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■因果律、論理
仕事で自然科学に接していると、思考は自然にロジカルになってくる。
思考がロジカルになると、すべてが論理で、理屈で、原因と結果の繰り返しで、物事を説明できるように思うようになる。
でも、全てが「因果律」で説明できると思いだすと、それは危ない。
全てに原因があって結果が起きると思いだすと、「偽の因果律」を無意識につくってしまう危険性がある。
何か現象を見たとき。何かの「結果」と考えて、逆向きに論理の糸をさかのぼって、その「根本原因」を探していくことは、大事な営みだと思う。それは否定しない。
今後、同じ失敗を踏まないために、そういう思考実験をして考えてみることは、すごく大事だ。
そして、因果律を考えていくプロセスが、誰かを救ったり、誰かを助けたり、誰かを幸せにすることに使えるのなら、それはとても重要なことだと思う。
でも、それで全ては説明できない。因果律ですべてが説明できると思うのは、ただの傲慢だと思う。
物事は、必ずしも原因が明らかにできるわけではないから。
謎。
謎の幅はある程度狭くできるかもしれないけれど、ある程度までしか狭くすることはできない。
謎は謎として残されることは多い。
それを、偽の因果律で分かった気になって、それ以上考えなくなると思考停止と同じこと。
そこは、入口も出口もない迷宮の袋小路。
■主語と述語
コトバ。
僕らが日常使うコトバは、主語と述語で表現していくシステムだ。
主語・述語の関係を日々使って話し、考えているから、無意識に因果律に支配されやすいのだろう。
だから、そこを超えるために、詩人がいるし、芸術が存在しているのだと思う。
■共時性(シンクロニシティー)
手荷物になりがちな余計な知識を取っ払って、赤ん坊のような眼差しで世界を見つめていると、因果律に支配されない「共時性」(シンクロニシティー)を感じることがある。
「共時性」(シンクロニシティー)とは、意味のある偶然の一致のこと。
たとえば、なぜ「ここ」に「この机」があるのか。
このことを果たして因果律だけで説明できるだろうか。
同じ空間と同じ場所に存在しているということを、因果律だけで説明するのはかなり難しい。
■出会い
人との出会いもそうだろう。
ある人とある人が、ある時間と、ある場所の微細な一点で交差したから、人と人とは出会う。
そこに因果律が働くときもあるけれど、多くの出会いは、この世界の共時性の象徴なのではないかと思う。
宇宙の広大な空間、宇宙の億単位の時間。
その無限の可能性の中で、人と人とが出会うことは、ある特定の場所と時間に同時に存在している必要がある。
ほんの少し空間と時間がねじれるだけで、人は出会わない。
まさに、共時的な現象だ。
出会うこととは、まさに一期一会。
常に最初であり、最後なのだと思う。
むかし、
●『一期一会』(2008-10-27)←もう2年前!
●『他者との出会い(2009-04-04)』←1年半前!
●『出会い」の偶然と必然』(2009-11-18)←1年前!
という文章をブログに書いた。(どれも文章長いよね。元気だなー、昔の自分。)
自分は、半年~1年に1回程度の周期で、「共時性」、「出会い」・・「奇跡」そのもの、「偶然と必然」そのものについて、何か深く強く電流が流れるみたい。それって、まさしく「生きていること」そのものもそうだと思うのだけど。
だから、文章にしてみたくなる。
ただ単に、それだけ。
仕事で自然科学に接していると、思考は自然にロジカルになってくる。
思考がロジカルになると、すべてが論理で、理屈で、原因と結果の繰り返しで、物事を説明できるように思うようになる。
でも、全てが「因果律」で説明できると思いだすと、それは危ない。
全てに原因があって結果が起きると思いだすと、「偽の因果律」を無意識につくってしまう危険性がある。
何か現象を見たとき。何かの「結果」と考えて、逆向きに論理の糸をさかのぼって、その「根本原因」を探していくことは、大事な営みだと思う。それは否定しない。
今後、同じ失敗を踏まないために、そういう思考実験をして考えてみることは、すごく大事だ。
そして、因果律を考えていくプロセスが、誰かを救ったり、誰かを助けたり、誰かを幸せにすることに使えるのなら、それはとても重要なことだと思う。
でも、それで全ては説明できない。因果律ですべてが説明できると思うのは、ただの傲慢だと思う。
物事は、必ずしも原因が明らかにできるわけではないから。
謎。
謎の幅はある程度狭くできるかもしれないけれど、ある程度までしか狭くすることはできない。
謎は謎として残されることは多い。
それを、偽の因果律で分かった気になって、それ以上考えなくなると思考停止と同じこと。
そこは、入口も出口もない迷宮の袋小路。
■主語と述語
コトバ。
僕らが日常使うコトバは、主語と述語で表現していくシステムだ。
主語・述語の関係を日々使って話し、考えているから、無意識に因果律に支配されやすいのだろう。
だから、そこを超えるために、詩人がいるし、芸術が存在しているのだと思う。
■共時性(シンクロニシティー)
手荷物になりがちな余計な知識を取っ払って、赤ん坊のような眼差しで世界を見つめていると、因果律に支配されない「共時性」(シンクロニシティー)を感じることがある。
「共時性」(シンクロニシティー)とは、意味のある偶然の一致のこと。
たとえば、なぜ「ここ」に「この机」があるのか。
このことを果たして因果律だけで説明できるだろうか。
同じ空間と同じ場所に存在しているということを、因果律だけで説明するのはかなり難しい。
■出会い
人との出会いもそうだろう。
ある人とある人が、ある時間と、ある場所の微細な一点で交差したから、人と人とは出会う。
そこに因果律が働くときもあるけれど、多くの出会いは、この世界の共時性の象徴なのではないかと思う。
宇宙の広大な空間、宇宙の億単位の時間。
その無限の可能性の中で、人と人とが出会うことは、ある特定の場所と時間に同時に存在している必要がある。
ほんの少し空間と時間がねじれるだけで、人は出会わない。
まさに、共時的な現象だ。
出会うこととは、まさに一期一会。
常に最初であり、最後なのだと思う。
むかし、
●『一期一会』(2008-10-27)←もう2年前!
