建築しているようなもので。
山での生活は、今の生活を考えるいいきっかけになる。
普段の生活は習慣化され、無意識化され、イイとかワルイとかではなくて、なんとなくダラダラと継続してしまう。いつのまにか、その前提を疑うことすらなくなってしまう。
■
山ではいろいろお世話になりました。
自分も義理と人情の人なので、受けた御恩は一生忘れませんし、別の形でお返ししたいな、と思います。
もともと、こういう山岳診療を手伝っているのも、自分が学生時代に受けたいろんな御恩を、少しずつお返ししているようなものですし。
ただ、そういう行為でさらに相手側から感謝されてしまい、その感謝のお返しがまた自分に蓄積し、何か別のアクションを生んでいく。
感謝や恩返しの果てしない連鎖というのは、無限に増幅しながら発展していきます。
それは、欲望を駆り立てながらお金を流通している資本主義と同じようなもので、全然違うもの。
見返りがない純粋な行為は、まさに「自然」の営みそのもの。太陽の光や熱は、全員に平等に降り注ぐ。
人間自体が自然の産物である以上、自然から学ぶことは多い。
親には感謝した方がいいし、恩返しした方がいい。
それは、人間の親である自然に対しても同じだと思います。
自然は植物世界と動物世界がある。菌やウイルスもある。そこで複雑巧妙な生態系をつくる。
森羅万象は、それぞれの原因であり結果であるようなネットワークをつくる。
その一員として人間も組み込まれているんだと思う。そういうのを、生の自然の近くにいると、強く感じる。
山から下りて下界の仕事に復帰しています。
山では5時起き、21時就寝。たっぷり8時間睡眠。
夜中に電話で起こされることもなく、日が昇って起きて日が沈んで寝る。シンプルな生活でした。
自然と調和した生活。自然との調和と言えば植物。
植物の生き方には憧れます。
植物の食事は水と太陽。与えられたものだけを文句言わずに吸収する。誰も攻撃せず、食べず。
受粉は風や昆虫に運んでもらう。
天地や風光などと一体化した生き方。
動物のように反自然的で攻撃的な生き方とは大違いです。植物世界から学ぶこと多いです。
■
人体の「動物」と「植物」。
三木成夫先生からの学び。三木成夫「ヒトのからだ -生物史的考察」(うぶすな書院:1997)
ひとのからだは、動物性器官と植物性器官に大きく分かれる。
そして、「入れる」「配る」「出す」のサイクルを繰り返す。
動物性器官は、
1:「受容系(感覚系)」で入れて、
2:「伝達系(神経系)」で配り、
3:「実施系(運動系)」で出す。
植物性器官は、
1:「吸収系(消化~呼吸系)」で入れて、
2:「循環系(血液~脈管系)」で配り、
3:「排出系(生殖~泌尿系)」で出す。
体の中心には植物性器官があり、表面を動物性器官が覆う。
発生学でも、受精卵は植物性器官の「腸管」から始まり、そこに動物性器官が介入する。
植物世界と動物世界のせめぎあいで人体はできる。
1人の人間は「食」で維持し、ヒトという種は「性」で維持する。
食と性の営みが個体と種で繰り返される。
動物性器官の代表は脳。植物性器官の代表は心臓。
「精神」と「心情」。「あたま」と「こころ」。
動物性器官は「動くもの」
植物性器官は「植わったもの」
動物性器官は「意識」の産物で、植物性器官は「無意識」の産物。
意識と無意識のせめぎあい。
動物は「従属栄養」。自分で生命を維持することできない。
植物を食べることで、動物は生きる。その動物をほかの動物が食べることで動物は生きる。
植物は「独立栄養」。無機物、水、二酸化炭素から自分で栄養をつくる。自然のものを受け取るだけで生命を維持できる。
植物は自然の中にある「地・水・火・風」を最大限利用して生命を形作る。
山の中にいると人間が動物であることを意識する。食べないと死んじゃうから。
でも、植物ような自然と一体化した生き方への憧れもある。隣の花は赤く見える。
■
下界に降りると、いろんなものが便利なので驚きます。
同時に、人類の営みのすごさをも感じます。
水。
人間が生きる上で水は必須。雨などの天水に依存する生活は不安定です。
雨水を浄化するシステムを作り、蓄える装置をつくり、それをほかの人に配る配管のシステムを作り、それを蛇口をひねるワンタッチで新鮮な水が出るシステムをつくる。
下水もそう。人間はどんな人でもトイレに行く。トイレでの下水の配備、配管。システム化。そうして何気なくトイレに行く。
火。
料理するときにも必要。暗い時にも必要。
雷や摩擦熱で火は偶然発見されたかもしれない。その火を継続的に起こすためにマッチやライターを発明。天然ガスや石油や石炭の燃えるものの発見。究極は原子力発電。ひとつの原子から莫大なエネルギーを、火や光を生み出す。E=MC2と書いてある通り、質量はエネルギーの効率的な収納方式。
