高橋秀実さんの「結論はまた来週」角川書店(2011/9/26)が面白すぎる。
==============
<内容紹介>
「若者に贈る熱いメッセージを」と依頼を受けたヒデミネさんは考えた。最近の若者は無気力で無感動だというが、それはまさに私の特徴ではないか…。「R25」の人気連載エッセイが一冊に!
<内容(「BOOK」データベースより)>
人生はつまらなくて結構、生きがいなんて必要ない、生きてるだけで、おめでとう。若者と、かつて若者だった人たちに贈る、ヒデミネ流人生訓。
==============
高橋秀実さんの本は、いつも少しづつずれ続けます。
追いかければ離れ、待っていれば近づいてくる。
フラフラと複雑な振動運動のようで、それでいて「子供の目」のように素直な目で常に核心を貫通していると思います。
基本的には笑いながら読めてしまう。これぞ読書の醍醐味。そして、時には高度に哲学的でふんふんとうならされてしまう。言語の解体(それは意識の解体に連続してゆく)のようなものが時に行われます。
本の中で、<秀実さんその1>を、<秀実さんその2>が観察して批判し、<秀実さんその3>がさらにそのバランスを取る。
そういう風に<秀実さんその5>くらいまで出てきているような感じです。その複数の<秀実さん>のポリフォニーが、僕らの常識の枠を静かにそっとはずしてくれます。
常識の枠を外したのは自分なのに、その自分自身の<秀実さん>もトホホと困ります。そして同じように読み手も困る。どういうこと?と。
互いに困りながらも「だから一緒に考えましょうよ」と誘ってくれているような感じです。
そんな高橋秀実さん(「ひでみね」って読むんですよ)の本は大好きで面白い。時間を忘れて読んでしまう。
■高橋 秀実「からくり民主主義」新潮文庫(2009/11/28)
■高橋 秀実「トラウマの国ニッポン」新潮文庫(2009/3/28)
この本も最高におもしろいのです。
「からくり民主主義」は文庫解説を村上春樹さん(!!)が、「トラウマの国ニッポン」は養老孟司先生が書かれています。
そんな所からも、いかに秀実さんが普通の書き手と一味違うかが分かると思います。どちらの文庫解説も最高に面白い。読んでのお楽しみなのです。(春樹さんが文庫の解説を書くなんてことは、秀実さんくらいだと思う。)
■高橋 秀実「ご先祖様はどちら様」新潮社 (2011/04)
ちなみに、この本で第10回(2011年)の小林秀雄賞も受賞してたりします。
感性が独特でほんとに面白いんですよね。
みうらじゅんさんに近いものを感じます。きっと、老子とか荘子はこんな感じの人だったんじゃないかとさえ、思います。(奇跡のリンゴの木村さんも同じ種類の人のような)
・・・・・
そんな風に、複数の<秀実さん>が自分で延々と突っ込みを入れつつ内部でのDialogueが繰り広げられていくプロセスは、僕らの常識の前提をひっぺがしてくれます。
それが時には笑いにもなるし、時には高度な哲学的な内容にもなります。
そんな掴みどころのないところが、とても好きなのです。
好き嫌いが分かれちゃうかもですが、ユーモアが分かる人にはきっと分かってくれると思います。是非。
◆(引用)
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高橋秀実「結論はまた来週」角川書店(2011/9/26)より
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『実は過去はどこにもない。
かつてベルクソンという哲学者が見破ったことだが、私たち人間は「時間」を「空間化」して考える癖がある。
過去から現在、未来へとつながる線のように考えるのも空間化だし、「時間が空いている」などという発想も空間化の産物。
カレンダーやスケジュール帳、時計を使って時間を空間化し、あたかもそれが時間そのものであるかのように思い込んでいるだけなのだ。
では、空間化されていない生の時間とはいったい、何なのだろうか?
この超難問にひとつの答えを提示したのは大森荘蔵である。
彼は問いかける。「昨日雨が降った」という過去をイメージできるか?と。
目をつぶって雨の様子を思い浮かべればよいのだが、その映像をよくよく眺めると、雨はまさに進行形でザーザーと降っており、「降った」という姿にはなっていない。過去のはずなのに「降っている」。
ではどうすれば過去になるのというと、これを「降った」と言い換えるしかない。
つまり、過去の過去たるゆえんは「降った」という過去形の言い方の中にしかないのである。
私たちは「降った」と言葉にすることで初めて過去を体験する。
過去を言葉にしているのではなく、過去形で考えることでそこに過去を作り出しているのだ。
私たちは過去から現在、そして未来へと向かう線上に生きているのではない。
常に今を生きており、その都度その都度「昨日・・があった」などという形で過去を作り続けているのである。
・・・・・・・
はっきり言わせていただければ、即座に過去化できることは基本的にどうでもよいことである。
どうでもいいからすぐ過去にできるのだ。
それは、亡くなった人のことを考えてみればすぐわかる。
「死んだ」はずなのに彼らのことを思い浮かべると、その姿は動いている。しゃべったり笑ったりしている。つまり今も生きている。
本当に大切なことはいつまでも過去にならず、ずっと今なのである。』
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大切なのは「ずっと今」なんですよね。
反省するのも大事。後悔するのも大事。
でも、それは過去の出来ごとなんかではなくて、「ずっと今」のこと。現在進行形の事柄なんですよね。時間は「今」しかないのだから。
そういう風に空間化したくなる呪縛を離れて「時間」をとらえてみると、「いま」っていう時間の一秒一秒が、いかに大事なものかと痛感します。
そして、そんな「一瞬の今」の全てが例外なく自分の人生ですし、ほんのひとつ欠けても成立しないものなのです。
そう思えば、もっと「いま」を濃密に生きれるような気がします。そんな風に「いま」を味わいたいものです。
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<内容紹介>
「若者に贈る熱いメッセージを」と依頼を受けたヒデミネさんは考えた。最近の若者は無気力で無感動だというが、それはまさに私の特徴ではないか…。「R25」の人気連載エッセイが一冊に!
