5月真ん中あたりです。
1年って早いですね。最近は時間のことをあまり考えずに生活していて、一日一日を集注して生活しているのです。1日に毎日注意を集めること。1日たりとも疎かにすることなく。それが与えられた生命への感謝の気持ち。
そろそろ1年も折り返し地点。
何に関しても、「折り返し地点」だけは考えてます。
■「プールサイド」
*************************
村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』より
「プールサイド」
『主人公は35歳の誕生日を迎えて、ここを人生の折り返し点と決める。
そして折り返してはじめての煙草を吸い、豊かな生活、かわいい妻、そして愛人もいる、申し分ないと思う。
でもなぜか10分間だけ、泣く。 それだけの物語だ。』
*************************
『35歳になった春、彼は自分が人生の折りかえし点を曲ってしまったことを確認した。
いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。
もちろん自分の人生が何年続くかなんて、誰でもわかるわけがない。
もし78歳まで生きるとすれば、彼の人生の折りかえし点は39ということになるし、39になるまでにはまだ4年の余裕がある。
それに日本人男性の平均寿命と彼自身の健康状態をかさねあわせて考えれば、78年の寿命はとくに楽天的な仮説というわけでもなかった。
・・・だから35回めの誕生日が目前に近づいてきた時、それを自分の人生の折りかえし点とすることに彼はまったくためらいを感じなかった。
怯えることなんか何ひとつとしてありはしない。
70年の半分、それくらいでいいじゃないかと彼は思った。もしかりに70年を越えて生きることができたとしらた、それはそれでありがたく生きればいい。
しかし公式には彼の人生は70年なのだ。
70年をフルスピードで泳ぐ-そう決めてしまうのだ。
そうすれば俺はこの人生をなんとかうまく乗り切っていけるに違いない。
そしてこれで半分が終わったのだ
と彼は思う。』
*************************
『もし水泳競技にターンがなく、距離表示もなかったとしたら、400メートルを全力で泳ぎきるという作業は救いのない暗黒の地獄であるにちがいない。
ターンがあればこそ彼はその400メートルをふたつの部分に区切ることができるのだ。
<これで少なくとも半分は済んだ>と彼は思う。次にその200をまた半分に区切る。<これで3/4は済んだ>。そしてまた半分・・・・・。
という具合に長い道のりはどんどん細分化されていく。
距離の細分化にあわせて、意志もまた細分化される。』
*************************
■
Facebookが上場したとのことでのインタビュー。
「株価が上がると思ってたくさん株を買いました。」・・その他同じようなインタビュー映像が流れる。
株を買う。株価が上がる。株を売る。差額が自分に入ってくる。儲ける。
この流れに、どこまでの意味があるのでしょうか。自分にはよくわかりません。
きっとこのように正当化することでしょう。
「いいかい、君は経済というものが全く分かってないね。世界はお金で動いている。経済で動いているんだ。
お金は動かさないといけない。お金は血液のようなものなんだよ。
だからお金をタンスや預金で預けているだけでは何の意味もない。ただの紙くずと同じだ。
だから、株を買ったり投資したりする。そのことで未来を買うわけだ。未来の若者たちにチャンスを上げる。育てる。
そのご褒美に、自分の先見性が正しければ少しだけのご褒美がもらえる。なんと素晴らしいことじゃないか。
株をやっている人間がマネーゲーム?とんでもない話だ。僕らも毎日寝ずに一生懸命働いている。
ある程度心を冷たくするのはしょうがないことなんだ。そういう世界なんだ。分かるだろ?
