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前回のブログ(→『「無」から見ること』(2009-06-14))で、盲目のピアニスト辻井さんのことを少し書いて、書き忘れたことを思い出したので書いてみる。
辻井さんのお母さんがテレビに出て言っていた。
「最初、自分の子の目が見えないと知った時は本当にショックでした。
絶望した時期もありました。
なんでこの子が、なんで自分の子が、と思いました。
ただ、徐徐に事実を受け止めて、どういう風に育てていくかを積極的に前向きに考えるようになりました。
そして、この子に色を教えようと思いました。
色の教え方としては、リンゴの色の赤色、バナナの色の黄色・・
という風に、味覚として分りやすい食べ物ものと色を関連付けて教えました。
そしたら、息子がこう聞いてきました。
『お母さん、今日の風は何色?』」
そんな子育てに関する色々な話が、『今日の風、なに色?』という本に書かれている。
僕は、これは非常に示唆に富む話だと思った。
想像力を喚起され、考えた。
僕らは視覚能力が「有る」から、視覚情報にひきずられることが多い。
視覚的に見えるものは、主観的にも客観的にもその存在や実存が信じやすいので、
視覚的に見えるものを信じる傾向にある。
そして、視覚的に見えるものだけを信じるようになり、
最終的には、見えるものだけが見えるようになる。
裏を返すと、見えないものは見えなくなる。
では、辻井さんのように視覚能力が「無い」人は、この世界をどうとらえているか。
それは、僕らとは真逆から世界を見ているのであって、
「僕らに見えないものを見ていて、僕らに見えるものが見えない」
だけに過ぎないのだ。
見える世界と見えない世界。
どちらの世界が多様で広大だろうか。
どちらの世界が重みや深みや凄みがあるだろうか。
見える世界とは、
僕らの有限な時間の中で、自分の目で確認できる世界だけの
ちっぽけな閉じられた世界に過ぎない。
それを補完するために、テレビやインターネットや写真が普及してきたのだろう。
しかし、それはいつまでたっても見える世界の後追いに過ぎないし、
その見える世界で閉じられている。
「有る」というような「見える」という視点は、そうして構造的に閉じられる。
逆に、「無い」というような「見えない」という視点は、構造的に無限に開かれている。
僕らの生きている世界で大切にされている『概念』のようなものがある。
それは、情、愛、人権、平等、希望、魂、思い、誇り、尊厳、歴史、文化、芸術・・・・・
数え上げるとキリがなくて、色んな言葉があるけれど、
僕はその中で、どの概念も、全体が眼に見えたことはない。
きっと、永遠に眼には見えない。
実は、なんとなくその場しのぎのツギハギの知識で理解したような気になっているだけである。
見えた気になっているだけである。
上に挙げたような眼に見えない概念こそ、
僕らは至上な概念としているにも関わらず、
僕らは視覚能力が「有る」ばかりに、見える世界に引きづられ、
「見えるものだけが見えるようになり、見えないものは見えなくなる。」
辻井さんのように、
「僕らに見えないものを見ていて、僕らに見えるものが見えない」
そんな人から発せられる芸術に出会うと、
そこで初めて本当の『世界』に出会うのではなかろうか。
辻井さんのような世界観、そういう僕らの世界に対する鏡のようなものを通して、初めて『世界』の全体と、僕らは出会うのだ。
それはまるで、鏡のようものを通してしか、自分の姿形を見ることができないのと同じことなのかもしれない。
僕らが自分自身の姿かたちと出会うのは、常に鏡を通してなのである。
これは聴覚能力に関しても同様である。
「聞こえるものは聞こえるけど、聞こえないものは聞こえない。」
僕らが本当に聞かないといけないものは、
現在生きている人の声にならない叫びや、
過去に生きていた人の声や音にもなり得なかった魂の叫びのようなもの。
そんな目にも見えないし耳にも聞こえないようなものこそ、
僕らは見ようとしないといけないし、聞こうとしないといけないのかもしれない。
そんなことをボンヤリ考えています。
辻井さんのお母さんがテレビに出て言っていた。
「最初、自分の子の目が見えないと知った時は本当にショックでした。
絶望した時期もありました。
なんでこの子が、なんで自分の子が、と思いました。
ただ、徐徐に事実を受け止めて、どういう風に育てていくかを積極的に前向きに考えるようになりました。
そして、この子に色を教えようと思いました。
色の教え方としては、リンゴの色の赤色、バナナの色の黄色・・
という風に、味覚として分りやすい食べ物ものと色を関連付けて教えました。
そしたら、息子がこう聞いてきました。
『お母さん、今日の風は何色?』」
そんな子育てに関する色々な話が、『今日の風、なに色?』という本に書かれている。
僕は、これは非常に示唆に富む話だと思った。
想像力を喚起され、考えた。
僕らは視覚能力が「有る」から、視覚情報にひきずられることが多い。
視覚的に見えるものは、主観的にも客観的にもその存在や実存が信じやすいので、
視覚的に見えるものを信じる傾向にある。
そして、視覚的に見えるものだけを信じるようになり、
最終的には、見えるものだけが見えるようになる。
裏を返すと、見えないものは見えなくなる。
では、辻井さんのように視覚能力が「無い」人は、この世界をどうとらえているか。
それは、僕らとは真逆から世界を見ているのであって、
