■自我(ego)抜け
仕事で高齢者の方々と会うことが多い。
ただ、なぜか日常生活ではあまり会うことがない。
そう考えると、仕事を通して貴重な経験をさせてもらっていると感じている。
80歳以上もすごいけれど、90歳以上や100歳以上となると、誰もが生き神様のように見えてくる。
自我(ego)がどんどん抜けた、「存在感」の力はすさまじいものがある。
「ただ、いる」「ただ、ある」「ただ、生きる」ということの意味をひしひしと感じる。
今年で101歳になる詩人のまど・みちおさんの「百歳日記」(日本放送出版協会 (2010/11/6))を読んで、まど・みちおさんの在り方を見ても、そう思った。
(この本はNHKスペシャル「ふしぎがり~まど・みちお百歳の詩」が下敷きになっているらしい)
ただ、自我(ego)がどんどん抜けるのとは逆に、被膜がはがれるように「自我(ego)の塊」と化する人もいる。
それもまた、自分にとっては一つの在り方として、学びになる。
■「はじめに行為ありき」
ゲーテ『ファウスト』の中に、聖書の「はじめに言葉ありき」の箇所を、「はじめに業(ワザ)ありき」に書き換えるシーンがある。
業(ワザ)とは、行為のこと、行動のこと。
82歳まで生きたゲーテ。
全てを学び尽くしたゲーテ人生総まとめの結論は重い。考え尽くした人だからこそ、言える言葉だ。
そして、それはすごく共感できることでもある。
================================
ゲーテ「ファウスト 第一部」相良守峯訳(岩波文庫)P86
================================
こう書いてある、「太初(はじめ)に言葉ありき。」
もうここでおれはつかえる。誰かおれを助けて先へ進ませてはくれぬか。
言葉というものを、おれはそう高く尊重することはできぬ。
おれが正しく霊の光に照らされているなら、
これと違った風に訳さなくてはなるまい。
こう書いてみる、「太初(はじめ)に意味(こころ)ありき。」
軽率に筆をすべらせぬよう、
第一句を慎重に考えねばならぬ。
一切のものを創り成すのは、はたして意味(こころ)であろうか。
こう書いてあるべきだ、「太初(はじめ)に力ありき。」
ところが、おれがこう書き記しているうちに、
早くもこれでは物足りないと警告するものがある。
霊の助けだ。おれは咄嗟に思いついて、
確信をもってこう書く、「太初(はじめ)に業(ワザ)ありき。」
================================
================================
ゲーテ「ファウスト 第一部」池内紀訳(集英社文庫ヘリテージシリーズ)P74
================================
これはどうだ、「初めに言葉ありき」。
はやくもこだわってしまうのだが、さて、どうしたものか。
初めに言葉とは、うなずけない。べつのものに変えなくては。
これでどうだ、「初めに思いありき」。
ゆっくり落ち着いて、みだりにペンを走らせぬこと。
「思い」ですべてがあらわせたのか。
何であれ生み出して動かすのは「思い」であろうか。
むしろ、これはどうだ、「初めに力ありき」。
書いたとたんに、ぴったりしないのがよくわかった。
霊が助け船を出してくれたのか、ひらめいたぞ、こうだ、
「初めに行為ありき」。
================================
(*「ファウストは」、日本語訳の仕方で全然変わっちゃいますが、
読まれる方は、相良守峯訳(岩波文庫)の方を強くお薦めします。)
「ひとには優しく。親切に。怒らないように」「相手の気持ちに立って考える」・・・・
大事なことなんて、コトバの上では、幼稚園でほぼ全て習っていると思う。
あとは、それをいかに行動に移すかなのだろう。
いろんな現実の制約の中で、そのコトバの本質を実際にやり通すこと。
言葉も思考も、行動に移さない言い訳を考え尽くすために多大な時間とエネルギーを使いがちだ。
96歳のおばあちゃんで、仕事で接するたびに「ありがたいことだ、ありがたいことだ」と(こちらは何もしていないのに)、何十回となく言ってくれる人がいる。