僕らが一生懸命やっているのを否定する権利は君にはないはずだ。
何も働かずにお金をもらっている人たちは実にけしからんと思うね。信じられない話だ。
どうせ仕事をえり好みしてるんだろ。なんでも求職あるだろう。えり好みせず働けばいいんだ。
ほんと、働かずにお金をもらっているなんてとんでもない話だよ。」
・・・・・
なぜこんな話が正しい気がする時代になってしまったのか、よくわかりません。
歴史を学ぶ必要があります。だから、歴史を学んでいます。
自分の中で歴史の始まりは14600000000年の前の宇宙の始まりから。そして4600000000年前の地球の始まり。4000000000年前の海と生命の始まり。
そして、6000000年前のヒトのはじまり。そして、ここ数千年のヒトの歴史を。
社会は多様な人間で成立している。
ひとりひとりは個別的で全員違う。だけれど、人間という意味では全員同じ。
生きる事情は全員違うし、精神状況も肉体状況も全員違う。だけれど、生まれてきていつか死ぬ、という意味では全員同じ。
<違う>と<同じ>。
社会は複数の人たちが生きている。
人間は「こころ」を持っている。
「こころ」を喪失していても、傷ついていても、輝いていても、そのときの表面的な状況が違う事はあっても、全員が持っている。
人間は「自我」を持っている。
自我は自分の幸福を考える。
でも、自我を超えた人間ぜんたいは、生きとし生きるものすべての幸福を考える。
自分の幸福はその一番最後に結果的に偶然にもたらされるものだ、と考える。自己本位と他人本位。恋と愛。
社会を作っていく上で、会社は「法人」という形で法律上の人格を与えられる。そこに擬似的な生命がつくられる。
その擬似的な「法人」というヒトは、それを生み育てた複数のひとたちの「こころ」の集合体としての擬似的な「こころ」を持つ。
だから、「カイシャ」も「ホウジン」も、自分は人間だと思っている。ヒトだと思っている。生命だと思っている。「こころ」を持つと思っている。
だから、愛情を持って育てないといけない。そして、愛情さえあれば、なんとかなる。食べ物とか、見てくれたとか、形とか、社会的圧力とか、そういうもののもっとも基盤になる滋養は、愛情だと思う。他者本位の無償で無条件なもの。なにものにもとらわれないもの。
上場と株の話を聞いていると、そんなことをふと思います。
人間にはいろんな課題がある。葛藤があり、矛盾がある。そして成長がある。
夢から覚め、夢から覚め、夢から覚めるために、日々生きている。
一日一日は、毎日夢から覚めることから始まり、夢を見ることに終わる。そこに記憶が伴うかどうかは本質ではない。
だから、毎日、社会が作り出した夢から覚めている。裏返すと、毎日、社会が作り出した夢に入っているとも言える。
「冷たい厳しさ、温かい優しさ」は自己本位だと思う。
「冷たい優しさ、温かい厳しさ」が大事だと思う。
そういう態度で日々、眠りから目覚めている。
ユング
「全て良いものは高くつくが、人格の発展ということはもっとも高価なものである」
「個性化は二つの主要な面を持っている。まず一つは、内的・主観的な統合の過程であり、他の一つは同様に欠くことのできない客観的関係の過程である。ときとして、どちらか一方が優勢となることもあるが、どちらも欠かすことができない」
ヒトは毎日毎日、夢から覚めている。
1年って早いですね。最近は時間のことをあまり考えずに生活していて、一日一日を集注して生活しているのです。1日に毎日注意を集めること。1日たりとも疎かにすることなく。それが与えられた生命への感謝の気持ち。
そろそろ1年も折り返し地点。
何に関しても、「折り返し地点」だけは考えてます。
■「プールサイド」
*************************
村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』より
「プールサイド」
『主人公は35歳の誕生日を迎えて、ここを人生の折り返し点と決める。
そして折り返してはじめての煙草を吸い、豊かな生活、かわいい妻、そして愛人もいる、申し分ないと思う。
でもなぜか10分間だけ、泣く。 それだけの物語だ。』
*************************
『35歳になった春、彼は自分が人生の折りかえし点を曲ってしまったことを確認した。
いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。
もちろん自分の人生が何年続くかなんて、誰でもわかるわけがない。
もし78歳まで生きるとすれば、彼の人生の折りかえし点は39ということになるし、39になるまでにはまだ4年の余裕がある。
それに日本人男性の平均寿命と彼自身の健康状態をかさねあわせて考えれば、78年の寿命はとくに楽天的な仮説というわけでもなかった。
・・・だから35回めの誕生日が目前に近づいてきた時、それを自分の人生の折りかえし点とすることに彼はまったくためらいを感じなかった。
怯えることなんか何ひとつとしてありはしない。
70年の半分、それくらいでいいじゃないかと彼は思った。もしかりに70年を越えて生きることができたとしらた、それはそれでありがたく生きればいい。
しかし公式には彼の人生は70年なのだ。
70年をフルスピードで泳ぐ-そう決めてしまうのだ。
そうすれば俺はこの人生をなんとかうまく乗り切っていけるに違いない。
そしてこれで半分が終わったのだ
と彼は思う。』
*************************
『もし水泳競技にターンがなく、距離表示もなかったとしたら、400メートルを全力で泳ぎきるという作業は救いのない暗黒の地獄であるにちがいない。
ターンがあればこそ彼はその400メートルをふたつの部分に区切ることができるのだ。
<これで少なくとも半分は済んだ>と彼は思う。次にその200をまた半分に区切る。<これで3/4は済んだ>。そしてまた半分・・・・・。
という具合に長い道のりはどんどん細分化されていく。
距離の細分化にあわせて、意志もまた細分化される。』
*************************
■
Facebookが上場したとのことでのインタビュー。
「株価が上がると思ってたくさん株を買いました。」・・その他同じようなインタビュー映像が流れる。
株を買う。株価が上がる。株を売る。差額が自分に入ってくる。儲ける。
この流れに、どこまでの意味があるのでしょうか。自分にはよくわかりません。
きっとこのように正当化することでしょう。
「いいかい、君は経済というものが全く分かってないね。世界はお金で動いている。経済で動いているんだ。
お金は動かさないといけない。お金は血液のようなものなんだよ。
だからお金をタンスや預金で預けているだけでは何の意味もない。ただの紙くずと同じだ。
だから、株を買ったり投資したりする。そのことで未来を買うわけだ。未来の若者たちにチャンスを上げる。育てる。
そのご褒美に、自分の先見性が正しければ少しだけのご褒美がもらえる。なんと素晴らしいことじゃないか。
株をやっている人間がマネーゲーム?とんでもない話だ。僕らも毎日寝ずに一生懸命働いている。
ある程度心を冷たくするのはしょうがないことなんだ。そういう世界なんだ。分かるだろ?
