日常

「ゴドーを待ちながら」

2014-02-25 18:40:19 | 芸術
東京ノーヴイ・レパートリーシアターの「ゴドーを待ちながら」を観てきた。
めちゃくちゃ面白かった・・・。


●ブレヒト『コーカサスの白墨の輪』(2013-06-13)
●『Idiot~ドストエフスキー白痴より~』(2013-10-08)
東京ノーヴイ・レパートリーシアターのこの二つもすごく面白い! 両国で今なら1000円で見れちゃいます。。


劇作家サミュエル・ベケットによる戯曲で、不条理演劇の代名詞らしく、この事件は演劇界に大きな影響を与えたらしい。
知らなかった・・・。


漫画でも不条理ギャグ(吉田戦車、榎本俊二、増田こうすけ、うすた京介・・・)が好きな自分としては、それほどの不条理には感じなかった。
というか、かなり緻密に作られた演劇だと感じた。これは演出家のレオニード・アニシモフ氏の解釈がすごいのかもしれないけど・・・。

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<あらすじ>
『ゴドーを待ちながら』は2幕劇。木が一本立つ田舎の一本道が舞台である。
第1幕ではウラディミールとエストラゴンという2人の浮浪者が、ゴドーという人物を待ち続けている。
2人はゴドーに会ったことはなく、たわいもないゲームをしたり、滑稽で実りのない会話を交わし続ける。

そこにポッツォと従者・ラッキーがやってくる。ラッキーは首にロープを付けられており、市場に売りに行く途中だとポッツォは言う。
ラッキーはポッツォの命ずるまま踊ったりするが、「考えろ!」と命令されて突然、哲学的な演説を始める。
ポッツォとラッキーが去った後、使者の少年がやってきて、今日は来ないが明日は来る、というゴドーの伝言を告げる。

第2幕においてもウラディミールとエストラゴンがゴドーを待っている。
1幕と同様に、ポッツォとラッキーが来るが、ポッツォは盲目になっており、ラッキーは何もしゃべらない。
2人が去った後に使者の少年がやってくる。
ウラディミールとエストラゴンは自殺を試みるが失敗し、幕になる。
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松岡正剛さんもあらすじ書いてます。
1067夜<サミュエル・ベケット ゴドーを待ちながら>



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演劇には多層構造で色んな解釈がある。
イメージやシンボルは、多重の意味を同時に表現しているものだ。
一つの思想や考えを伝えているものは、記号であり、広告であり、演劇とは違う次元のもの。



丁度、友人と「聖書」の輪読会をやることもあり、聖書を読んでいるここ最近。
(関係ないけれど、これは超名作!!→山浦玄嗣「イエスの言葉 ケセン語訳」(2013-08-07)


気になったのは『ゴドーを待ちながら』の、ゴドー(GODO)がGOD(神)とかかっているのではないかということ。
それを示唆するセリフが何度も出てくる。

キリスト教ではメシア(救済主)の到来を待つ。イエスキリストもそういう時期に出現した。
新約聖書にも偽メシアに気を付けろ!と何度も出てくるが、本当のメシア(救済主)か偽のメシア(救済主)か、というのはなんとも難しい話だ・・・。
実際、あらゆる新興宗教が「わたしこそが新時代のメシア(救済主)である!」と主張するし、そのことを証明することは誰にもできない。。。。


キリスト教では神の国の到来を期待する。そして、メシア(救済主)を待つ。
だが、だれも来ない。待つ。
だが、だれも来ない・・・・。
なんだか、こういう状況を戯画化しているようにも感じられた。


待ち人は、おそらく常に来ない。

誰かを外に待ち続けるのではなく、この世を救うのは自分自身もその構成要素としてあるのではないか。
自分を救うのは自分であり、世界を救うのも自分。

それぞれが、出来る範囲でこの世界をよりよくするために協力するということ。
それぞれに何かの役割がある。何かをする役目がある人と、存在としてあり続けることが役目の人もある。
そういうことを示唆しているようにも感じられた。
待ち人は、常に来ないのだ。

イエス・キリストは、そういうメシア(救済主)願望にあてはまるようパウロが神格化した、というのはよく言及される(小室直樹氏)。
物事にはいろんな見方があるけれど、そういう風な視点も感じた。