心の中で<生き神様><生き仏様>と思って接しているけれど、周期的にそういう人に会って話すだけで、自分の中から邪気が抜き取られるようだ。
■未来
お年寄りを排除した社会は、自分たちの「未来」を人為的に見えなくした社会だから、人の心の中に何か歪みを生むと思う。
お年寄りを大切にしないということは、僕らの「未来」を大切にしないということ。
お年寄りは、僕らにとってすごく大事な存在だ。
「未来」は、向こうにあるかもしれないけど、ここにもある。
「生きる」という大きな仕事を終えようとしている人たちから、コトバ以外の「生きる」ことを、「生きている」僕らが学ぶことは多い。
「生きる」ということを、観念的に頭の中だけ考えると、それは「コトバ」だけで終わる。
「何のために生きているのか」「生きているとはどういうことか」・・・
それは、あくまでも「コトバ」だ。
観念的な「コトバ」をこねくりまわすだけだと、「コトバ」が別の「コトバ」へと変換されただけで終わることがある。
お年寄りの方々。「生きる」という実践をやり通した人たちは、「コトバ」だけではない「行動」が伴っている。
よろこび、かなしみ、たのしさ、つらさ、うれしさ、・・・・・・
お年寄りは、この世に存在している無数の「コトバ」すべてを体験しているはずだと思う。
そんなことは、「コトバ」で言わなくても、笑顔の奥から感じるものだ。
ひとは、永遠に生きるわけではない。
人間の寿命に、確かに長いや短いはあるだろう。
長く生きれば生きるほど、よろこびも多いだろう。そして、同じ程度に、かなしみも多い。
きっと、立体的に全体を見てみると、2次元では円形、3次元では球形になっていて、すべてはプラスマイナスでゼロになるように、うまい具合にアレンジされるような気がする。
「長い人生を生き切った」という「行為」が伴ったお年寄りから、僕らが学ぶことは無限にあるように感じている。
そこには、観念的な「コトバ」ではなくて、「行為」や「実践」があるのだから。
仕事で高齢者の方々と会うことが多い。
ただ、なぜか日常生活ではあまり会うことがない。
そう考えると、仕事を通して貴重な経験をさせてもらっていると感じている。
80歳以上もすごいけれど、90歳以上や100歳以上となると、誰もが生き神様のように見えてくる。
自我(ego)がどんどん抜けた、「存在感」の力はすさまじいものがある。
「ただ、いる」「ただ、ある」「ただ、生きる」ということの意味をひしひしと感じる。
今年で101歳になる詩人のまど・みちおさんの「百歳日記」(日本放送出版協会 (2010/11/6))を読んで、まど・みちおさんの在り方を見ても、そう思った。
(この本はNHKスペシャル「ふしぎがり~まど・みちお百歳の詩」が下敷きになっているらしい)
ただ、自我(ego)がどんどん抜けるのとは逆に、被膜がはがれるように「自我(ego)の塊」と化する人もいる。
それもまた、自分にとっては一つの在り方として、学びになる。
■「はじめに行為ありき」
ゲーテ『ファウスト』の中に、聖書の「はじめに言葉ありき」の箇所を、「はじめに業(ワザ)ありき」に書き換えるシーンがある。
業(ワザ)とは、行為のこと、行動のこと。
82歳まで生きたゲーテ。
全てを学び尽くしたゲーテ人生総まとめの結論は重い。考え尽くした人だからこそ、言える言葉だ。
そして、それはすごく共感できることでもある。
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ゲーテ「ファウスト 第一部」相良守峯訳(岩波文庫)P86
================================
こう書いてある、「太初(はじめ)に言葉ありき。」
もうここでおれはつかえる。誰かおれを助けて先へ進ませてはくれぬか。
言葉というものを、おれはそう高く尊重することはできぬ。
おれが正しく霊の光に照らされているなら、
これと違った風に訳さなくてはなるまい。
こう書いてみる、「太初(はじめ)に意味(こころ)ありき。」
軽率に筆をすべらせぬよう、
第一句を慎重に考えねばならぬ。