●『他者との出会い(2009-04-04)』←1年半前!
●『出会い」の偶然と必然』(2009-11-18)←1年前!
という文章をブログに書いた。(どれも文章長いよね。元気だなー、昔の自分。)
自分は、半年~1年に1回程度の周期で、「共時性」、「出会い」・・「奇跡」そのもの、「偶然と必然」そのものについて、何か深く強く電流が流れるみたい。それって、まさしく「生きていること」そのものもそうだと思うのだけど。
だから、文章にしてみたくなる。
ただ単に、それだけ。
実はこのブログ、ほんっとーに久しぶりにみんなのブログを見に行って、たまたまいなばさんがこのブログを書いた翌日に読みました。
この内容に呼ばれて、ブログを読む気になったのかもしれません。
でも、そのときはまだコメントを書くエネルギーがなくて、ただただあなたの発信するアイディアに感動して終わった。
そしてまた戻って、今回はコメントを書いています。
ロゴスの世界づけになると、やっぱり時々息抜きして、感覚や想像力など目に見えないパワーを最大限活用したくなる。それでもロゴスに縛られる私がいるわけですが・・・もう、職業が自分の一部に入り込んでしまっているなぁ。
どのテーマも、繰り返し繰り返し戻ってくることで深みを増してくる。少しずつ新しい要素を織り込みながら、少し複雑だけど、微妙なバランスを持った美しさを持った色合いを出していくようになっていると思うよ。
>心が動いたー
ありがとう!
なんか自分のブログは、熱に任せて書きすぎですねー。笑
>ロゴスの世界づけになると・・・・
ともこさんの世界も、英語の世界も、ロゴス中心ですよね。
きっと目に見えない大変さがあると思うのです。
明確で分かりやすい反面、力を持つから暴走もしやすいし。
2項対立でYes/Noをわけながら切り進むような感触でね。
ぼくは医学をやっていて、自然科学をやっています。
自分と対象との関係性を切って、客観的に冷静に向こう側を見ることは、もちろん学問の誠実な態度としてはすごく大事なのだけど、相手が人間である以上、そのときの「つめたい感じ」「つきはなされた感じ」「関係性を切られる感じ」・・・っていうことには敏感であらねばと思っています。
そして、それは後輩の医師にも、言葉だけではなくて行動や態度や実践で示していかないといけないことで。
共時性とか偶然っていうのは、科学主義や客観主義ではあつかえなくて、それはすぐにインチキとかデタラメとか、まじめに相手にする人も少なくて。
ぼくは偶然も共時性も、あいまいさも、そういうものを医学にも取り戻したいと思ってます。
いまの科学中心主義では困難な道ですけど、将来に向けてやらねばならん仕事かと。
その前仕事として、言語も科学も、理性や因果律を極限まで勉強してみるのは大事ですよね。
是非、いづれ、想像もできないタイミングで、共に仕事できればいいねぇ!
(ブログも遊び行きましたよ!)
>>明確で分かりやすい反面、力を持つから暴走もしやすいし。
2項対立でYes/Noをわけながら切り進むような感触でね。
そうなのです。それでいて、最近面白いなと特に感じているのは
「その2つに切り分ける作業を、単純化しないで、丁寧に行うかがロジックのbeauty =真髄、美しさなのではないか」ということです。
限りなく「0ゼロ」の近似値に進むように、ロジックも丁寧に考えれば、あいまいさもより意味のあるものとして理解されうるのではないか。そういう意味で私は言語を使ったロジックの科学的(?)アプローチに魅了されている一人です。
教育に携わる者として、頭では科学的アプローチで、ロジカルに考え、ノウハウを生み出していながらも、同時にハートでは感情という曖昧で移ろいやすい部分を大事にして、人に教えていくのが大切だなぁと思ってます。医療と異なり、生死には関係しないけれど、その人の一生の中で何かが残り、それがプラスの形で影響するように仕事をしたいなと思ってます。
今後何がどう重なるか分からないけれど、非常に楽しみだよね。
ブログも来てくれてサンクス!
言語ロジックのBeatyは、数学や物理学の美的な世界観にも通じるように思えます。追及していけばいくほど、その深みに達した人ならではの面白さがあるんだと思うな。
ロジカルなとこと、感情のとこ、そこを切らずに揺れ動くのは大事ですよね。
なんだかんだ言って、智子さんも機嫌悪かったら教え方が知らないうちに怖くなったりすることもあるかもしれんし笑、それは僕もよく感じます。
いかに自分の心を強く保つか、そのことでものごとは全てが歪んで見えてくるし、そこにロジカルな合理的な思考を入れていくと、かなり歪んだまがいもののロジカルな思考になる。
それは、自然科学とか医学、特に医学は人間を相手にしているだけに、相手との相互作用の部分はかなり大きいと感じています。
その辺は、その人の人間性とか、バランス感覚とか、そういうものでひとまとめされるものなのかもしれないなぁ。
ともこさんも、見た目と趣味とかサブカルチャーへの関心とか、全然違うしね笑 そういうその人特有のバランス感覚は大事だと日々感じてます。それがその人の魅力になるもので・・。