「僕らに見えないものを見ていて、僕らに見えるものが見えない」
だけに過ぎないのだ。
見える世界と見えない世界。
どちらの世界が多様で広大だろうか。
どちらの世界が重みや深みや凄みがあるだろうか。
見える世界とは、
僕らの有限な時間の中で、自分の目で確認できる世界だけの
ちっぽけな閉じられた世界に過ぎない。
それを補完するために、テレビやインターネットや写真が普及してきたのだろう。
しかし、それはいつまでたっても見える世界の後追いに過ぎないし、
その見える世界で閉じられている。
「有る」というような「見える」という視点は、そうして構造的に閉じられる。
逆に、「無い」というような「見えない」という視点は、構造的に無限に開かれている。
僕らの生きている世界で大切にされている『概念』のようなものがある。
それは、情、愛、人権、平等、希望、魂、思い、誇り、尊厳、歴史、文化、芸術・・・・・
数え上げるとキリがなくて、色んな言葉があるけれど、
僕はその中で、どの概念も、全体が眼に見えたことはない。
きっと、永遠に眼には見えない。
実は、なんとなくその場しのぎのツギハギの知識で理解したような気になっているだけである。
見えた気になっているだけである。
上に挙げたような眼に見えない概念こそ、
僕らは至上な概念としているにも関わらず、
僕らは視覚能力が「有る」ばかりに、見える世界に引きづられ、
「見えるものだけが見えるようになり、見えないものは見えなくなる。」
辻井さんのように、
「僕らに見えないものを見ていて、僕らに見えるものが見えない」
そんな人から発せられる芸術に出会うと、
そこで初めて本当の『世界』に出会うのではなかろうか。
辻井さんのような世界観、そういう僕らの世界に対する鏡のようなものを通して、初めて『世界』の全体と、僕らは出会うのだ。
それはまるで、鏡のようものを通してしか、自分の姿形を見ることができないのと同じことなのかもしれない。
僕らが自分自身の姿かたちと出会うのは、常に鏡を通してなのである。
これは聴覚能力に関しても同様である。
「聞こえるものは聞こえるけど、聞こえないものは聞こえない。」
僕らが本当に聞かないといけないものは、
現在生きている人の声にならない叫びや、
過去に生きていた人の声や音にもなり得なかった魂の叫びのようなもの。
そんな目にも見えないし耳にも聞こえないようなものこそ、
僕らは見ようとしないといけないし、聞こうとしないといけないのかもしれない。
そんなことをボンヤリ考えています。
インターネットによる画像は、本来、目の前にできないものを見ている
電話やラヂオの登場した時代も、同様な議論
があったのかしら?
辻井さんですが、
演奏は全部きいていないからわからないが
非常にきれいな話言葉だなと思いました
どうでしょう?
「視覚のある者が見えないものを見ている」と
いなばが表した理解については
「視覚のある者が見えないものをしっている」と感じておりました。
ほぼ同じことを考えていると思っていたのですが、自分の理解には、やはり視覚は視覚であってとの前提がありますかね。この前提が世界を閉じるとなれば、どう閉じるのだろう。
◆H.P.様
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最初にテレビとか出てきたときって脅威だったと思いますよね。
僕らは生まれた時から当たり前のように見ているけど、本当は相当にとんでもない世界を見ている。
世界中の風景を、視覚的には一度はだいたい見ているから。
アラスカも北極もインドも少数民族も宇宙も!
すごいもんです。
家にいて、寝っ転びながら、映像を視覚的には認識できるわけですからねー。
しかも、Internetなんてさらにすごい。ほとんどオカルトのような技術!
今だに、何でこんなことができるのか、細かいレベルでは全くわからん。
Skypeとか使えば、海外の人とリアルタイムに、全く時差もなく無料で会話もできる。
これは本当にすごい。
Skypeなんかも、つい数年の進歩でしょうしね。
ここ100年くらいで、映像や通信の技術は爆発的な進歩をしていますよねー。
縄文とか平安時代の僕らの祖先もびっくりでしょう。
わしも、辻井さんの言葉使いとか、ものすごく美しいなぁと思いました。
なんか皇族の方々が使われているような言葉と言うか。
「視覚のある者が見えないものを見ている」は、
「視覚のある者が見えないものをしっている」と解釈してもらってかまいませんよ。
感じたように解釈してください。この辺はほとんど感覚のレベルで伝えようと思っていますので。
少なくとも、僕らの視覚世界とは、ほぼ真逆(真裏?)の世界から同じものを認識している
ということを伝えたかったわけです。
僕らが言う「見る」と、盲目の方が言う「見る」は、違うんだと思いますしね。
盲目の方の世界を疑似体験するには、目隠しをして1年くらい生活してみたり。
そう言えば、以前東大のどこかの研究室の実験台として、
お年寄りが見える感じに視覚が障害された眼鏡をつけて半日くらい生活をして、
そのときの体験をレポートする実験を手伝ったことありますが、
いかに自分が視覚情報中心で生活していたかが実感できました。
自意識過剰にならないように、こういう体験を定期的にするのは、
誰にとってもいいことなんだと思いますね。
自分の視点だけでなく、他者を中心にした視線を常に意識しないと、
「意識を意識している」という意識漬けの日々なだけに、自意識過剰に陥りやすいのは要注意ですねー。