そうなると、メシア(救済主)とは、果たしてなんなのだろうか?
「救われる」「救う」とは、果たしてどういう状態なんだろうか??
自分の中で問いが問いを生む。頭の中を色んなことがグルグルと巡る。
演劇で解答を与えられるのではなく、問いを与えられるようなもの。


待ち人は来ない。
と書いていてふと思い出すのが、人と人との出会い、というのもそういうものだと思う。
どこかで素晴らしい出会いがあるといいな、白馬の王子様、絶世の美女・・・など。
頭の中で夢想するのは無限にできるのだけど、おそらく待ち続けていても待ち人は来ない。
そこには何らかの自分なりの働き掛けが必要。
そうしないと、出会っていても気付かない。
待ち人はもう来ているのかもしれない。
でも、それに『気付く』かどうかということは、本人に委ねられている主観的なものだ。
そこに客観的な基準は存在しないのだろう。


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他にも印象的だったのが、ポッツォと従者・ラッキーの関係性。
従者・ラッキーは、ポッツォの支配下で自由意思もなく考える力も奪われている。首には常に紐が巻かれていて、ポッツォはその紐を引っ張り従者・ラッキーを常に支配する。
ある意味でと従者・ラッキーは言いなりになっているのだが、それは従者・ラッキーが望んでいることなのだ、というセリフもあった。
共依存関係の罠。I'm not OKを強化するには、You are not OKという人と関係性を結ぶことが簡単だ。
自分もいつの間にかそういう構造に絡み取られていやしまいか、と、今の社会構造全体を改めて色々と考え直してしまった。



他に、ポッツォのセリフで、<誰かが痛みを感じると、それは誰かが痛まなくなったということ。そうして総量は不変のままで移動しているだけで、誰かが肩代わりしているのだ>というセリフもあった。人という一個体内で痛みを捉えるのか、人類全体として痛みを捉えるのか。


演劇の第2部ではポッツォは目が見えなくなり、従者・ラッキーは何もしゃべれなくなっている。これも色んなことを示唆していると思った。

<見ざる言わざる聞かざる>は、知らないふりをしているという解釈もできるけれど、僕らは本当のものを見ようとしない、聞こうとしない、言おうとしない、ということも意味している。そういう虚構やバーチャル(自然と切れたあたまだけの世界)の世界を示唆しているようにも感じられた。




とにかく。
いろんなメタファーがちりばめられていて、とても奥深い作品だった。
理性を通してみるというより、夢を見るようにイメージ世界で見るような演劇だと思った。
理性の解釈を拒み、イメージ全体として把握するような世界。


ミヒャエル・エンデが、父である画家のエドガー・エンデを語った「闇の考古学 画家エドガー・エンデを語る」(2012-11-21)を思い出しました。
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ミヒャエル・エンデ『闇の考古学 画家エドガー・エンデを語る』
「父の頭に浮かんだもの、それは事象であり、絵(イメージ)だったわけですが、父はそれを自分で解釈しないように苦労していました。
いつも気にかかっていたこと、それはゲハイムニス(秘密・神秘・不可思議)ということでした。
不条理というのは神秘的ではない、と父は言っていました。」
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「わからないということには2種類あり、違うものなのです。不条理は知性のレベルでは理解できません。パラドックスです。
父の考えていたのは、むしろ神話的なもの、形而上学的なもので、それが理解できないのは神話的であり続けているからなのです。考えの前に来るからだ、と父は言っていました。それはどんな考えよりも根源的なのです。」
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人間の知性が解釈しようとする一歩前の場所。

知性や理性が合理的に解釈しようとするのを常によけてすり抜けるような世界。
そこで知性や理性の喪失を僕らは疑似体験し、赤ん坊のような原始感覚に戻ることができるのでしょう。



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いろんなことをイメージしすぎて、言葉で書くときりがない・・・。

とまあ、こんな感じでダラダラ書いている事自体が「粋」ではない気もします。


下北の実際の劇場も、客席と演者との距離が近くて、臨場感が素晴らしかった!息遣いが感じられるのが素晴らしい。

とにかく。
是非ともお薦めです!!
(もう売り切れで見れないかもしれない・・・)



東京ノーヴイ・レパートリーシアター
「ゴドーを待ちながら」
めちゃくちゃ面白かった・・・。