「家にいるときって何してるんですか?」
と聞かれることがあります。
ただ、この返答にはいつも困ります。
「基本的には本を読んで、疲れたらテレビを見て、音楽を聞きたくなったら音楽をかけ、のどが乾いたらお茶を飲むかコーヒーをつくる。眠くなったら眠り、おなかが空いたら食材を買いに行って料理する。その合間に洗濯をして、掃除をする。
するとまた本が読みたくなり、疲れたらテレビを見て、・・・・」
正直に答えると、こういう返事になるのですが、これははたして返事になっているのかどうか、いまだによくわかりません。
・・・・・・・・・・・
「家にいるときって何してるんですか?」
「実はね。自分は家の中では、毎日ぐるぐると回転しているんだ。これは魔術的な儀式とも言えるし無邪気な子供の遊びとも言える。
地球は地軸に対して自転していて、地球そのものも太陽を公転している。太陽や地球を含む太陽系も何かの周りをきっと回っているだろう。そして、その何かも何かの周りを回るし、何かの何かも、何かの何かの何かの周りをきっと回っている。・・・この世界はそれが永遠に続くんだ。スピンと共にね。
終わりはないよ、終わりっていうのは始まりっていうことと同じことだからね。
地球の赤道付近では、地球の自転速度は1時間で1674kmと言われている。秒速465mくらいの速さだ。
そして、その地球が太陽の周りを公転いている速さは秒速30km近くもある。その太陽系が銀河系を公転する速度は秒速220kmもある。
そうして、どんどん回転は速くなっているんだ。遠くで周る巨大なものほど、とんでもないスピードで回転している。
回転しているコマは止まって見えるように、この世界そのものが回転していても止まっているように見えているだけで、それは錯覚なんだ
。この生きている世界はとんでもない速さで回転し続けている。そして、巨大になればなるほど増幅していく。想像するだけで目がまわりそうだ。
もっとも小さい概念である電子やクォークなどの素粒子もスピンという角運動量を持つんだ。
フェルミ粒子(フェルミオン)はスピン角運動量の大きさが、プランク定数hを2πで割った値の半整数倍の粒子のこと。
フェルミオンにはクォークやレプトンである電子、ミュー粒子、ニュートリノがある。
「パウリの排他原理」というのがあって、2つ以上のフェルミオンが同じ量子状態を持つことはできない、とされている。だから、フェルミオンの世界では同じ場所に同じものが重なることができない。
ただ、それに対して、ボース粒子 (ボソン)というものもある。これはスピン角運動量の大きさがプランク定数hを2πで割った値の整数倍になる粒子のこと。
ボソンには、素粒子間の相互作用を媒介するゲージ粒子である光子や、ウィークボソン、グルーオン (いずれもスピン1) がある。重力を媒介するゲージ粒子の重力子 (グラビトン) がスピン2のボース粒子と考えられている。他にも、素粒子に質量を与えるヒッグス粒子はスピン0のボソンと考えられているし、中間子もボソンだ。
ボソンは「パウリの排他原理」の拘束を受けないとされているので、1つの体系内で色んな粒子が同じ量子状態をとることができるんだ。
言いかえれば、ボソンは時間や空間の同じ場所に幾つも重なって存在できるのに対して、フェルミオンはエネルギー的に異なった状態に分かれて存在する。これが二つの粒子の大きな違いだ。
フェルミオンの性質のおかげで、物と物とは同じ空間に重なって存在できない。だから、日常では僕らが何かを通り抜けてしまうことは起こらない。
ただ、ボソンは「パウリの排他原理」に従わなくていい。だから、僕らが日常的に生活している空間や時間の概念が、そもそもないんだ。全然違う世界になる。
僕らが眠って夢を見ている時を想像してほしい。そこでは空間や時間の概念が全くなくなるけれど、そのことを不思議だとも思わない。ボソンはそういう世界と同じようなものだね。
きっと、不可思議な現象っていうのは、こういうボソンのような世界のことを言うんだと思うな。
もちろん、時間や空間、そういう常識や先入観や偏見を捨ててしまえば、どんなものも不思議でも何でもない当たり前のことだとも言えるし、そもそもどんなものでも不思議に溢れている、とも言えるんだけど。