僕らが一生懸命やっているのを否定する権利は君にはないはずだ。
何も働かずにお金をもらっている人たちは実にけしからんと思うね。信じられない話だ。
どうせ仕事をえり好みしてるんだろ。なんでも求職あるだろう。えり好みせず働けばいいんだ。
ほんと、働かずにお金をもらっているなんてとんでもない話だよ。」
・・・・・
なぜこんな話が正しい気がする時代になってしまったのか、よくわかりません。
歴史を学ぶ必要があります。だから、歴史を学んでいます。
自分の中で歴史の始まりは14600000000年の前の宇宙の始まりから。そして4600000000年前の地球の始まり。4000000000年前の海と生命の始まり。
そして、6000000年前のヒトのはじまり。そして、ここ数千年のヒトの歴史を。
社会は多様な人間で成立している。
ひとりひとりは個別的で全員違う。だけれど、人間という意味では全員同じ。
生きる事情は全員違うし、精神状況も肉体状況も全員違う。だけれど、生まれてきていつか死ぬ、という意味では全員同じ。
<違う>と<同じ>。
社会は複数の人たちが生きている。
人間は「こころ」を持っている。
「こころ」を喪失していても、傷ついていても、輝いていても、そのときの表面的な状況が違う事はあっても、全員が持っている。
人間は「自我」を持っている。
自我は自分の幸福を考える。
でも、自我を超えた人間ぜんたいは、生きとし生きるものすべての幸福を考える。
自分の幸福はその一番最後に結果的に偶然にもたらされるものだ、と考える。自己本位と他人本位。恋と愛。
社会を作っていく上で、会社は「法人」という形で法律上の人格を与えられる。そこに擬似的な生命がつくられる。
その擬似的な「法人」というヒトは、それを生み育てた複数のひとたちの「こころ」の集合体としての擬似的な「こころ」を持つ。
だから、「カイシャ」も「ホウジン」も、自分は人間だと思っている。ヒトだと思っている。生命だと思っている。「こころ」を持つと思っている。
だから、愛情を持って育てないといけない。そして、愛情さえあれば、なんとかなる。食べ物とか、見てくれたとか、形とか、社会的圧力とか、そういうもののもっとも基盤になる滋養は、愛情だと思う。他者本位の無償で無条件なもの。なにものにもとらわれないもの。
上場と株の話を聞いていると、そんなことをふと思います。
人間にはいろんな課題がある。葛藤があり、矛盾がある。そして成長がある。
夢から覚め、夢から覚め、夢から覚めるために、日々生きている。
一日一日は、毎日夢から覚めることから始まり、夢を見ることに終わる。そこに記憶が伴うかどうかは本質ではない。
だから、毎日、社会が作り出した夢から覚めている。裏返すと、毎日、社会が作り出した夢に入っているとも言える。
「冷たい厳しさ、温かい優しさ」は自己本位だと思う。
「冷たい優しさ、温かい厳しさ」が大事だと思う。
そういう態度で日々、眠りから目覚めている。
ユング
「全て良いものは高くつくが、人格の発展ということはもっとも高価なものである」
「個性化は二つの主要な面を持っている。まず一つは、内的・主観的な統合の過程であり、他の一つは同様に欠くことのできない客観的関係の過程である。ときとして、どちらか一方が優勢となることもあるが、どちらも欠かすことができない」
ヒトは毎日毎日、夢から覚めている。