徒然草を読んだ。すごく面白かったー。
今の自分の状態にテトリスのようにピタリとはまった。
数か月前まで、土日も祝日も正月も休みなく、必要以上に働きまくっていた時期を振り返り、「こんな徒然の状態こそが、今の自分に必要なものだ!」と、改めて思わせてくれた。
卜部兼好先生!ありがとう!
(→吉田兼好よりも、卜部兼好っていうのが本当の呼び方らしいです。)
■つれづれ
「徒然(つれづれ)」の語源を大辞林で調べると、
**********************
「つれづれ」は「連(つ)れ連(づ)れ」の意で、
[名・形動]
1 することがなくて退屈なこと。また、そのさま。手持ちぶさた。
2 つくづくと物思いにふけること。
3 しんみりとして寂しいこと。また、そのさま。
[副]
1 長々と。そのままずっと。
2 しんみりと寂しいさま。
3 よくよく。つくづく。
**********************
と書いてあった。
この本のP17にも、「徒然つれづれ」の語源が書いてある。
古語の「つる」は、現代語の「連れる」に当たり、『連続する、同行する、連動する・・・』のような、『複数のものが一緒にいる』という意味だったと。
ただ、一緒にいる時間が長くなるにつれて、『いつも同じ、単調・・・』のような心理的判断が入ってきて、それが転じて『退屈だ、暇だ・・・』というような否定的な意味でも使われるようになったと。
そこで、作者の卜部兼好は、否定的な意味を逆転させて、積極的な精神活動の意味として使っていると記されている。
この本は複数人で輪読会の課題図書として使ったのだけれど、「徒然草って<兼好ブログ>みたいだねー」とみんな言っていた。本当にその通りだと思った。
(→課題図書としては、表紙写真の『徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)』(角川書店)を使ったけど、このシリーズは本当に秀逸で読みやすく面白い!古典の入り口として最適!)
自分だけの日記は人に読ませることができない。それは、閉じられたもの。
ブログはネットに公開している以上、ある程度他者に読まれることが前提になっている。それは、開かれたもの。
自分もこうしてブログを書いているけど、自分のためだけに書いているわけではない。
寧ろ、自分以外の人に、自分のありのままの感情や思考過程を晒し、共感してくれる人に違う立場からコメントをもらうことで、更に自分の感情や自分そのものを深めていくことができる。
そんな自己との対話や、他者との対話にとっての触媒として、自分はブログを使っていると思う。
この感覚は、兼好が「徒然草」として文章を書き始めた時の感覚にも近いのかなと思った。
つまり、「つれづれ」の最初の意味である「連れ連れ」のイメージがより近い。
自分で一人だけの妄想に励んでそれで終わりにするんじゃなくて、そこから色んな複数の人と呼応して共鳴して連動していく。
終着点ではなく出発点として、自分のブログは位置づけているし、兼好の徒然草もそれに近いんじゃないかと感じた。
あまりにも有名な序文がある。
================================
序段 つれづれなるままに
================================
(原文)
つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
================================
(現代語訳)
徒然と目的に縛られず自由に過ごしながら、心に自然に湧き起こっては消えてゆくいろんなことを、特になんという理由もなく書きつけてていると、夢か現か、正気か狂気か、そんな不思議な気がして時間を忘れてしまうのです。
================================
兼好が、一人山奥にこもって隠遁生活を送り、一人で勝手に妄想にふけっているだけで終わってたら、僕らはこの徒然草の文章を読むことはできなかった。兼好が何を考えていたかなんて知る由もなかった。
一人で悶々と考えてきた徒然なる思いを、自分一人で閉じるんではなくて、連れ連れに共有して呼応したいという強い思いがあって、硯に向かって、筆を取って、紙を敷いて、他者に開いたからこそ、この本は古典として残ったんだろう。
今、ほんの数百円払うだけで、せいぜい牛丼と同じ程度の値段を払うだけで、徒然草を読むことができる。
兼好法師が「僕、一人悟っちゃったもんねー。でも、自分一人で勝手に味わってまーす。教えてあげなーい。」みたいな感じだったら、彼が何を考えてたかなんて誰にも分らない。
そんなの悟りでも徒然でも何でもなく、「単なる自意識過剰なんじゃないの!」って言いたくなります。
兼好は自分だけで閉じるんではなく、徒然なるままに書き記して、開いた。
徒然草の内容自体は、結構突っ込みどころも満載なんです。(女性についての考えとか→第百七段『かく人に恥ぢらるる女』、友人についての考えとかね!→第百十七段『友とするにわろきもの』。単にウケ狙ってすべってるだけ? (^^;))
まあ、そこには目をつぶりましょう。(笑)
文章も流れるように綺麗で美文家だし、バランス感覚にもすごく優れている。
常に、「徒然なる状態」に戻ろうと、その軸を意識しながらバランス良い振り子運動を繰り返しながら文章を紡いでいるし、そんな色んな魅力的な要素+偶然性によって、この徒然草は鎌倉時代(1330年頃の作品らしい)から現代に残ったんでしょう。
================================
第七十五段 つれづれわぶる人は