このフェルミオンやボソンのことが理解しにくいのは、<光は波動と粒子の2面性を同時に持つ>という概念が理解しにくいのと同じようなものだ。ちなみに、光(光子)はボソン(ボース粒子)の世界だよ。
なぜなら、この説明は人間がアナロジーや比喩で理解できるようにした概念にすぎないからだ。それは脳内イメージを作るための方便でしかない。
人間は自分が理解できるものしか理解することができないし(当たり前のことだ)、思わず道を間違えてしまうと、いくらでも自然の世界を捻じ曲げて理解したつもりになる、っていうことでもあるんだ。
この自然界に起きているものを僕ら人間が理解しようとするとき、人間はアナロジーや比喩でしか理解することができない。 理解を越えたものを理解する手段を僕らは持たないんだ。
そういうとき、<直感>で理解する、と言うと素敵なことだけれど、それは非常にあやふやなものだ。どうとでも言えてしまうものでもあるからね。<直感>さえあれば、この世のすべてのことが自分ひとりだけ独立して分かるということにもなってしまう。
そう考えると、人間は<直感>という概念も含めて、なんでも自分に都合よく使ってしまうんだろうね。
ちなみに、素粒子の「クォーク」という名称は、クォークモデルの提唱者の一人マレー・ゲルマンが1963年に名付けた。 それは、ジェイムズ・ジョイスの小説『フィネガンズ・ウェイク』中のカモメの鳴き声「quark」から付けたんだよ。これはとても示唆的だね。
僕らの極小の世界を構成しているのは、カモメの鳴き声、なんだ。カモメの鳴き声が、世界を構成している。
カモメがquark!!と鳴いて生まれたクォークがスピンしているように、そのクォークで構成された人間もスピンしているし、地球も太陽系もスピンしている。
じゃあ、その地球の自転はどこから生まれたんだろう。
宇宙ができたとき、星の超新星爆発で衝撃波が起こった。その衝撃波がスピンするための角速度を宇宙に与えたんだ。分子の雲は回転しながら次第に押し潰される。ガスや塵が重力で凝集して寄り集まることで惑星の原型ができてくる。 この最初の角速度を保存するために、集まった質量はさらに早く回転しようとする。 ちなみに、質量はエネルギーが一番効率よく集まっている形に過ぎないから、形はあってもなくてもどちらでもいいんだ。それは単に目に見えるか見えないかの違いにすぎない。色即是空、空即是色とはよく言ったものだ。
時速1674km、秒速465mにもなる地球の自転速度は、このはじめの回転が数十億年も保存され続けている結果なんだ。
もちろん、そのはじまりの、さらにはじまり・・・となると、とんとわからない。
でも、この世界にはどこにも切れ目がないように、はじまりとおわりはつながっているんだよ。はじまりを追いかけ過ぎると、いつのまにか終わりに来てしまうし、終わりを追い求めすぎると、いつのまにかはじまりに来てしまう。だから、なんでもほどほどにしておいた方がいいんだ。
地球も星も、宇宙そのものも、スピンし回転し続けている。
<その回転運動と逆方向に回転してこの世界のバランスをとらないといけない>と考える人がいてもおかしくないだろう。
だから、一部のひとたちは夜な夜な集い、この世界の均衡のために無心にスピンし続けているってわけだ。
もちろん、回りすぎると最終的にはいつのまにかバターになっちゃうよね。それは絵本に書いてある。ちびくろサンボだっけ。そのバターを僕らはスーパーで買って食べているのかもしれないし、それは単なるおとぎ話かもしれない。 まあこの世界は謎に満ちているから、ほんとうのところはよくわからないんだけどね。・・・・・」
・・・・・・・・・・
こんなことを妄想していると無限に続きます。
「家にいるときって何してるんですか?」の返事でこんな壮大なことを期待しているわけでもないし。そんなのは言わずもがなです。
「家にいるときって何してるんですか?」という質問には、迷いながらも「読書、テレビ、音楽、お茶、コーヒー、眠り、料理、洗濯、掃除」のどれかひとつ、もしくはすべてを答える羽目になるわけです。
・・・・・・・・・・・・
当直中で夜中に無駄にダラダラ起きています。
いつものことでもありますが、考えることも書くことも、余計ダラダラしてくるのは困ったものです。よい子は早く寝ましょう。
と聞かれることがあります。
ただ、この返答にはいつも困ります。