<内容(「BOOK」データベースより)>
人生はつまらなくて結構、生きがいなんて必要ない、生きてるだけで、おめでとう。若者と、かつて若者だった人たちに贈る、ヒデミネ流人生訓。
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高橋秀実さんの本は、いつも少しづつずれ続けます。
追いかければ離れ、待っていれば近づいてくる。
フラフラと複雑な振動運動のようで、それでいて「子供の目」のように素直な目で常に核心を貫通していると思います。
基本的には笑いながら読めてしまう。これぞ読書の醍醐味。そして、時には高度に哲学的でふんふんとうならされてしまう。言語の解体(それは意識の解体に連続してゆく)のようなものが時に行われます。
本の中で、<秀実さんその1>を、<秀実さんその2>が観察して批判し、<秀実さんその3>がさらにそのバランスを取る。
そういう風に<秀実さんその5>くらいまで出てきているような感じです。その複数の<秀実さん>のポリフォニーが、僕らの常識の枠を静かにそっとはずしてくれます。
常識の枠を外したのは自分なのに、その自分自身の<秀実さん>もトホホと困ります。そして同じように読み手も困る。どういうこと?と。
互いに困りながらも「だから一緒に考えましょうよ」と誘ってくれているような感じです。
そんな高橋秀実さん(「ひでみね」って読むんですよ)の本は大好きで面白い。時間を忘れて読んでしまう。
■高橋 秀実「からくり民主主義」新潮文庫(2009/11/28)
■高橋 秀実「トラウマの国ニッポン」新潮文庫(2009/3/28)
この本も最高におもしろいのです。
「からくり民主主義」は文庫解説を村上春樹さん(!!)が、「トラウマの国ニッポン」は養老孟司先生が書かれています。
そんな所からも、いかに秀実さんが普通の書き手と一味違うかが分かると思います。どちらの文庫解説も最高に面白い。読んでのお楽しみなのです。(春樹さんが文庫の解説を書くなんてことは、秀実さんくらいだと思う。)
■高橋 秀実「ご先祖様はどちら様」新潮社 (2011/04)
ちなみに、この本で第10回(2011年)の小林秀雄賞も受賞してたりします。
感性が独特でほんとに面白いんですよね。
みうらじゅんさんに近いものを感じます。きっと、老子とか荘子はこんな感じの人だったんじゃないかとさえ、思います。(奇跡のリンゴの木村さんも同じ種類の人のような)
・・・・・
そんな風に、複数の<秀実さん>が自分で延々と突っ込みを入れつつ内部でのDialogueが繰り広げられていくプロセスは、僕らの常識の前提をひっぺがしてくれます。
それが時には笑いにもなるし、時には高度な哲学的な内容にもなります。
そんな掴みどころのないところが、とても好きなのです。
好き嫌いが分かれちゃうかもですが、ユーモアが分かる人にはきっと分かってくれると思います。是非。
◆(引用)
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高橋秀実「結論はまた来週」角川書店(2011/9/26)より
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『実は過去はどこにもない。
かつてベルクソンという哲学者が見破ったことだが、私たち人間は「時間」を「空間化」して考える癖がある。
過去から現在、未来へとつながる線のように考えるのも空間化だし、「時間が空いている」などという発想も空間化の産物。
カレンダーやスケジュール帳、時計を使って時間を空間化し、あたかもそれが時間そのものであるかのように思い込んでいるだけなのだ。
では、空間化されていない生の時間とはいったい、何なのだろうか?
この超難問にひとつの答えを提示したのは大森荘蔵である。
彼は問いかける。「昨日雨が降った」という過去をイメージできるか?と。
目をつぶって雨の様子を思い浮かべればよいのだが、その映像をよくよく眺めると、雨はまさに進行形でザーザーと降っており、「降った」という姿にはなっていない。過去のはずなのに「降っている」。
ではどうすれば過去になるのというと、これを「降った」と言い換えるしかない。
つまり、過去の過去たるゆえんは「降った」という過去形の言い方の中にしかないのである。
私たちは「降った」と言葉にすることで初めて過去を体験する。
過去を言葉にしているのではなく、過去形で考えることでそこに過去を作り出しているのだ。
私たちは過去から現在、そして未来へと向かう線上に生きているのではない。
常に今を生きており、その都度その都度「昨日・・があった」などという形で過去を作り続けているのである。
・・・・・・・
はっきり言わせていただければ、即座に過去化できることは基本的にどうでもよいことである。
どうでもいいからすぐ過去にできるのだ。
それは、亡くなった人のことを考えてみればすぐわかる。
「死んだ」はずなのに彼らのことを思い浮かべると、その姿は動いている。しゃべったり笑ったりしている。つまり今も生きている。
本当に大切なことはいつまでも過去にならず、ずっと今なのである。』
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大切なのは「ずっと今」なんですよね。
反省するのも大事。後悔するのも大事。
でも、それは過去の出来ごとなんかではなくて、「ずっと今」のこと。現在進行形の事柄なんですよね。時間は「今」しかないのだから。
そういう風に空間化したくなる呪縛を離れて「時間」をとらえてみると、「いま」っていう時間の一秒一秒が、いかに大事なものかと痛感します。
そして、そんな「一瞬の今」の全てが例外なく自分の人生ですし、ほんのひとつ欠けても成立しないものなのです。
そう思えば、もっと「いま」を濃密に生きれるような気がします。そんな風に「いま」を味わいたいものです。