竹内先生の影響で「かなしみ」というやまと言葉を考えながら本を乱読している。
なかなかいい言葉を読んで、少し考えた。
死と悲しみについての言葉。
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親を亡くした人は、過去を失うのです。
配偶者を亡くした人は、現在を失うのです。
子を亡くした人は、未来を失うのです。
恋人、友人、知人を亡くした人は、自分の一部を失うのです。
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Earl A. Grollman(アール・A・グロルマン)
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E.A.グロルマンは、ユダヤ教の聖職者で、死別の悲しみを癒すグリーフ・ケアと「死の準備教育」(Death Education)の活動で知られた人。
人は、死によって「時間」や「自分」の喪失や欠落を認識する。
「時間」のように「かたち」が分かりにくいものは、そういう逆説的な方法でしか認識しにくいものなのかもしれない。
そういう風に、世界のあり方が一部崩壊したり欠損することで、自分の何かもバラバラに解体される。
解体されたままではあまりにも不安定であり、こころが崩壊してしまいそうになる。
だから、もう一度結び付けて、何か一つへと構築していく必要に迫られる。
解体と構築、破壊と創造、ほどけては結ぶ、発散と収束、拡散と集合、液体・気体と個体、空と土・・・・
一つへと構築するもの・・・
大きな「物語」のようなものなのかなぁ。
個人、時には集団にとっての「物語性」のようなもの。
そのあたりが古典の原点なのかなぁ。
なかなかいい言葉を読んで、少し考えた。
死と悲しみについての言葉。
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親を亡くした人は、過去を失うのです。
配偶者を亡くした人は、現在を失うのです。
子を亡くした人は、未来を失うのです。
恋人、友人、知人を亡くした人は、自分の一部を失うのです。
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Earl A. Grollman(アール・A・グロルマン)
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E.A.グロルマンは、ユダヤ教の聖職者で、死別の悲しみを癒すグリーフ・ケアと「死の準備教育」(Death Education)の活動で知られた人。
人は、死によって「時間」や「自分」の喪失や欠落を認識する。
「時間」のように「かたち」が分かりにくいものは、そういう逆説的な方法でしか認識しにくいものなのかもしれない。
そういう風に、世界のあり方が一部崩壊したり欠損することで、自分の何かもバラバラに解体される。
解体されたままではあまりにも不安定であり、こころが崩壊してしまいそうになる。
だから、もう一度結び付けて、何か一つへと構築していく必要に迫られる。
解体と構築、破壊と創造、ほどけては結ぶ、発散と収束、拡散と集合、液体・気体と個体、空と土・・・・
一つへと構築するもの・・・
大きな「物語」のようなものなのかなぁ。
個人、時には集団にとっての「物語性」のようなもの。
そのあたりが古典の原点なのかなぁ。
患者さんの場合には、
処置をしながらよく想像しました。
この人にとって死んでみるとは
「自分の生きた時間」とか「外界につながっている自分」だとかを
作り出す衝動にかられているのかなって
死は喪失、というのは
すごく堅実で、健全な感覚だなって
確かに、僕らがいた某救急病院は、よく自殺未遂の人が運ばれてきましたよね。
睡眠剤系が多かった。あとリストカット。自衛隊が刀で自分の腹を切ったってのも見ました。
あの場合、自殺する=死んじゃうことが目的ではないんですよね。
死ぬ瀬戸際に行くとか、その極限で生を実感しているんだと思うのですよね。
この前も、当直中にボロボロになった女性を救急で診ました。
私生活からなにから何までボロボロになっていて、何がどうなればこの人が救われていくのか分からない絶望感も感じました。
ただ、そうして自分の記憶にトゲのようにその女性患者さんが残ることは、彼女の救いのひとつかもしれないとも思えます。マザーテレサが、愛の対義語は無関心だと言ったように、そうしてボロボロになった人を見ても周りがどんどん無関心になっていくことが、そういうところまで追いやった要素でもあると思ったりしたので。
もちろん、何もできないし、何かやろうとするのはおこがましいかもしれません。
その人が救われるには、その人が救われたいと強くドアを叩く時だし、その瞬間にしか救い上げれないものな気がしています。
生きているだけで、実はいろんなものを喪失しているのだと思うのですが、その中でも、死ははっきり認識できる何かがあって、そんな死をフィルターとして通すことで、時間や自分の一部の喪失がはじめて実感として自覚できるのかもしれません。