「基本的には本を読んで、疲れたらテレビを見て、音楽を聞きたくなったら音楽をかけ、のどが乾いたらお茶を飲むかコーヒーをつくる。眠くなったら眠り、おなかが空いたら食材を買いに行って料理する。その合間に洗濯をして、掃除をする。
するとまた本が読みたくなり、疲れたらテレビを見て、・・・・」
正直に答えると、こういう返事になるのですが、これははたして返事になっているのかどうか、いまだによくわかりません。
・・・・・・・・・・・
「家にいるときって何してるんですか?」
「実はね。自分は家の中では、毎日ぐるぐると回転しているんだ。これは魔術的な儀式とも言えるし無邪気な子供の遊びとも言える。
地球は地軸に対して自転していて、地球そのものも太陽を公転している。太陽や地球を含む太陽系も何かの周りをきっと回っているだろう。そして、その何かも何かの周りを回るし、何かの何かも、何かの何かの何かの周りをきっと回っている。・・・この世界はそれが永遠に続くんだ。スピンと共にね。
終わりはないよ、終わりっていうのは始まりっていうことと同じことだからね。
地球の赤道付近では、地球の自転速度は1時間で1674kmと言われている。秒速465mくらいの速さだ。
そして、その地球が太陽の周りを公転いている速さは秒速30km近くもある。その太陽系が銀河系を公転する速度は秒速220kmもある。
そうして、どんどん回転は速くなっているんだ。遠くで周る巨大なものほど、とんでもないスピードで回転している。
回転しているコマは止まって見えるように、この世界そのものが回転していても止まっているように見えているだけで、それは錯覚なんだ
。この生きている世界はとんでもない速さで回転し続けている。そして、巨大になればなるほど増幅していく。想像するだけで目がまわりそうだ。
もっとも小さい概念である電子やクォークなどの素粒子もスピンという角運動量を持つんだ。
フェルミ粒子(フェルミオン)はスピン角運動量の大きさが、プランク定数hを2πで割った値の半整数倍の粒子のこと。
フェルミオンにはクォークやレプトンである電子、ミュー粒子、ニュートリノがある。
「パウリの排他原理」というのがあって、2つ以上のフェルミオンが同じ量子状態を持つことはできない、とされている。だから、フェルミオンの世界では同じ場所に同じものが重なることができない。
ただ、それに対して、ボース粒子 (ボソン)というものもある。これはスピン角運動量の大きさがプランク定数hを2πで割った値の整数倍になる粒子のこと。
ボソンには、素粒子間の相互作用を媒介するゲージ粒子である光子や、ウィークボソン、グルーオン (いずれもスピン1) がある。重力を媒介するゲージ粒子の重力子 (グラビトン) がスピン2のボース粒子と考えられている。他にも、素粒子に質量を与えるヒッグス粒子はスピン0のボソンと考えられているし、中間子もボソンだ。
ボソンは「パウリの排他原理」の拘束を受けないとされているので、1つの体系内で色んな粒子が同じ量子状態をとることができるんだ。
言いかえれば、ボソンは時間や空間の同じ場所に幾つも重なって存在できるのに対して、フェルミオンはエネルギー的に異なった状態に分かれて存在する。これが二つの粒子の大きな違いだ。
フェルミオンの性質のおかげで、物と物とは同じ空間に重なって存在できない。だから、日常では僕らが何かを通り抜けてしまうことは起こらない。
ただ、ボソンは「パウリの排他原理」に従わなくていい。だから、僕らが日常的に生活している空間や時間の概念が、そもそもないんだ。全然違う世界になる。
僕らが眠って夢を見ている時を想像してほしい。そこでは空間や時間の概念が全くなくなるけれど、そのことを不思議だとも思わない。ボソンはそういう世界と同じようなものだね。
きっと、不可思議な現象っていうのは、こういうボソンのような世界のことを言うんだと思うな。
もちろん、時間や空間、そういう常識や先入観や偏見を捨ててしまえば、どんなものも不思議でも何でもない当たり前のことだとも言えるし、そもそもどんなものでも不思議に溢れている、とも言えるんだけど。
このフェルミオンやボソンのことが理解しにくいのは、<光は波動と粒子の2面性を同時に持つ>という概念が理解しにくいのと同じようなものだ。ちなみに、光(光子)はボソン(ボース粒子)の世界だよ。