================================
(原文)
つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。
================================
(現代語訳)
時間を持て余す人の気がしれない。何の用事もなく、独りでいるのが最高なのだ。
================================
そんな風に、自分一人の時間をしっかり持つこと。
そんな孤独なindependentな状態から、孤立ではなく孤高に行くこと。
孤立に行くか、孤高に行くかの大きな違いは、前者は自分だけで閉じていることだし、後者は閉じるだけではなく開いたということの違いなんだと思う。
■兼好の死生観
徒然草から兼好の死生観も読み取れる。
================================
第百五十五段 世に従はん人は
================================
(原文)
木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとる序甚だ速し。
生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
================================
(現代語訳)
木の葉っぱが落ちるのも、落ちてから芽が生えるのではなくて、内部からの芽生える力に押し出され、耐えられなくなるから古い葉が落ちるのである。葉が落ちるのを既に準備しているから、変化・交代するのはとても速い。
生・老・病・死の移り変わりは、四季の変化より速い。四季の変化は春夏秋冬の順番があるが、人間の死は順番などなく突然やってくるものである。
死とは、向こう側からやって来るものではなく、いつの間にか後ろに迫っているものなのだ。人は誰でも死がやって来ることを知っていながらも、覚悟していないときに突然死がやって来てしまう。干潟が遠くに見えていても、満潮時にはいつのまにか目の前が潮で満ちてしまっているのと同じ事なのだ。
================================
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第百六十六段 人間の営み合へるわざを
================================
(原文)
人間の、営み合へるわざを見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀・珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること雪の如くなるうちに、営み待つこと甚だ多し。
================================
(現代語訳)
人間のあくせくした日常を見ると、晴れた春の日に雪だるまを作って、金銀・宝石の飾りつけをしたお堂を建てようとしているのに似ているかもしれない。
お堂の完成を待って、その雪仏が安置できるだろうか、いやそんなはずがない。
人の命というものは、まだ寿命が十分にあると思っていても、雪で作った仏のように、いつのまにか足もとから溶け出しているようなものなのだ。そんな儚い人生を直視しようとせず、目的にがんじがらめに縛られ、あくせくと訳もなく働いているようなことが多いのである。
================================
兼好の死生観は、無常や儚さをベースにしている。
穏やかな美文からも、「ちゃんと死を想え!死と向き合うことが生きることだ!目的にがんじがらめに縛られて生きるな!」というような、激しい息遣いが聞こえてくる気がするのが不思議だ。
死とは遠く向こうの目に見えないところにあるものではなく、いつのまにか自分の後ろにベッタリとへばりついているのかもしれない。死は下を見ると既にそこにあって、足元からドロドロと自分の生は溶け出し始めているのかもしれない。もう、死に始めているのかもしれない。
生まれた以上、いづれ死ぬことがは例外なく決まっている。
人間の死亡率は100%!というのは誰もが当たり前に知っているけど、実は見て見ないふりをしていることも多い。
でも、兼好法師はそこで投げやりになるのではなく、『徒然と無目的に今を楽しみながら、生きることや死ぬことを噛みしめながら、今を生きていきましょうや』という風に、肩をポンと叩きながら前向きな声をかけてくれているように聞こえてくるのが不思議だ。
================================
第百三十七段
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(原文)
思ひかけぬは死期なり。
今日まで遁(のが)れ来にけるは、ありがたき不思議なり。
しばしも世をのどかに思ひなんや。
================================
(現代語訳)
死期は思いがけずやってくる。
今日まで死期から偶然逃れてきているのは、奇跡のように起こりにくいものであり、不思議なことである。
そんな奇跡的な今を生きているのに、この世界に何も気をかけずにいることができるだろうか。
================================
『ありがたき』とは、原義では「有り難い」「ありにくい」という意味で、「あり」ではあるが、いつでも「なし」に転じうるアヤフヤで不安定なもの。ただ、それでも「ある」という不思議さ!