そんなこんなで。ガスの配管システムの普及。ワンタッチで安全に火を作れるシステムを開発する人類。
道。
けもの道を歩くところから始まる。山の中では水の流れでも自然に道はできる。
天地自然が生み出した道を歩きやすいように整備する。
泥などで汚れないように石などで整備。後にコンクリートで整備。
自転車やバイクや車が開発され、そういうものも通りやすいように道を整備。山や川以外は、日本全国すべてに道をネットワーク化する人類。
■
いろんな物事が、安全に簡便に使えるようになり、システム化されネットワーク化される。すごいものです。やはり、人間は何かしらの形でつながりたいのです。
誰かいるとジャマだと言うが、誰もいないとさびしいという。そういう矛盾した存在が人間。
山のような自然むき出しの世界から、ここまで作り上げてきた人類の果てしない営みはすごいもんだと感心します。
もちろん、物事は程度問題で、現代文明は行き過ぎの場所もあるわけです。
自然と共生して、ほどよいバランスを保っている間はいいですが、自然に反する生活をしだすと、ある意味では自然や宇宙を敵に回すようなもので、それは行き過ぎでしょう。というか、思い上がりというか。
自然は、純粋に無報酬に僕らに贈与している。
太陽の熱もそう。光もそう。水もそうだし。石油や石炭もそう。
土には宇宙的な数の細菌世界があって、その細菌たちの生態系のおかげで、ひとつの種を撒いてうまくいけば、何万倍もの収穫となって返ってくる。
自然には、ひとつのものが無限に増殖するような力がある。これは果てしない謎だ。こんなに不思議なことはない。
■
山では物々交換や贈与経済が存在しています。
7時間かけて遠くの山小屋にあいさつに。その時に500mlの白ワインも持っていきました。
そうすると、いつもお世話になってるのにこんなものまでもらって!ということで、さらにでかいお酒をもらい、カレーやココアをご馳走になり、いろんなものをふるまってもらう。
帰る時も、自分が見えなくなるまでずっと5分くらい手を振ってくれる。
・・・・
もともとはこういう人間関係がベースにあって、その上で色んな文明が乗っかかってきたはずだと思います。
今は土台がなくなって、1階がないのに2階も3階も・・・数十階立てまで建築しているようなもので。
山での生活は、今の生活を考えるいいきっかけになる。
普段の生活は習慣化され、無意識化され、イイとかワルイとかではなくて、なんとなくダラダラと継続してしまう。いつのまにか、その前提を疑うことすらなくなってしまう。
■
山ではいろいろお世話になりました。
自分も義理と人情の人なので、受けた御恩は一生忘れませんし、別の形でお返ししたいな、と思います。
もともと、こういう山岳診療を手伝っているのも、自分が学生時代に受けたいろんな御恩を、少しずつお返ししているようなものですし。
ただ、そういう行為でさらに相手側から感謝されてしまい、その感謝のお返しがまた自分に蓄積し、何か別のアクションを生んでいく。
感謝や恩返しの果てしない連鎖というのは、無限に増幅しながら発展していきます。
それは、欲望を駆り立てながらお金を流通している資本主義と同じようなもので、全然違うもの。
見返りがない純粋な行為は、まさに「自然」の営みそのもの。太陽の光や熱は、全員に平等に降り注ぐ。
人間自体が自然の産物である以上、自然から学ぶことは多い。
親には感謝した方がいいし、恩返しした方がいい。
それは、人間の親である自然に対しても同じだと思います。
自然は植物世界と動物世界がある。菌やウイルスもある。そこで複雑巧妙な生態系をつくる。
森羅万象は、それぞれの原因であり結果であるようなネットワークをつくる。
その一員として人間も組み込まれているんだと思う。そういうのを、生の自然の近くにいると、強く感じる。
昨年も、いなばさんが山から帰ってきた時のブログに「日本がワールドカップ優勝国になりましたよ」とコメントした記憶があります。そして今、ロンドン五輪の女子サッカーのゲームが始まりました。早いものですね。
《感謝や恩返しの果てしない連鎖》とは、何と素敵な関係でしょうか。そのような関係で成り立っている社会を見てみたいものです。しかし、我々が眼にしているのは全く違う社会ではないでしょうか。いなばさんが山の上にいる間に、米国で衝撃的な事件が起こりました。『ダークナイト』の続編の試写会中に男が銃を乱射して12人が殺されました。犯人は医学系の博士課程の院生だったそうですが、自分はジョーカーだと述べているようです。4年前の秋葉原の事件もそうですが、こういう単独テロ事件の動機は社会への復讐だと私は思います。人々から酷い仕打ちを受けてきたという思いが根底にあるのではないでしょうか。そして自分も他人に復讐する、そしてその被害者や遺族も他人に復讐する……こうして《復讐の連鎖》が続いていく。