なぜなら、この説明は人間がアナロジーや比喩で理解できるようにした概念にすぎないからだ。それは脳内イメージを作るための方便でしかない。
人間は自分が理解できるものしか理解することができないし(当たり前のことだ)、思わず道を間違えてしまうと、いくらでも自然の世界を捻じ曲げて理解したつもりになる、っていうことでもあるんだ。
この自然界に起きているものを僕ら人間が理解しようとするとき、人間はアナロジーや比喩でしか理解することができない。 理解を越えたものを理解する手段を僕らは持たないんだ。
そういうとき、<直感>で理解する、と言うと素敵なことだけれど、それは非常にあやふやなものだ。どうとでも言えてしまうものでもあるからね。<直感>さえあれば、この世のすべてのことが自分ひとりだけ独立して分かるということにもなってしまう。
そう考えると、人間は<直感>という概念も含めて、なんでも自分に都合よく使ってしまうんだろうね。
ちなみに、素粒子の「クォーク」という名称は、クォークモデルの提唱者の一人マレー・ゲルマンが1963年に名付けた。 それは、ジェイムズ・ジョイスの小説『フィネガンズ・ウェイク』中のカモメの鳴き声「quark」から付けたんだよ。これはとても示唆的だね。
僕らの極小の世界を構成しているのは、カモメの鳴き声、なんだ。カモメの鳴き声が、世界を構成している。
カモメがquark!!と鳴いて生まれたクォークがスピンしているように、そのクォークで構成された人間もスピンしているし、地球も太陽系もスピンしている。
じゃあ、その地球の自転はどこから生まれたんだろう。
宇宙ができたとき、星の超新星爆発で衝撃波が起こった。その衝撃波がスピンするための角速度を宇宙に与えたんだ。分子の雲は回転しながら次第に押し潰される。ガスや塵が重力で凝集して寄り集まることで惑星の原型ができてくる。 この最初の角速度を保存するために、集まった質量はさらに早く回転しようとする。 ちなみに、質量はエネルギーが一番効率よく集まっている形に過ぎないから、形はあってもなくてもどちらでもいいんだ。それは単に目に見えるか見えないかの違いにすぎない。色即是空、空即是色とはよく言ったものだ。
時速1674km、秒速465mにもなる地球の自転速度は、このはじめの回転が数十億年も保存され続けている結果なんだ。
もちろん、そのはじまりの、さらにはじまり・・・となると、とんとわからない。
でも、この世界にはどこにも切れ目がないように、はじまりとおわりはつながっているんだよ。はじまりを追いかけ過ぎると、いつのまにか終わりに来てしまうし、終わりを追い求めすぎると、いつのまにかはじまりに来てしまう。だから、なんでもほどほどにしておいた方がいいんだ。
地球も星も、宇宙そのものも、スピンし回転し続けている。
<その回転運動と逆方向に回転してこの世界のバランスをとらないといけない>と考える人がいてもおかしくないだろう。
だから、一部のひとたちは夜な夜な集い、この世界の均衡のために無心にスピンし続けているってわけだ。
もちろん、回りすぎると最終的にはいつのまにかバターになっちゃうよね。それは絵本に書いてある。ちびくろサンボだっけ。そのバターを僕らはスーパーで買って食べているのかもしれないし、それは単なるおとぎ話かもしれない。 まあこの世界は謎に満ちているから、ほんとうのところはよくわからないんだけどね。・・・・・」
・・・・・・・・・・
こんなことを妄想していると無限に続きます。
「家にいるときって何してるんですか?」の返事でこんな壮大なことを期待しているわけでもないし。そんなのは言わずもがなです。
「家にいるときって何してるんですか?」という質問には、迷いながらも「読書、テレビ、音楽、お茶、コーヒー、眠り、料理、洗濯、掃除」のどれかひとつ、もしくはすべてを答える羽目になるわけです。
・・・・・・・・・・・・
当直中で夜中に無駄にダラダラ起きています。
いつものことでもありますが、考えることも書くことも、余計ダラダラしてくるのは困ったものです。よい子は早く寝ましょう。
「家にいるとき何をしてるんですか」っていう質問は、「趣味は何ですか」と同じ匂いがします。「趣味って言えるほどのものはないんだけど…」って。
趣味は何ですか?