『今、現にこうして生きている「ありがたき不思議」を噛みしめながら、誰にも訪れる死というものを当たり前に感じながら、それでも独りではなく共に生きていきましょうや。』というような、兼好の呼びかけが聞こえてくるような気がした。
それが、徒然に今を楽しむことかもしれないですね。
ブログで自分の考えをさらしたり、時にはみんなで都合を合わせて会ってお喋りしたり、そんな風に『連れ連れ』と毎日を楽しみたいものです。
仕事に励むという言い訳で思考停止して、色んな物事を見てみないふりをして過ごすのはよくない。
それは、閉じるのではなく、開くこと。
そして、それは徒然草の出発点でもある。
『徒然草』は、過去版ブログのようなもの。
僕らのブログは、現代版『連れ連れ草』のようなもの!
徒然草って、自分の心理状況に応じて無限に解釈が変化していく本なのかもしれない。
自意識過剰ではなく、無限の他者に合わせた本だから、古典として時間の重さに耐えて今まで残ったのかもしれないですね。
・・・・ありがたき不思議なり!!
今の自分の状態にテトリスのようにピタリとはまった。
数か月前まで、土日も祝日も正月も休みなく、必要以上に働きまくっていた時期を振り返り、「こんな徒然の状態こそが、今の自分に必要なものだ!」と、改めて思わせてくれた。
卜部兼好先生!ありがとう!
(→吉田兼好よりも、卜部兼好っていうのが本当の呼び方らしいです。)
■つれづれ
「徒然(つれづれ)」の語源を大辞林で調べると、
**********************
「つれづれ」は「連(つ)れ連(づ)れ」の意で、
[名・形動]
1 することがなくて退屈なこと。また、そのさま。手持ちぶさた。
2 つくづくと物思いにふけること。
3 しんみりとして寂しいこと。また、そのさま。
[副]
1 長々と。そのままずっと。
2 しんみりと寂しいさま。
3 よくよく。つくづく。
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と書いてあった。
この本のP17にも、「徒然つれづれ」の語源が書いてある。
古語の「つる」は、現代語の「連れる」に当たり、『連続する、同行する、連動する・・・』のような、『複数のものが一緒にいる』という意味だったと。
ただ、一緒にいる時間が長くなるにつれて、『いつも同じ、単調・・・』のような心理的判断が入ってきて、それが転じて『退屈だ、暇だ・・・』というような否定的な意味でも使われるようになったと。
そこで、作者の卜部兼好は、否定的な意味を逆転させて、積極的な精神活動の意味として使っていると記されている。
この本は複数人で輪読会の課題図書として使ったのだけれど、「徒然草って<兼好ブログ>みたいだねー」とみんな言っていた。本当にその通りだと思った。
(→課題図書としては、表紙写真の『徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)』(角川書店)を使ったけど、このシリーズは本当に秀逸で読みやすく面白い!古典の入り口として最適!)