我々が文明の《数十階》の上で暮らしているとしても、原始時代には石槍で戦っていたのが武器をお金と政治権力に変えて、さらに残酷に争っているのではより不幸になるわけです。これを変えるには、制度的ではなく精神的な変化が必要でしょう。
そうですね。
おっしゃるとおり、下界離れした山での生活を送っていて、下界にもどると『なでしこブーム』が到来していて、ポカン、としたのを覚えてます。
山の中にいると、ほんと日本で戦争が起きててもあんまり気付かないかもしれない。って気になります。不思議なもんですが。 現実世界っていうのは多層なんですよね。
山で原始的で根源的に近い生活を送っていると、おそらく、動物とか昆虫の視点に近くなるのかな、と思います。人間が戦争してようが、憎しみ合ってようが、原発が爆発しようが・・・、そんなの知らない、って感じで。
何かしらの生態系の破壊につながると、そのことが余波のように伝わって行っちゃうんでしょうけどねぇ。
復讐の連鎖、っていうのも人間ならではですよね。Yutaさんがおっしゃるように、精神的な改革が必要なのだと思いますね。なぜ人間は復讐をするのか、それによって何を達成しようとするのか。。。そういうことへの正しい理解が、ひいては何かしら結びついていくように思えますし。
<見ざる言わざる聞かざる>の像ってありますよね。これは、見ないことにする、言わないことにする、聞いてないことにする、・・・っていう意味が一般的だと思いますが、もうひとつ重なった意味があるそうです。
それは、<ほんとうのことは見ていない、ほんとうのことを言っているわけではない、ほんとうのことを聞いているわけではない>というような、人間がゆがめた認識を受けたり発したりすることを揶揄している像であると。その解釈は深いですよね。ぼくらは本当のことを見たり聞いたりしてるきになっているけれど、いろんな偏見や先入観で歪めて感受しているし、歪めて発信している。
上のブログで書いた
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動物性器官は、
1:「受容系(感覚系)」で入れて、
2:「伝達系(神経系)」で配り、
3:「実施系(運動系)」で出す。
植物性器官は、
1:「吸収系(消化~呼吸系)」で入れて、
2:「循環系(血液~脈管系)」で配り、
3:「排出系(生殖~泌尿系)」で出す。
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に通じると思うのですが、動物は入れて配って出すときに、認識や偏見などで、どうしても個人的な歪曲を起こし、ありのままの世界をねじまげる。そのことが相互理解やDialogueでの不具合に通じているのではないかと思うわけです。
そうなると、やはり人間の【認知Perception】というものを正確にとらえることが、相互の人間理解に役立つように思っています。そのことを2500年前くらいに指摘したブッダという人は、やはり偉大です。
科学Scienceも、本来は正しい【認知Perception】をするための学問だったはずなのですが、いまでは偏見を強めるための学問になり下がっています。むしろ、偏見をなくすための営みのはずなのですが。このあたりは、自分の課題として、科学や医学の住人たちに勇気を持って発言していかないといけないな、と思っています。
確かにおっしゃる通り、暗澹たる気持ちになられるのもよくわかります。
ただ、それはマスコミにも一因はあるのではないかと思います。上げ足をとったり、不安をあおったり・・・マスコミ自体がそういう不安をあおりながらテレビを見せるという、自作自演の演出をしているように感じることもあります。
この世界では、もっと希望に満ちた現象も起きていたり、そういうNegativeな状態を打破しようと必死で動いている人も多いと思いますよ。マスコミはあるバイアスのかかった氷山の一角である、というのが自分の認識です。
少し前は奴隷制や植民地主義があり、戦争も頻繁にあり飢餓や貧困も多く・・・そういう意味では少しずつではありますが、世界はよくなっていると、自分は信じています。今日本で飢えて死ぬことはほとんどないわけですし、内戦で殺されることもないわけですし、そういう意味では少しずつではありますが、自分はよくなっていると希望を持って考えています。
人間の脳は意識の方向付けをする器官であると思っています。そういう意味で、自分はよりよき未来をイメージしながら、そちらにフォーカスしながら、日々一歩一歩歩き続けるしかないと思います。それは、登山と同じですね。