一切のものを創り成すのは、はたして意味(こころ)であろうか。
こう書いてあるべきだ、「太初(はじめ)に力ありき。」
ところが、おれがこう書き記しているうちに、
早くもこれでは物足りないと警告するものがある。
霊の助けだ。おれは咄嗟に思いついて、
確信をもってこう書く、「太初(はじめ)に業(ワザ)ありき。」
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ゲーテ「ファウスト 第一部」池内紀訳(集英社文庫ヘリテージシリーズ)P74
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これはどうだ、「初めに言葉ありき」。
はやくもこだわってしまうのだが、さて、どうしたものか。
初めに言葉とは、うなずけない。べつのものに変えなくては。
これでどうだ、「初めに思いありき」。
ゆっくり落ち着いて、みだりにペンを走らせぬこと。
「思い」ですべてがあらわせたのか。
何であれ生み出して動かすのは「思い」であろうか。
むしろ、これはどうだ、「初めに力ありき」。
書いたとたんに、ぴったりしないのがよくわかった。
霊が助け船を出してくれたのか、ひらめいたぞ、こうだ、
「初めに行為ありき」。
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(*「ファウストは」、日本語訳の仕方で全然変わっちゃいますが、
読まれる方は、相良守峯訳(岩波文庫)の方を強くお薦めします。)
「ひとには優しく。親切に。怒らないように」「相手の気持ちに立って考える」・・・・
大事なことなんて、コトバの上では、幼稚園でほぼ全て習っていると思う。
あとは、それをいかに行動に移すかなのだろう。
いろんな現実の制約の中で、そのコトバの本質を実際にやり通すこと。
言葉も思考も、行動に移さない言い訳を考え尽くすために多大な時間とエネルギーを使いがちだ。
96歳のおばあちゃんで、仕事で接するたびに「ありがたいことだ、ありがたいことだ」と(こちらは何もしていないのに)、何十回となく言ってくれる人がいる。
心の中で<生き神様><生き仏様>と思って接しているけれど、周期的にそういう人に会って話すだけで、自分の中から邪気が抜き取られるようだ。
■未来
お年寄りを排除した社会は、自分たちの「未来」を人為的に見えなくした社会だから、人の心の中に何か歪みを生むと思う。
お年寄りを大切にしないということは、僕らの「未来」を大切にしないということ。
お年寄りは、僕らにとってすごく大事な存在だ。
「未来」は、向こうにあるかもしれないけど、ここにもある。
「生きる」という大きな仕事を終えようとしている人たちから、コトバ以外の「生きる」ことを、「生きている」僕らが学ぶことは多い。
「生きる」ということを、観念的に頭の中だけ考えると、それは「コトバ」だけで終わる。
「何のために生きているのか」「生きているとはどういうことか」・・・
それは、あくまでも「コトバ」だ。
観念的な「コトバ」をこねくりまわすだけだと、「コトバ」が別の「コトバ」へと変換されただけで終わることがある。
お年寄りの方々。「生きる」という実践をやり通した人たちは、「コトバ」だけではない「行動」が伴っている。
よろこび、かなしみ、たのしさ、つらさ、うれしさ、・・・・・・
お年寄りは、この世に存在している無数の「コトバ」すべてを体験しているはずだと思う。
そんなことは、「コトバ」で言わなくても、笑顔の奥から感じるものだ。
ひとは、永遠に生きるわけではない。
人間の寿命に、確かに長いや短いはあるだろう。
長く生きれば生きるほど、よろこびも多いだろう。そして、同じ程度に、かなしみも多い。
きっと、立体的に全体を見てみると、2次元では円形、3次元では球形になっていて、すべてはプラスマイナスでゼロになるように、うまい具合にアレンジされるような気がする。
「長い人生を生き切った」という「行為」が伴ったお年寄りから、僕らが学ぶことは無限にあるように感じている。
そこには、観念的な「コトバ」ではなくて、「行為」や「実践」があるのだから。