自分だけの日記は人に読ませることができない。それは、閉じられたもの。
ブログはネットに公開している以上、ある程度他者に読まれることが前提になっている。それは、開かれたもの。
自分もこうしてブログを書いているけど、自分のためだけに書いているわけではない。
寧ろ、自分以外の人に、自分のありのままの感情や思考過程を晒し、共感してくれる人に違う立場からコメントをもらうことで、更に自分の感情や自分そのものを深めていくことができる。
そんな自己との対話や、他者との対話にとっての触媒として、自分はブログを使っていると思う。
この感覚は、兼好が「徒然草」として文章を書き始めた時の感覚にも近いのかなと思った。
つまり、「つれづれ」の最初の意味である「連れ連れ」のイメージがより近い。
自分で一人だけの妄想に励んでそれで終わりにするんじゃなくて、そこから色んな複数の人と呼応して共鳴して連動していく。
終着点ではなく出発点として、自分のブログは位置づけているし、兼好の徒然草もそれに近いんじゃないかと感じた。
あまりにも有名な序文がある。
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序段 つれづれなるままに
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(原文)
つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
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(現代語訳)
徒然と目的に縛られず自由に過ごしながら、心に自然に湧き起こっては消えてゆくいろんなことを、特になんという理由もなく書きつけてていると、夢か現か、正気か狂気か、そんな不思議な気がして時間を忘れてしまうのです。
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兼好が、一人山奥にこもって隠遁生活を送り、一人で勝手に妄想にふけっているだけで終わってたら、僕らはこの徒然草の文章を読むことはできなかった。兼好が何を考えていたかなんて知る由もなかった。
一人で悶々と考えてきた徒然なる思いを、自分一人で閉じるんではなくて、連れ連れに共有して呼応したいという強い思いがあって、硯に向かって、筆を取って、紙を敷いて、他者に開いたからこそ、この本は古典として残ったんだろう。
今、ほんの数百円払うだけで、せいぜい牛丼と同じ程度の値段を払うだけで、徒然草を読むことができる。
兼好法師が「僕、一人悟っちゃったもんねー。でも、自分一人で勝手に味わってまーす。教えてあげなーい。」みたいな感じだったら、彼が何を考えてたかなんて誰にも分らない。
そんなの悟りでも徒然でも何でもなく、「単なる自意識過剰なんじゃないの!」って言いたくなります。
兼好は自分だけで閉じるんではなく、徒然なるままに書き記して、開いた。
徒然草の内容自体は、結構突っ込みどころも満載なんです。(女性についての考えとか→第百七段『かく人に恥ぢらるる女』、友人についての考えとかね!→第百十七段『友とするにわろきもの』。単にウケ狙ってすべってるだけ? (^^;))
まあ、そこには目をつぶりましょう。(笑)
文章も流れるように綺麗で美文家だし、バランス感覚にもすごく優れている。
常に、「徒然なる状態」に戻ろうと、その軸を意識しながらバランス良い振り子運動を繰り返しながら文章を紡いでいるし、そんな色んな魅力的な要素+偶然性によって、この徒然草は鎌倉時代(1330年頃の作品らしい)から現代に残ったんでしょう。
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第七十五段 つれづれわぶる人は
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つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。
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(現代語訳)
時間を持て余す人の気がしれない。何の用事もなく、独りでいるのが最高なのだ。
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そんな風に、自分一人の時間をしっかり持つこと。
そんな孤独なindependentな状態から、孤立ではなく孤高に行くこと。
孤立に行くか、孤高に行くかの大きな違いは、前者は自分だけで閉じていることだし、後者は閉じるだけではなく開いたということの違いなんだと思う。
■兼好の死生観
徒然草から兼好の死生観も読み取れる。
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第百五十五段 世に従はん人は
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(原文)
木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとる序甚だ速し。
生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