そうですね。家にいてやることなんて、そうみんな変わりないような気がします。
別に掃除や料理が趣味というわけでもないので・・。ただ、掃除や料理も嫌いではないですね。
ヨガもされるのですね。自分もかなり興味あります。いつか機会さえあればほんとにやりたい。ヨガの身体技法にも、呼吸法にも、インド哲学そのもの(ウパニシャッド、バガバッドギーター、ヴェーダ、アーユルヴェーダ・・・)にも興味大ありなので。
ただ、ヨガはインド人のような手足の長いゴムのような体型の人たちにこそちょうどいい動きのような気がして、自分のような純日本人的体型の人間にあそこまですごい動きができるのか・・と、やや不安でもあります。 そうはいうものの、週に1回は重力に反するようにクライミングをしているのですが、そのときの動きが軟体人間のようだ、と、評されることが多いので、ヨガの動きも試みたいもののひとつです。
趣味、っていう質問も、よく聞かれることがおおい質問ですよね。
いつも、どうこたえよう・・と、かなり困ってしまいますねぇ。
基本的には読書とマンガ・・と答えているようなな気がします(もっと素敵な趣味があれば!)・・
アウトドアだと、週に1回は外でクライミングをしているので、趣味といえるような気もしますし、学生の時は毎週のように登山に行ってましたので、趣味は登山、と胸をはって言ってましたが、今は夏休み(もともと、年間でもらえる休みが1週間しかないもので)の1週間休み全部をつかって登山に行く、ってことくらいが、室外でやる趣味のようなものですねぇ。
けっきょく「趣味って言えるほどのものはないんだけど…」っていう同じ答えになっちゃいますね。
そういえば、この質問は仕事の同僚に聞かれたんですよね。
「わたしは家に帰ってもやることないからお酒ばかり飲んでいる。あなたみたいにお酒を飲まない人は、その退屈な時間を家でどうして過ごしているのか」
と聞かれて、「退屈なんてとんでもない。家に帰るとそこからが忙しいですよ。仕事も真剣勝負だけど家でも真剣です。まずは読みたい本が星のように無数に積読してあるから、今日は何の本を読もうか、文学、仏教、医学・科学関係、物理関係、・・・ それだけでもう時間が足りないし、眼が疲れたらみたい映画もいっぱいあるし、・・・もう家に帰ってからがやりたいこと多くて、お酒飲んでる暇ないですよ。
むしろ、最近は鹿児島の知覧の日本茶がおいしいなぁと思ってるくらいで・・あと、最近はヨーグルトを作っているというか、牛乳の中で乳酸菌を育てて自家製ヨーグルトに手を出しているので、生きている乳酸菌くんが死なないように大変で・・」
とか、そんな会話があって、それで上のようなことをふと書いた覚えがあります。ほんと、どうでもいい話ですね。笑
・・・・・・
個人的には「好きなもの・好きなひとはなんですか?」の方が答えやすいですね。好きなものなら山ほどありますし、愛情あるんで、話にも熱が入ります。
登山とかに関しては、趣味というよりライフスタイルに近いところもあって、生き様に近いよなところもありますしね。
基本的に自分の体一つで生きていく、っていうのは登山から学んだ気がしますし。
<人間、無一物>(人間ははだかで生まれて裸で生きていく)っていう感覚でしょうか。
なんか、話が脱線しました・・・。