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(現代語訳)
木の葉っぱが落ちるのも、落ちてから芽が生えるのではなくて、内部からの芽生える力に押し出され、耐えられなくなるから古い葉が落ちるのである。葉が落ちるのを既に準備しているから、変化・交代するのはとても速い。
生・老・病・死の移り変わりは、四季の変化より速い。四季の変化は春夏秋冬の順番があるが、人間の死は順番などなく突然やってくるものである。
死とは、向こう側からやって来るものではなく、いつの間にか後ろに迫っているものなのだ。人は誰でも死がやって来ることを知っていながらも、覚悟していないときに突然死がやって来てしまう。干潟が遠くに見えていても、満潮時にはいつのまにか目の前が潮で満ちてしまっているのと同じ事なのだ。
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第百六十六段 人間の営み合へるわざを
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(原文)
人間の、営み合へるわざを見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀・珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること雪の如くなるうちに、営み待つこと甚だ多し。
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(現代語訳)
人間のあくせくした日常を見ると、晴れた春の日に雪だるまを作って、金銀・宝石の飾りつけをしたお堂を建てようとしているのに似ているかもしれない。
お堂の完成を待って、その雪仏が安置できるだろうか、いやそんなはずがない。
人の命というものは、まだ寿命が十分にあると思っていても、雪で作った仏のように、いつのまにか足もとから溶け出しているようなものなのだ。そんな儚い人生を直視しようとせず、目的にがんじがらめに縛られ、あくせくと訳もなく働いているようなことが多いのである。
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兼好の死生観は、無常や儚さをベースにしている。
穏やかな美文からも、「ちゃんと死を想え!死と向き合うことが生きることだ!目的にがんじがらめに縛られて生きるな!」というような、激しい息遣いが聞こえてくる気がするのが不思議だ。
死とは遠く向こうの目に見えないところにあるものではなく、いつのまにか自分の後ろにベッタリとへばりついているのかもしれない。死は下を見ると既にそこにあって、足元からドロドロと自分の生は溶け出し始めているのかもしれない。もう、死に始めているのかもしれない。
生まれた以上、いづれ死ぬことがは例外なく決まっている。
人間の死亡率は100%!というのは誰もが当たり前に知っているけど、実は見て見ないふりをしていることも多い。
でも、兼好法師はそこで投げやりになるのではなく、『徒然と無目的に今を楽しみながら、生きることや死ぬことを噛みしめながら、今を生きていきましょうや』という風に、肩をポンと叩きながら前向きな声をかけてくれているように聞こえてくるのが不思議だ。
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第百三十七段
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(原文)
思ひかけぬは死期なり。
今日まで遁(のが)れ来にけるは、ありがたき不思議なり。
しばしも世をのどかに思ひなんや。
================================
(現代語訳)
死期は思いがけずやってくる。
今日まで死期から偶然逃れてきているのは、奇跡のように起こりにくいものであり、不思議なことである。
そんな奇跡的な今を生きているのに、この世界に何も気をかけずにいることができるだろうか。
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『ありがたき』とは、原義では「有り難い」「ありにくい」という意味で、「あり」ではあるが、いつでも「なし」に転じうるアヤフヤで不安定なもの。ただ、それでも「ある」という不思議さ!
『今、現にこうして生きている「ありがたき不思議」を噛みしめながら、誰にも訪れる死というものを当たり前に感じながら、それでも独りではなく共に生きていきましょうや。』というような、兼好の呼びかけが聞こえてくるような気がした。
それが、徒然に今を楽しむことかもしれないですね。
ブログで自分の考えをさらしたり、時にはみんなで都合を合わせて会ってお喋りしたり、そんな風に『連れ連れ』と毎日を楽しみたいものです。
仕事に励むという言い訳で思考停止して、色んな物事を見てみないふりをして過ごすのはよくない。
それは、閉じるのではなく、開くこと。
そして、それは徒然草の出発点でもある。
『徒然草』は、過去版ブログのようなもの。
僕らのブログは、現代版『連れ連れ草』のようなもの!
徒然草って、自分の心理状況に応じて無限に解釈が変化していく本なのかもしれない。
自意識過剰ではなく、無限の他者に合わせた本だから、古典として時間の重さに耐えて今まで残ったのかもしれないですね。
・・・・ありがたき不思議なり!!